気楽にブログ

2023-12-08 09:12:00

作為と無作為のあいだに

「訂正する力」東浩紀 を読んで。

 

本を1日で読み終えたのは久しぶりで、まずは一気に読めた。面白いしためになるなと思い、読んだ。「終わりに」を読んで、東氏が「考えない方法の本が好まれる」とか「論壇で評判が悪い」とか、書かれていたが、本当なのだろうか。私は、大きな間違いはしたくないし、小さな間違いを、都度訂正したいと思っている人間だ。自分の過去のブログの文章も、実はちょこちょこ訂正している。本書は、多くの人が支持すると思うのだが。

 

自分の思いを形にしていくには考えが必要で、その拠り所を自分のみに頼むのは心もとない。自分が思い込みで間違うことも知っている。だから、私はそう多くはないが色々な本を読み、考え方や捉え方を真似たり試したり、振り返ってみたりしている。

 

これは自分が成長したいからというよりも、そうしないとうまくいかないからだ。私は後輩にテニスを教えたり、患者さんにリハビリをしたりの過去があり、今ならセラピストとしてお客様に施術をしているが、学び、試し、振り返り、訂正しないと、良くはならない。

 

東氏は「何かを世界に残したい人であれば、すんなりと入ってくる」と期待されているが、私はすんなりと入ってきた部分が多かった。東氏が「訂正する力」を世に広めたいという思いがあるように、私もまた「手当ての力」を世に広めたい野望があるからかもしれない。

 

本書では色々なワードやテーマが書いてあり、それぞれについて一つずつブログが書けそうだが、その中でも「自然を作為する」というものに惹かれたので少し書いてみたい。

 

私は今年、自然(じねん)という言葉を知り、はからわないことの有用性もわかった。だが、適度な手入れもまた必要なのだ。どうにもならないことに目を向けたあと、自分が変えられる(と言うとおこがましいので関与できること)ことに意図を持ってはたらきかけることが、セラピストとしての自分の仕事だと思う。これは父親としても、一市民としてもそうだと思う。

 

現実をもう少しだけ良く生きるために必要な、ストーリーやファンタジーの創作。柔軟さとしたたかさを持って、自然や社会に対峙すること。自分も相手も得点できるような、ついでに二人でゲームの外に追加点を取れてしまうようなこと。決めつけはいつでも訂正できる可能性を残しておくこと。本書は私が今年考えたことや学んだことに、つながりを感じる内容だった。

 

にぎやかで乱雑でも良い。度を超えない程度なら。私が、そして東さんもそうだろう、最も避けたい「戦争」が起こらない程度なら。いや、戦争が起きないためにこそ、にぎやかに自由に振る舞い、一方で冷静に受け止め作為し、訂正を続けたい。

 

最後に一つ、文系の東さんへ。私も文系なのだけど、「理科系には最新の教科書が必要で、過去の著作は不要」というのは違うかもしれません。例えば数学は文化の影響を受け、歴史の中で(人の思惑によっても)形つくられて来たと、森毅さんの著作で最近私は知りました。文化の影響を受けていれば、解釈は後から訂正できます。数学史を学ぶことで新たな発見があることは、文科系と同じだと考えます。ですから理系にも「じつは・・・だった」の論理、過去を学ぶ、訂正する力があった方が良いと、ぜひ勧めて下さい。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)