気楽にブログ
学び直し小1算数
おじさんの学び直しが流行っているらしい。私も、学生の頃は算数や数学が苦手だったけど、もう一度勉強してみようかなと、たまに思う。
というわけで森毅さんの本を読んで知ったのだが、数には「順序数」と「集合数」というのがあるらしい。以下、私の理解(誤解)を示す。
何番目の数か、というのが順序数で
何個あるか、というのが集合数だ。
こんな区別、私は今まで考えたことはなかったが、娘の小1の算数の教科書を見ると、小学校ではまず、順序数を教えていることが分かる。
例えば列があって、ハナコさんは前から5番目です。7番目の子は誰でしょう?という具合だ。これが順序数だ。数は増えていくが、着目されるのはn番目の「地点」であって、総量ではない。
これに対して、袋の中に飴玉が7個あります。というのは集合数だ。ここで着目されるのは総量、多さ、であって、特別に7個目に着目しているわけではない。
順序数と集合数は、足し算をするときに、その違いがより見えてくる。
例えば順序数の見方の足し算で、すごろくを考える。すごろくで、スタートから5マスのところから、4マス進むとする。そのとき、操作としては、すでに5があり、そこからプラス4することになる。
着目はやはり、進んだ9の地点となる。なるほど、スタートからすれば9進んでおり、ベクトルの加法として見れば、総量は増えている。だが、9番目という地点がどこかということに関して言うのなら、総量は気にしなくて良いだろう。
これに対し、集合数の見方の足し算は、Aの袋に入った2つの飴と、Bの袋に入った3つの飴を、お皿に出して、合わせていくつあるか数える。これは全部でいくつあるか、個数(量)に注目している。
この2つの違いとして、例えばすごろくの例では5+4が、4+5でも良いことはわかりにくい。しかし、飴玉だと2+3でも3+2でも同じ、という交換法則が分かりやすい。
また、すごろくは3マス、という概念を入れずに+3という「操作」に結びつきやすい。一方、飴玉はどうしても「個数」の数え上げとなり、数字が記号となりにくい。かもしれない。
個数でばかり考えていると1/3個、と分数が出てくると、途端に理解が難しいように思う。日常と関連させていくのは算数の良さだが、操作できる記号として、数を扱えるようになることも、学びが進めば必要となってくる。
うーむ、簡単だと思っていた足し算こそ、数の基礎なのだな。小1の算数の教科書を前に、唸る私なのであった。
たまには気楽に学び時間
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太陽の欠片
大阪万博が開催されている。色々と問題もあるようだが、「未来への期待」「ワクワク感」が感じられたら、とても良いと思う。
さて、前回の大阪万博と言えば、岡本太郎の太陽の塔だろう。私は生まれてはいなかったし、実物を見たことはないが、異形と言えるその造形は、アートに疎い私にも興味を持たせるものだった。
他にどんな作品があるのかなと思い、岡本太郎の本を読んでみると、作品だけでなく、彼の言葉にも心惹かれた。例えば
「自分を貫く苦しい生き方をすると、自分が燃え上がる。そうすると人生は芸術になる」と書いてある。
passiveからのpassion 苦しみを受け入れてから情熱が生まれ、持ち続けると芸術になるようだ。私は人生を芸術に、とまでは熱く生きられないが、太郎のエッセンス、太陽の欠片はもらっておきたい。
開業する前は「自分はこうやりたいのに」とか、仕事に文句を言っていた私だが、今は言い訳をせず、自分の思いを基に、仕事が出来ている。「労りの普及が、自分のやるべきやりたいことだ!」と、開業から2年経っても、開業当初と変わらずに、言うことが出来る。寧ろ気持ちは強くなっている。
期待通りの応えがなく、自分の不甲斐なさに悲しくなることもある。だが、まずは受け入れて進めたい。
「苦しくても、自分を貫いて続けていきたい気持ち、すなわち情熱が私にはあるのだ!!」
と、自分を昆布。じゃなくて鼓舞。
いつも心に太陽を 情熱で、バクハツだ
サン(sun)仲村
人にやさしく
「人にやさしく」ザ・ブルーハーツ
我が子がどんな人になって欲しいか?そう人から尋ねられたとき、「人にやさしい人」と答えたい。人にやさしくなれる子に育てたい、つまりは自分も人にやさしい人になりたい。
だが、人にやさしくすることは、実に難しいことだと思う。自分を省みて思うが、気持ちに余裕がないとできない。イライラしてたり焦っているときは、やさしさを発揮することが難しい。
だからまず、人にやさしくするためには穏やかでないといけない。そう、前回書いたnegative capabilityが必要だ。嫌なことを受け止めて、なおかつ穏やかでいられる。これはなかなかレベルが高い。
そして次に、人にやさしくすることが、その人にとって「善いこと」となるかがわからない難しさがある。「余計なお世話」「情は人のためならず」という言葉がある通り、親切にしたことがかえって、その人にとってマイナスとなることは、大いにあり得る。
そして最後に、人にやさしくし過ぎると、「利用される」「騙される」という可能性も出て来る。「良い人は良いカモ」というわけだ。お願い事を引き受けすぎたり、要らないものを買わされてしまったりということもある。
というわけで、「人にやさしく」は、かなり難しい。そして、「その難しさを知ること分かること」が、人にやさしい人を目指す良さなのかもと思う。だから、子どもがどんな人になって欲しいですか?と聞かれたら、こう答えることにしよう。
「人にやさしい人、を目指す人」と。
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たくましさとnegative capability
自分の子どもがどんな人になって欲しいか、何が大切だと伝えて育てるか、父親として語れるようになっておきたい。
「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」
