気楽にブログ
臨床の知
前回は故・宮沢章夫さんを真似して書いた。劇作家であり、私は舞台を見たことはないのだが、とにかく文章がおもしろい。私の好きな「シコふんじゃった」の竹中直人さんと、マブダチらしい。宮沢さんや町田康さんの文章のように、まじめなようなふざけているような、そんな文章を書けたら楽しいだろうなと思う。
宮沢さんは本をよく読まれていて、読書記録の中に、何と河合隼雄先生の著作もあった。中村雄二郎さんとの箱庭療法についての共著で、中村雄二郎さんはなぜか仲村家に「臨床の知とは何か」という難しい本があり、以前読んだことがある。実はその本で、パッションが受け身の意味を持つということを、私は知ったのだった。いつもの繰り返しになるが、人と人とのつながりには驚くばかりだ。波長が合うとか、そういうことなのだろうか。
宮沢さんの本で読んだ気がする、「昔からある言い回し」を見直してみたい。つまり例のあれだ、「鳩が豆鉄砲を食ったような顔」の話だ。「あいつ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔しやがって」と、言ったことは、私の人生で1度もない。使い所がわからない。そもそも「鳩が豆鉄砲を食ったような顔」の想像が難しい。鳩はいつも鳩の顔ではないのか。あと、やっぱり思う。豆鉄砲って何だ?
だが、長い時間をかけても残っている言葉には、耐えうるだけの価値があるのだと推察する。「鳩が豆鉄砲を食ったような顔」も、使う人が多いから、そしてそれで意味が通じる人が多いから、今まで残ったのだろう。今日も日本のどこかで何回かは「鳩が豆鉄砲を食ったような顔してやがる」と茶化されている人がいるのだろう。
ところで、私の好きな表現は「猫の額ほどの庭」だ。犬やネズミではだめだ。猫の額でなくてはいけない。確かに狭い。確かに狭いから、そこに植えられる草木は、パンジーひと株でもはみ出す。猫の顔を見る。そして額を見る。うむ、狭い。ってこんな狭い庭あるかい!
猫で言うともう一つ「借りてきた猫のようだ」がある。「え、おまえんちの猫って借りてきたやつなの?」と、昔のふかわりょうが言いそうな感じだ。借りてきた、ということはあれだ、頼まれて預かっているわけではないのだ。あくまでもお願いして借りたのだろう。「この猫、ちょっと貸してくれ。明日友だちが来るから」どんなだ。
どんなだ、と言いつつ、借りてきた猫がおとなしいということを、我々は知っている。猫を借りたことなどないのに、借りてきた猫がどんなだかわかる、というのはどういうわけなのか。借りてきた猫はおとなしい。借りてきた猫の役目をしっかりとおこなう。そしてその額は、やっぱり狭い。
また、整体とまったく関係のないことを書いてしまった。タイトルを「臨床の知」として、知的な投稿をカムフラージュしておこう。ところでカムフラージュって何語?
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)