気楽にブログ
誰が良いか迷います
共感と批判、他の人に対する自分の態度として、どちらか一方に振れている方が楽だ。
あいつは良い、正しい、好きだ
あいつは悪い 間違っている 嫌いだ
と、明確な区別をしてしまえば迷わない、つまり悩まないで済む。
そして、共感も批判も、その数が集まれば集まるだけ勢いが生まれ、その中の一人としての自分は、更に安心できる。
そして、その共感や批判が大きな力となり、決まり事や空気を変えていくことにもなるだろう。「より良い結果」をもたらしてくれる可能性がある。
だが一方で、その大きな力の危うさに気をつけることも大切だ。人間だから、支持できないところもあるし、間違えるところもある。全面的な支持は信仰に近づき、従属、暴走を生む恐れもあるだろう。
だから、今回の選挙も悩むのが普通だと思う。どっちがマシか、くらいでも構わないと思う。極端な共感や極端な批判は、余計な分断を生んでしまう。
丸ごとを信じられなくても、選ぶ判断はできると思う。「(これに関しては)支持する」「(今のところは)支持できる」くらいの感じで十分ではなかろうか。
常に「かもしれない」の可能性は否定できない。それでも、理屈と直感を頼りに選びたい。そしてそれは、更新され、訂正されていくものだとしておきたい。
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涙するまで生きる
暇な時間にアマプラで映画でも観ようかなと思っても、タイトルを見比べているだけで時間が過ぎてしまうことが多く、困っている。「これより、こっちのほうが面白いのでは?」と考え出すと、まるで決められない。
そんな中、ずっと気になっている映画が「涙するまで生きる」だ。いや、観たければ早く観れば良いのだが、何となく取っておきたいのだ。
内容はアルベール・カミュにまつわるものだと、解説を読んで知ったのだが、だから余計に「その時が来たら観たい」と思う。その時、というのが難しいのだが、その映画に自分がフィットしそうなタイミングという感じだ。
それまでは、内容を想像して楽しんでいる。「涙するまで生きる」おっさんの私は、普段は泣くことなどないのだが、それは、涙が流れるくらいの感動を得られてないのだろう。
「涙するくらいまでの感じで生きなきゃだぜ」そうカミュが言ってくれてる映画だと勝手に考えて、ヘコんで自分をちょっと盛り上げたいときに使っている。
あなたの暮らしに気楽時間
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キャラ化と調和について
マンガ、アニメ、ゲーム、これら日本が世界に誇るコンテンツを特徴付けるているのは「魅力的なキャラ」だろう。
よく言われるように、こんなにも沢山のキャラを生み出している国は他にないだろう(始まりました日本礼賛)。ディズニーも確かにキャラ作りに長けているが、既存の物語から拝借してきたものも多く、独創性は高いとは言えない。エレクトリックパレードはキラキラと壮観だが、もし藤子・F・不二雄の作ったキャラたちでパレードをしたら、軽く凌駕すると私は思う。
そう、藤子・F・不二雄はすさまじい。彼のことは後で語るが、他にはやはり手塚治虫、そして水木しげるは外せない。ジブリもポケモンもサンリオも、この二人の巨匠による動物のキャラ化、不思議な生き物(妖怪)のキャラ化の系譜なしではあり得ないだろう。
手塚治虫はディズニーの大ファンで、影響を多く受けたようだ。だが、私が思うに映画の見せ方という技法が主であって、キャラ作りはむしろディズニーが手塚治虫を真似ている。有名な例として、手塚の「ジャングル大帝」からのディズニーの「ライオンキング」というのがある。
主人公はライオンだ。ライオンがしゃべる。その違和感を、欧米はすぐには受け入れられなかっただろう。ドナルドダックやおさるのジョージを見てもわかるように、動物が流暢に話すことはない。この受け入れ(擬人化)が、とかく日本は得意だ。
そして擬人化までいかなくても、キャラ化なら、それこそ際限がない。欧米でも妖精や怪物、神話からキャラは作られるが、日本のポケモンの多さには遠く及ばない。そして、妖怪となるとさらに多い。なんせ「ぬりかべ」に「一反木綿」だ。もはや生き物ではなく「物」がキャラと化してしまう。
行き着く先は「機械」のキャラ化、そしてロボットだ。車だってしゃべる。猫型ロボットだってしゃべる。キャラ化したものたちが普通にしゃべるのを、日本人が受け入れられるようになったのは、前述した藤子・F・不二雄の功績が大きい。
ドラえもんのようなロボットが感情を持ち、友だちになれる。海底鬼岩城のバギーは車だが、同じく感情がある。チンプイは異星からやってきたし、オバケのQ太郎にいたっては、もはやそれが何なのか分からない。
これらキャラ化がもたらしてくれるもの、それは「受け入れや調和」だ。動物に対しても、宇宙人に対しても、物に対しても、そして機械やロボットに対しても、我々日本人は寛容だと思う。言葉がわかるはずだ、こう考えているはずだ。それが当然のこととして受け入れられて、ストーリーが続いていく。
それはマンガの世界だけではなく、現実につながっていく。西洋は区別することを「分ける」つまり「分かる」と考える。東洋は同一であることから世界を捉える。
もし明日、厚木にUFOが降り立っても、地底人が町田に姿を表しても、我々日本人は特に驚かないだろう。そう、何故ならドラえもんがいる国だから。何だかんだで最後はハッピーエンドになるのは、もう分かっているから。