自分が子供の頃に見たハムのCMを思い出す。確かに、ある程度の「たくましさ」は必要だと思う。多少の嫌なこと、不運なこと、それらを受容していける力だ。
最近、ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)という言葉を知った。無理やりポジティブに捉えなくても、ネガティブなままで受け入れ、それに負けないで踏み留まれる力だと理解している。
「ダメだったな」「不運だったな」でも、「まあ、これくらい大丈夫だ」と言える強さだ。
これがポジティブ・シンキングだと、「実は良かった。むしろラッキーだった」となる。それはそれで、有効なときもあるだろう。だが、自分が感じたことというのは、なかなか上手く書き換えられないこともある。誤魔化せないときがある。そんなときは、負を負のまま受容できることが必要だろう。
というわけで、子どもには辛さや悲しみも人生の1部として、まずはそのまま感じて欲しいと思う。無理に対抗しなくても、心に嘘をつかなくても、ギリギリで受け止めたなら、きっとリカバリーできるだろう。もちろんcapabilityだから限界もあるし、その限度を越えたら、次の手が必要だが。
いきなりネガをポジに変換・逆転など、できはしない。たくましさとは、負の感情を大切に出来ることだ。そしてそれは、やさしさにつながると思っている。
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3月9日
「それともそうじゃないのか? ネクタイなんてしめなくていい!」
若さのイメージ 谷川俊太郎
卒業式シーズンですね。私も下の娘が保育園の卒園式を控え、家でも彼女は、式で歌う合唱の練習をしています。私は傍らで聞きながら、これは本番は「うるうる」だな、と、今から感動の式を楽しみにしています。
そう、「~式」は親にとっても大事なもの。少しの緊張感、締まった感じもまた、良いものです。
ええ、ですから、間違っても「コスプレ」で式に参加するのはやめましょう。アート系の学校ならOKかもしれませんが。。
以下、回想。
97年度の都立M高校の卒業式、例年と変わらないごく普通の式になるはずだった。だがしかし。そこに、不届き者ありけり。
大学受験を終えた僕は、卒業式までもう少しという頃、友達とウダウダと過ごしていた。受験は受かったものの、高校3年生という貴重な青春時代の後半を、受験勉強に取られた気がして、二人で憤っていた。
「なーんか、高校生活の最後の方はつまらなかったな。・・じゃあさ、卒業式、ふざけちゃおうぜ!」「はい来た!よろこんで!」
1人ではやらなかっただろう。しかし、若いバカが2人で動き出すと、もう止まらない。速度の二乗に比例してバカさが増えていく。早速、町田の東急ハンズへ行き、僕は宴会用で売られていた「エルビス・プレスリー」の、白いヒラヒラのついた服を買った。ついでにサングラスとモミアゲも買い、下のズボンは買えなかったので、テニスの白い短パンを履くことにした。
前日に担任の先生が「明日は卒業式です。まあ、好きな服装で」と言ったのを、僕はしっかりと聞いた。そう、もともとM高は私服だった。校則が少ない、自由な校風が特長の高校だった。制服がないので、例年の卒業生は殆どがスーツ、袴が少し、という感じだった。
先生も「好きな服装で」と、言ったしな。。よし。「自由こそM高校の良さなのだ!それを示すのだ!」「伝統・常識にとらわれるな!」「個性を発揮するのだ!」と、僕はリベラリスト気取りにもなっていた。ただ単にふざけているのではない。思想があるのだ、と。
3年間「自由とわがままは違います」「ときと立場にふさわしく」「私が、私が、ではなく、周りのことも考えるように」ということを何度も聞かされただろうに、そういった「公立の教え」が、僕には響かなかったようだ先生方ごめんなさい。
*エルビス・プレスリーで私が好きな曲は、「Always On My Mind」です。you tubeで聴けます。
当日は学校のトイレで着替え、わざと遅刻して教室に入った。サングラスをしているので、わりと恥ずかしくなかった。「きゃー」「陽ちゃん、うそー」という女子の嬌声が聞こえ、男子も「陽介、お前まじウケるわ」と喜んでくれた。担任の先生は苦笑いし、「仲村、その格好で出るのか?」と言ったが、それ以上は何も言ってこなかった。
卒業式では、ダンスなどのパフォーマンスはしなかった。式の進行を邪魔することは良くない、あくまで「好きな服装で参加した」ということを示したかった。あとは、全力で校歌を歌った。入場・退場のときに、後輩や保護者がざわざわし、「やってやったぜ」と、僕は思った。
とまあ、なかなかウケた。と思っているが、中には気分を害した親御さんもいらしたことだろう。ふざけてしまい、すみませんでした。謝恩会と間違えました。皆様の寛容さに感謝しています。
僕にはその後、お咎めはなかったが、1年後の卒業式のときは職員会議で問題視され、「式にふさわしい、良識ある服装で参加するように」と、生徒に伝えるようになったそうだ。「あんまりリベラルに寄ると、ああいうのが出るから気をつけましょう」と、言われたかどうかは聞いていないが。
「式には式にふさわしく」そりゃそうだ。「らしい、ふさわしい」は、高校生なら分かるでしょう。それを敢えてズラすから、おもしろい。でも、それは敬意を欠いているのです。大人になった今の私は、「公」も重んじる、保守的な考えも身につけました。安心してください。履いてますよ。
僕のように、自由の意味を勘違いした生徒がいたとして、先生たちは「それはふさわしくない」と言えば良いのだろう。いつでも若者はバカを発揮し、先生たちはそれに向きあって、諌めて欲しい。
というわけで学生のみなさんへ、エルビスより。
詩人の谷川俊太郎が言うように、若いのだから、いつもはネクタイなんてしめなくていい。でも式では、ネクタイをしっかりと締めるんだ。そして式が終ったら、そう緩めて。ここからは、パーティの時間だぜ。
あなたの暮らしに気楽時間
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