気楽にブログ
人にやさしく
「人にやさしく」ザ・ブルーハーツ
我が子がどんな人になって欲しいか?そう人から尋ねられたとき、「人にやさしい人」と答えたい。人にやさしくなれる子に育てたい、つまりは自分も人にやさしい人になりたい。
だが、人にやさしくすることは、実に難しいことだと思う。自分を省みて思うが、気持ちに余裕がないとできない。イライラしてたり焦っているときは、やさしさを発揮することが難しい。
だからまず、人にやさしくするためには穏やかでないといけない。そう、前回書いたnegative capabilityが必要だ。嫌なことを受け止めて、なおかつ穏やかでいられる。これはなかなかレベルが高い。
そして次に、人にやさしくすることが、その人にとって「善いこと」となるかがわからない難しさがある。「余計なお世話」「情は人のためならず」という言葉がある通り、親切にしたことがかえって、その人にとってマイナスとなることは、大いにあり得る。
そして最後に、人にやさしくし過ぎると、「利用される」「騙される」という可能性も出て来る。「良い人は良いカモ」というわけだ。お願い事を引き受けすぎたり、要らないものを買わされてしまったりということもある。
というわけで、「人にやさしく」は、かなり難しい。そして、「その難しさを知ること分かること」が、人にやさしい人を目指す良さなのかもと思う。だから、子どもがどんな人になって欲しいですか?と聞かれたら、こう答えることにしよう。
「人にやさしい人、を目指す人」と。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
たくましさとnegative capability
自分の子どもがどんな人になって欲しいか、何が大切だと伝えて育てるか、父親として語れるようになっておきたい。
「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」
自分が子供の頃に見たハムのCMを思い出す。確かに、ある程度の「たくましさ」は必要だと思う。多少の嫌なこと、不運なこと、それらを受容していける力だ。
最近、ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)という言葉を知った。無理やりポジティブに捉えなくても、ネガティブなままで受け入れ、それに負けないで踏み留まれる力だと理解している。
「ダメだったな」「不運だったな」でも、「まあ、これくらい大丈夫だ」と言える強さだ。
これがポジティブ・シンキングだと、「実は良かった。むしろラッキーだった」となる。それはそれで、有効なときもあるだろう。だが、自分が感じたことというのは、なかなか上手く書き換えられないこともある。誤魔化せないときがある。そんなときは、負を負のまま受容できることが必要だろう。
というわけで、子どもには辛さや悲しみも人生の1部として、まずはそのまま感じて欲しいと思う。無理に対抗しなくても、心に嘘をつかなくても、ギリギリで受け止めたなら、きっとリカバリーできるだろう。もちろんcapabilityだから限界もあるし、その限度を越えたら、次の手が必要だが。
いきなりネガをポジに変換・逆転など、できはしない。たくましさとは、負の感情を大切に出来ることだ。そしてそれは、やさしさにつながると思っている。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
3月9日
「それともそうじゃないのか? ネクタイなんてしめなくていい!」
若さのイメージ 谷川俊太郎
卒業式シーズンですね。私も下の娘が保育園の卒園式を控え、家でも彼女は、式で歌う合唱の練習をしています。私は傍らで聞きながら、これは本番は「うるうる」だな、と、今から感動の式を楽しみにしています。
そう、「~式」は親にとっても大事なもの。少しの緊張感、締まった感じもまた、良いものです。
ええ、ですから、間違っても「コスプレ」で式に参加するのはやめましょう。アート系の学校ならOKかもしれませんが。。
以下、回想。
97年度の都立M高校の卒業式、例年と変わらないごく普通の式になるはずだった。だがしかし。そこに、不届き者ありけり。
大学受験を終えた僕は、卒業式までもう少しという頃、友達とウダウダと過ごしていた。受験は受かったものの、高校3年生という貴重な青春時代の後半を、受験勉強に取られた気がして、二人で憤っていた。
「なーんか、高校生活の最後の方はつまらなかったな。・・じゃあさ、卒業式、ふざけちゃおうぜ!」「はい来た!よろこんで!」
1人ではやらなかっただろう。しかし、若いバカが2人で動き出すと、もう止まらない。速度の二乗に比例してバカさが増えていく。早速、町田の東急ハンズへ行き、僕は宴会用で売られていた「エルビス・プレスリー」の、白いヒラヒラのついた服を買った。ついでにサングラスとモミアゲも買い、下のズボンは買えなかったので、テニスの白い短パンを履くことにした。
前日に担任の先生が「明日は卒業式です。まあ、好きな服装で」と言ったのを、僕はしっかりと聞いた。そう、もともとM高は私服だった。校則が少ない、自由な校風が特長の高校だった。制服がないので、例年の卒業生は殆どがスーツ、袴が少し、という感じだった。
先生も「好きな服装で」と、言ったしな。。よし。「自由こそM高校の良さなのだ!それを示すのだ!」「伝統・常識にとらわれるな!」「個性を発揮するのだ!」と、僕はリベラリスト気取りにもなっていた。ただ単にふざけているのではない。思想があるのだ、と。
3年間「自由とわがままは違います」「ときと立場にふさわしく」「私が、私が、ではなく、周りのことも考えるように」ということを何度も聞かされただろうに、そういった「公立の教え」が、僕には響かなかったようだ先生方ごめんなさい。
*エルビス・プレスリーで私が好きな曲は、「Always On My Mind」です。you tubeで聴けます。
