気楽にブログ
4月になれば彼女は(サイモン&ガーファンクル)
思い出したら、そのときに書いておかないと。また思い出すために。
28歳の私は、K大学理学療法学専攻の3年生だった。当時、K大学の理学療法学専攻に入るのは狭き門で、偏差値も志も高い人が集まっていた。私は社会人入試という裏技を使い、入学していた。社会人入試は論文と面接で良いので、私のような者が紛れ込んでしまうのだ。私の代から少し経って社会人入試の枠が減ったのだが、それが誰のせいなのかは言わないでおこう。
時折書いた通り、私は理系の科目がからきし苦手であったので、授業には苦労した。理学療法学というのは医療系の学部であり、つまり医学を学ぶ。医学はサイエンスがベースなので、数学や統計学の授業があり、はっきり言ってついていけなかった。今なら「科学の知」も少し分かるし、そこに「臨床の知」を加えた方がいいですよ、と生意気に言うこともできるので惜しいところだ。
そして、生理学の実習でカエルを使って神経伝達を調べるのも、子豚の解剖をするのも、楽しくはなかった。解剖の絵を描くのも嫌で、スケッチ帳にネッターという解剖学者の似顔絵を書いていた。周りには、「この人は何をしに来ているんだ?」という目で見られていたことだろう。「人に必要とされる仕事につきたい」という甘く身勝手な考えのみで入学した私は、必要に応えられるだけの力を得る大変さを、思い知っていたのであった。
そのときに付き合っていた彼女は薬学部で、学年は上だがもちろん年下であった。彼女はいつも忙しく、あまり会えなかったが「やせる薬が作りたくて薬学部に入ったの」というところがおもしろくて好きだった。
そのうちに彼女が先に実習に行くことになった。医療系の実習は「バイトもサークルも遊びもやめて、実習それのみに注力すべし」というところがあり、彼女も余計に忙しくなり、更に会えなくなった。私の感覚だと10分お茶するだけなら会えるんじゃないか、と思ったのだが答えは「ノー」で、とにかく実習が終わるのを私は待っていた。
そして、ようやく実習と実習の合間に会えるようになったが、彼女はとても疲れていた。私は自分が年上であることから、知りもしないのに知ったかぶりで色々とアドバイスをした。だが彼女は「そうね」と言うばかりで、自分で解決しようとしていた。
そんな日々が続き、これから4月になって彼女が就職しても、これが続くだろうと私は考えた。つまり彼女のペースに私が合わせて進んでいき、自分の助言は聞いてもらえないのではないかと。今思えば、いかようにも修復できたと思うが、私にはその余裕がなかった。私から別れを告げた。
彼女は悲しんだ。別れたくない気持ちがあったのを知り、私はひどく後悔した。だが、もう手遅れだった。人を悲しませてしまったつらさが重くのしかかり、一人ではいられなくなった。友達のシンちゃんがバイトをしているパチンコ屋に行ったら、汗をかいて忙しくしている彼が、私に気がついた。メールで顛末は知らせていたが、行くとは言っていなかった。
彼は、仕事の合間に来てくれて、「きついよねー」と、ひと言だけ言って、また仕事に戻っていった。
人を悲しませてしまうことがあんなにつらいと、あのときに初めて知った。シンちゃんは、別れた辛さと相手を悲しませた辛さの両方を、知っていたのだろう。言ってくれたひと言が、うるさいパチンコ台の音を分け、私の心にいつまでも留まった。外に出ると、秋の空気に変わり始めていた。
理学療法士の整体in本厚木
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)