気楽にブログ
どっちもどっち
「二重スリット実験」についてもう一度トライしよう。さすがに前回のは怒られて、私がやっているハイボールのCMを、降板させられるかもしれない。
さて、意味のない心配は置いておき、私が二重スリット実験で腑に落ちないのは「一つ打った粒子が、両方のスリットを通っていると考える」という点だ。
光は波でも粒子でもなく「量子」であることを受け入れた。波が干渉を起こすことは分かった。観測が対象を動かしてしまう事も分かった。結果が確率分布で表せることも納得した。観測によって波の性質を見ようとしたら波になり、粒の性質を見ようとしたら粒になるのもOKだ。
だがしかし。「干渉した」ということは、スクリーンに当たるときに粒ではなく「波」として当たったということでなないのか。つまり、一発ずつ光子を打つ、ということが「そもそもできない」のではないか、と考えた。粒子として飛ばすことはできず、必ず波でもあると。粒子を一発ずつ打ってたつもりが、光の干渉の実験と同じことをしていたのではないか?
と、私の理解(誤解)は、今のところここまでだ。私には「確率の波が通る」というのは、よく分からない。概念ではなく「何か実体のあるものが通っている」はずだと思う。私は高校で物理は脱落したが、散々「物体」について学んできただろう理系の高校生は、大学でのこの量子力学の考えを、すんなり受け入れられるのだろうか。
先程「分かる」とか「受け入れた」とか書いたが、野村泰紀さんによれば「腑に落ちるかどうかでない」「式で表せ、未来が記述できて整合性があれば、それは【分かった】」ということのようだ。私はどうしても「肌感覚でわからないと気持ち悪い」と思ってしまうが「人間の認知が追いつかない、捉えられないことがある」というのが、科学者の指摘なのだ。事実それを受け入れて、量子テクノロジーの進歩は目覚ましいようだ。
一方で岡潔は小林秀雄との対談で「感情の満足なしでは数学は存在し得ない」と言っている。数学でさえも、人間の感情を入れないと成り立たないという主張をする。矛盾がないといって「矛盾がないと思うのは感情だ」というのだ。
アインシュタインもシュレーディンガーも、量子力学の世界を受け入れがたく思っていたとの話もある(私が見ていないとき、月は存在していないのでしょうか)。というわけで、もちろん事実を認めて先に進むのはいいけれど、人間の感情を置き去りにしてしまっては危ういのかも、と思う。野村先生が映画「オッペンハイマー」を勧めておられた。やはり、人間や感情を置き去りにしたテクノロジーの進歩が、悲劇につながり得ることも、知っておかなくてはいけないのだろう。
さて、テクノロジーは置いておき、量子力学の考えを、自分の仕事や生活に近づけてみよう。これは、福岡伸一さんが書いてくれている。
「人生の出来事は因果的に起こったわけでもなく、予め決定しているわけでもない。共時的で多義的な現象が、たまたまそのように見えているにすぎません」動的平衡2のあとがき
量子力学はミクロの世界の話だが、自分の世界もそうかもしれないと思うと、おもしろい。あるのは自由と可能性。どちらも選べる、もしくはどっちも通っている。切り取り「見た」その瞬間は「その有り様」として現れるが、またすぐ先に「可能性と自由」がある。
このときの自分、このときの自分、様々な色で点々をつけ、描かれた「自分の人生の画」を最後に見てみたら、きっといかようにも解釈できるのだろう。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)