気楽にブログ
恋は水色
あるのかないのか、よくわからないものとして思いつくのは「記憶」だ。記憶とは、一体何なのだろう。
特に記憶が、映像として思い起こせることに興味がある。目をつむり、過去に自分が体験したことを思い起こすと、映像として記憶が現れる。これは「ある」と言えるのだろうか。他の人は見ることができないのに?
ここで、例えば自分が過去に観た映画を思い起こしてみる。すると、その映像が思い起こされる。それは確かに見えている。この映像と自分の過去の経験の映像は、違うだろうか?「画面を通して観たことのある映像」と「自分が経験したことのある映像」は、見た目では同じように感じる。
だが、よくよく思い返してみる、自分が体験した過去の記憶を思い出していると、映像の他にも感じられることに気づく。例えばそれは、そのときの温度や風、匂い、手触り、といったものだ。映画を思い返してみても、それらの感じは得られない。
こうして考えてみると、記憶・思い出というものは、映像とともに、そのときに感じた感覚も一緒にあるものだ。映像としては映画のようだが、そこが決定的に違う。
中学の卒業式を終えたあとの、ある春の日。初恋の人とのデートは、彼女の表情だけではなく、そのときの風の感触までも思い出せる。春特有の暖かさから、夕方に風が少し冷たくなってきた、あの感触だ。たった1時間が2時間一緒に歩いて、ベンチに座っておしゃべりしただけの記憶の中に、たくさんのものが今でも「ある」
話した言葉、並んで歩いて少しだけ触れた手、埃の匂い、散歩道の固さ、あの子の笑顔。
映像も、言葉も、音も、感触も。
そして、そのときの自分の気持ちもまた、私は記憶しているのだ。
「今ぼくは世界一幸せだ」本気でそう感じていたことを。
恋のいいところは、思い出せるところだ。私がこの世にいるかぎり、それはこれからも「ある」だろう。
「二人でいることに照れて上を見上げたら、青い空と白い雲が見えた。そしてその際は、確かに水色だった」
と、最後のこの文だけは、記憶ではなくて創作なのだけれども。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)