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お、をつける
何だいスティーブ?日本語の「お」の付け方に規則性があるのかって?そうね、まあ考えたことないけど。考えてみようか。
そう、英語の「The」とも違うかな。というか、ウチ(内)らからしたら「a」とか「the」の付け方こそよく分からないけどね。それはともかく。
はじめに、日本語に「お」がつくのは「丁寧に言いたいとき」「相手に敬意を払いたいとき」だと思うぞ。politeとかrespectとかを表したいときかな。特にお客を相手にするときは大体つけとけばいい感じだ。元々は多分、相手を立てる「御」から来ているだろうな。「御社」とか。「ご」とかも言ったりするな。「ご本」とか「ご家族」とか。
で、大体名詞の前につく。そして大体の名詞にはつく。だから、例外だけを知っておけばいいんじゃないかな。
例えば体だと「お膝」これは言うね。「お耳」これも付く。でも「おくるぶし」とか「おふくらはぎ」は言わないな。「今からおふくらはぎをマッサージしますね」とは言わないなあ。なんでだろう。歯医者さんなら「お口」とは言うけど、床屋で「お髪」とは言わないな。うーん、共通点や規則性がいまいち分からないな。。
物だとどうだろう?お客様に対して「お車」これは言うな。でも、「お自転車」これは言わないな。「今日はお自転車でお越しですか?」とか聞いたことないな。「お鞄」「お財布」は言うけど、「おベルト」」言わないな。ん、分かった!一つ言えるのは、カタカナというか外来語にはつかないな、これは。
「おスマホ」とか「おヨット」とか「おスプーン」とか言わないな。相手がお客様や目上の方でも言わないな。なんでなんだろうな。なんかカタカナで「お」がつくものあるかな。。
あった!「おトイレ」これは言う。何でだ?
最後に食べ物で考えてみるか。「お芋」「お豆腐」「お味噌汁」大体なんでも付くな。でも「おスパゲッティ」とか「おカレー」とは言わないな。やっぱりカタカナには基本つかないな。「こちら美味しいおケーキですこと。ほほ」とかも違和感あるな。
ということで、相手に丁寧に話すときに、外来語ではない名詞につくことが見えてきたな。実はさっきの髪も「御髪」という言葉があるらしいぞ。「みぐし」と読むそうだ。
そして、話す相手に対する敬意とともに、「物そのもの」に対する敬意もあるとも言えそうだぞ。なんてったって、全ての物に神が宿っていると考える国だからな。「お水」「お湯」「お空」とかな。え、「木」とか「川」にはつかないって?「御木」「御川」ならつくんだな、これが。
「お言葉」「御霊」、形がなくたって何でもありだ。基本は、外来語カタカナでなければ何でも付くみたいだな。これから私は、ふくらはぎも「御ふくらはぎ」として、敬意を払うようにするよ。
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便利だから的な
私は気楽に屋の業務とともに、大和市で訪問リハビリを行っている。整体師と理学療法士の二刀流だ。自分のお店にいるだけでは気付けないことも、外で働くことで得ることができている。
で、厚木から国道246を使って大和市に行くのだが、通勤時間帯は混雑することこの上ない。そこで気になるのが、そのときの混雑状況となる。道路を走っていると、金田あたりで「大和橋まで〇〇分」という表示が出る。これをチェックすることで、見通しを立てられる。
大体は35分か45分、休日などは25分ということもある。しかし、ここで分からないのは、45分の次が、何故か53分なのである。25、35、45、53、この並びは、どうにも気持ち悪い。ここは55分でしょうと、いつもツッコミを入れたくなる。
これはテニスのカウントにも言える。15、30ときて、次は40なのだ。そして次は?となると、「0」になる。しかし、実はこれは0ではなく、60であることを私は知っている。60(4ポイント)取ったら1ゲーム。つまり、60進法だ。40が実は45で、それがいつの間にか(言いにくいから)40になったらしい。
60進法というのは、例えば時間で使われている。1時間は60分だ。以前、小学生の娘に、30分が0.3時間ではなくて0.5時間であることを納得してもらうのに、大変苦労した。100分で1時間ではない。60で1となる。この辺り、混乱して当然かと思う。
そもそも、10で1つ位が上がるのは当然の常識のようだが、成り立ちは「両手の指が合わせて10本だったから」という説明がある。実は数学は文化的、意図的、便利だから的、な理由で形作られてきた背景がある。と、大人になってから知った。
例えば12個で1ダースとする見方がある。「12」は2、3、4、6で割れて便利なのだ。確かにお土産は、10個入りだと3人や4人には配れない。もしかしたら、12進法が常識の世界線もあったかもしれない。だが、10という数字は、2と5でしか割れないので扱いにくい一方で、10進法は大きな数を表しやすいというメリットがあるようだ。時を経て、いまでは世界の主流は10進法だ。
というわけで、「数にも歴史や文化あり」という見方ができる。文系おじさんの私も、こういう話なら楽しいと思う。
さて、53分の次は63分なのか、それとも60分、もしくは65分なのか、それによってこの厚木〜大和間の渋滞表示の謎が解けるのか。それを知りたいところだが、でも混むのは嫌だしなあ。
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