気楽にブログ
夏休みの課題レポート(そうです私の感想です)
自主的に夏休みの課題として取り組んだものを、レポートにしました。ようやく、中村雄二郎さんの著作が少し理解できてきた気がしたので、挑戦しました。
北里の先生方に「考えが浅い!」と怒られるだろうなー。と思いながらも稚拙に書く私。随分偉そうに書いてみました。というか、私は理学療法士から整体師になったのだが。まあ、いいか。
タイトル:中村雄二郎「臨床の知」を理学療法に適用するために
理学療法学が扱う対象は、主に「人」である。人がケガや病気で心身にダメージを受けたあと、その人がどのような過程を通り、身体的回復・適応、生活の場においての動作の再獲得・適応、社会的役割の復権・適応していくかを記述する。そこでは、対象に対する観察とともに、介入が入ってくる。ある状態から介入があり、そのあとの状態になるという、時系列を示すことになる。そして、理学療法学が進むとはつまり、人が心身にダメージを受けた後、どのような介入をどれだけすれば、その人の身体機能・生活動作・社会的役割が回復・適応するか、そのパターンの網羅や標準化が進むことであろう。
ところで、理学療法学の方法としてまず土台となるのは、「科学の知」である。著者が言うところの①普遍主義②論理主義③客観主義である。これは現代の日本の医学や薬学においてもそうであるように、広く納得してもらうための考え方である。すなわち、いつどこでおこなっても、曖昧なところは何もなく因果関係がはっきりとあり、誰がおこなっても同じようになる。ことが言えるからである。
しかし、科学の知で有効性を示すことは、薬の治験でもそうだが、甚だ難しいことが分かっている。つまり、ランダムな二重盲検であったとしても、対象と観察者の関係を極力離したとしても、過程でのバイアスは免れないし、一対一の因果関係は示し難い。近似を伴い表せたデータを示すに留まり、その解釈においては「有効であると思われる」の域を出ないだろう。人を扱う場合の科学の知へ、過信はできない。
まして、理学療法の介入は人による手技が入ってくる。そうなってくると、介入者の技量のばらつきや、対象者との関係も入ってくる。益々定量化、比較化が難しくなってくる。理学療法学会としては保険診療であるためには、データで世に示し、多勢の納得を得ることが必要だ。だが、この「手技をともなった介入」が強みであるはずなのに、有効性を示すことが難しいというジレンマに陥っている。だから、トレッドミルなどの機械に患者を載せて走らせて、血圧・心拍数など数字で表せる研究の方が進むのは、自明と言える。
これは研究の場に限らず、臨床の場においても同様である。対象者である患者が、施術者である自分の介入により、どう変化したのかを記述するのは、上記の理由から甚だ困難である。科学の記述を使うには、あまりにも不確かな要素が多すぎるし、因果関係も示しづらい。誰がやってもそうなる、とは言い難いだろう。
そこで、参考となるのは、「科学の知」に加え、著者が提唱する「臨床の知」という考え方である。これは①コスモロジー②シンボリズム③パフォーマンスからなる。それは、限定的な「今・ここの、あなたと私」に絞り、「言葉の多義性や意味の深さ」を大事にし、「相互作用」でもたらせるものに着目する考え方であると解釈できる。つまり、曖昧で因果関係に還し難い「手技の介入」を、そのまま記述していくことである。これは患者や介入者である理学療法士の「個別性」を敢えて出し、言葉を大事にし、経験や相互の関係性によって結果が変わり得ることを、前提にしている。
例えば、同じエクササイズをしたが、今日は気乗りがしないようだった。という記述や、「なんだか足が軽くなってきた」という言葉、「随分世話になってるからもう少し頑張りますわ」などの関係性の変化など、そのとき、自分が思った患者の状態や、患者の発言をそのまま書き(曖昧な表現だとしても)、それに対する考えや感想を記すというやり方である。施術者の主観を敢えて入れ、施術者自身の影響を排せず、話し言葉も記すことになる。変化を数字では表せないが、それでも発言の変化や状態の変化を言葉で記すのである。
入院3日目。バイタルがいくつ、バイクこぎ20分、その後のバイタルがいくつ。これらの蓄積はなるほど、「科学の知」として、積み重ねればガイドラインになるのかもしれない。それに加え、言葉を介した個別のやり取り、お互いで紡いだストーリーの積み重ね、伴う状態の変化は、理学療法士の経験の共有、ひいては目の前の課題のヒントにつながるだろう。「それってあなたの感想ですよね」こそが、生きる場面もあると考える。エビデンスだけに囚われては窮屈だ。
このような臨床記録の集積を、論文にする方法を私は知らない。データを伴って標準化をし、保険診療と認めてもらう根拠としては、弱いのかもしれない。だが、少なくとも個々の理学療法士自身、そしてその職場の仲間同士や後輩たちには有益な知であり、明日の患者さんの臨床に、有効になり得ると私は考える。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)