気楽にブログ
今日も明日も振る舞う
以前、「しまう」について書いたが、今回は「ふるまう」について書いてみようと思う。「仕舞う」と「振る舞う」ということで、「舞う」というのが同じだ。舞う、は動く様だ。重力、空気(水)抵抗といった己をその場に留めようとする力に対し、自分の意思、または気分に任せて、軽やかに動くことだ。
最近読んだ福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだに」という本の中に、この「ふるまう、ふるまい」が出てくる。京都大学時代に「behavior」を「ふるまい」と訳すことがあることを学んだ、というエピソードが書かれている。
本では、「物質のふるまい」そして「原子のふるまい」という話になる。物質がふるまうとはこれいかに?という感じだが、原子というのは絶えずまったく無秩序な熱運動に翻弄されているそうだ。高校で習った気がする「ブラウン運動」だ。そして、その動き(振れ?)は重力や濃度といった周囲の影響も受ける。
そして、元々がランダムな動きが、周囲の影響を受け「全体として平均すると」動いている、つまりふるまっているように見えるということだ。言われてみれば濃度の違う液体が拡散していく様は、振る振るしたブラウン運動と、ゆっくり広がる舞いで、確かに振る舞いだ。
シュレーディンガーは「生命現象は最終的には物理学や化学の言葉で記述できる」と述べたとあるが、生物とは呼ばない原子の世界からすでに動きはランダムであり、記述には統計が用いられる。つまり「全て必ず」ということではないようだ。このあたり、ファジーなところが科学にあることを、文系の私は最近知った。
構成体である原子がそうであるなら、当然「生物」もまたランダムな動きや、周囲の影響を受け、全体としては「平均としてのふるまい」を見せる。そして、生物のふるまいは、その影響の中に置かれた自分に秩序を生み出し、またその秩序を保つために自分自身を絶えず作り変えている。そして、そこには制約に縛られない自由もある。福岡伸一さんが言う「動的平衡」である。
こういったことを自分の馴染みの分野につなげてみると、人間も反射・反応や無意識の影響、もしくは与えられた社会の中の自分の役割にも影響を受ける。しかし一方で、制約の中でときにそれに抗い、自分を保つとともに、自由にも動ける存在である。そして、それらを社会全体の動きとして記述をするなら、同じく統計の手法が用いられる。うーむなるほど。社会学部の学生は生物学を必修にした方が良さそうだな。と、なんの効力もない提案をしてみる。
「ランダムであること」「制約があること」「全て必ずではないこと」そして「自由に動けること」。この前読んだ茂木健一郎さんの本には「自由意志はない」と書いてあったが、私はあると思う。単に私が言葉を理解していないだけかも知れないが(バカの壁)。物質の制約、環境の制約、生物の制約、社会の制約、の中で、エントロピーが増大し、この私の生命活動を終えるまで、これからも大いに人間としてふるまいたいと思う。
と、たまには知的を装った話を居酒屋でしてみたら「よし分かった、じゃあ仲村さん今日は大盤振る舞いね!瓶ビール追加で!」とうまいこと返されて心地よかった秋なのに暑い日の夕方。
最後はやっぱり町田康に似せて
理学療法士の整体in本厚木
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)