当日は学校のトイレで着替え、わざと遅刻して教室に入った。サングラスをしているので、わりと恥ずかしくなかった。「きゃー」「陽ちゃん、うそー」という女子の嬌声が聞こえ、男子も「陽介、お前まじウケるわ」と喜んでくれた。担任の先生は苦笑いし、「仲村、その格好で出るのか?」と言ったが、それ以上は何も言ってこなかった。
卒業式では、ダンスなどのパフォーマンスはしなかった。式の進行を邪魔することは良くない、あくまで「好きな服装で参加した」ということを示したかった。あとは、全力で校歌を歌った。入場・退場のときに、後輩や保護者がざわざわし、「やってやったぜ」と、僕は思った。
とまあ、なかなかウケた。と思っているが、中には気分を害した親御さんもいらしたことだろう。ふざけてしまい、すみませんでした。謝恩会と間違えました。皆様の寛容さに感謝しています。
僕にはその後、お咎めはなかったが、1年後の卒業式のときは職員会議で問題視され、「式にふさわしい、良識ある服装で参加するように」と、生徒に伝えるようになったそうだ。「あんまりリベラルに寄ると、ああいうのが出るから気をつけましょう」と、言われたかどうかは聞いていないが。
「式には式にふさわしく」そりゃそうだ。「らしい、ふさわしい」は、高校生なら分かるでしょう。それを敢えてズラすから、おもしろい。でも、それは敬意を欠いているのです。大人になった今の私は、「公」も重んじる、保守的な考えも身につけました。安心してください。履いてますよ。
僕のように、自由の意味を勘違いした生徒がいたとして、先生たちは「それはふさわしくない」と言えば良いのだろう。いつでも若者はバカを発揮し、先生たちはそれに向きあって、諌めて欲しい。
というわけで学生のみなさんへ、エルビスより。
詩人の谷川俊太郎が言うように、若いのだから、いつもはネクタイなんてしめなくていい。でも式では、ネクタイをしっかりと締めるんだ。そして式が終ったら、そう緩めて。ここからは、パーティの時間だぜ。
あなたの暮らしに気楽時間
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権威の失墜
「オレの話を聞け 5分だけでもいい」クレイジー・ケン・バンド
権威の失墜が起こっている。偉そうにしていた支配者たちが去っていく。誰も言うことを聞かない。校長先生の話は短くなり、snsでは揚げ足取り合戦だ。
いやー、恐ろしいと思う。私も、若い頃は大人や権威あるものたちに対し反抗心があり、パンクやリベラルを気取っていた。「常識や権威を疑え」という社会学の基本姿勢も好きだった。
今でも、それらは私の根幹にはあり、「偉そうな押し付け」は嫌いだし、無批判に従うのは良しとしない。物理学者のファインマンと共に言うなら「destruct experts(専門家を蹴散らせ!)」だ。
だがしかしである。おっさんが進んだのもあり、最近は「伝統」や「慣習」、「畏れ」や「敬い」なども大事だと感じるようになった。権威が失墜した世の中は、端的に嫌だ。
「王様は裸だ」と指摘するのは、子どもの役目だ。そして、その裸の王様に服を着せるのが、大人の役目だと思う。
完璧な大人、完璧は指導者、完璧な権威などない。部分的には「裸(自分で気づいていない欠陥)」がある。
それを見て見ぬふりをするのではなく、それを指摘してバカにするのではなく、うまく服を着せ、王様の役目を果たしてもらうのが、必要ではなかろうか。
権威は権威で役割があると思う。世の中が、ある程度うまく行くために。伝統や慣習もそうだ。また、畏れや敬いが、調和に寄与している部分もあるだろう。それらは洗脳や押し付けではなく、昔からあり、受け継いできた知恵のはずだ。
反抗、批判、より良くなるために必要だろう。だが、一方で調和や平衡のための「ほどよい権威の構築」も、必要だと考える。我々が共同体として、この先も共に生きていくのならば。
先祖、天皇、先生、父親、大人、それらの権威を取り戻すのだ!よし、差し当たっての自分の役目は、父親としての権威を高めることだ!
「おーい、かあさん、ビールもう一本!は、自分で取りに行きます」
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整体の功罪とは
制度でも、産業でも、人間が作り出したものに「八方良し」を求めるのは、なかなか難しいと思う。
例えば「入試制度」「税制度」や「自動車産業」「放送・通信業」などについて、必要性は十分に理解が得られる。しかし、過剰、つまり「いきすぎ、やりすぎ」になると、「入試制度の問題」「自動車産業の問題」という感じで、厄介事もまた生まれる。
世のため、人のため、となることから始まったものも、両手を上げて称賛できるものは、なかなかない。加熱しすぎた入試、増えすぎた車、それらが生み出した負について、一言ある方も多いだろう。
そんなわけで、何かについてその負の側面を指摘するのは、割とたやすい。だが、大人ともなれば、それよりもう一歩先に進めてかっこつけたい。
そんなときに便利な言葉が
「功罪あるからね」だ。
ただ一方的に批判を加えるのではなく、良い面や恩恵にも目を向ける。「消費税が悪いって言うけど、まあ功罪あるからね」という感じだ。
そう言われると「何?消費税が諸悪の根源だと思っていたが、良いところもあるのか?」と考えるようになり、議論が深まる。かもしれない。
また、マスメディアや芸能が叩かれやすい昨今だが、「功罪あるからね」と言えば、それらから受けてきた恩恵を、思い出すこともできる。かもしれない。
というわけで、物知り顔で「まあ、功罪あるからね」を言っておくと、一方的な意見とならず、嫌われにくくもなるし、なんと言うか無難だ。
賛成なのか反対なのかはっきりしない、ずるい態度。ヒートアップしている相手から視線を逸らし、遠い目をして言うのがポイントだ。
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