気楽にブログ
町田にはリス園がある(どや)
今年は「翔んで埼玉2」が公開されて話題となった。主演のGACKTさんが「くだらない、と思える時間や作品があっていい」というようなことをインタビューで答えていて、度量の広さに私は敬服した。
興味が湧いたので早速劇場へ行き、ではなくて「翔んで埼玉1」をアマゾンプライムで観た。そして、面白かった。自分が好きなシーンは埼玉と千葉が川を挟んで対峙し、自分の県の出身有名人を掲げるところだ。高々と掲げられる「高見沢俊彦」。おおー、というどよめき。最高におかしい。
そして、エンディングに流れた「はなわ」のさいたまの歌もすばらしかった。歌に乗せるから、歌詞のおもしろさが増す。あまりの出来の良さに、思い切り嫉妬した。
と、笑える時間で終わりで良いのだが、この作品のメッセージを勘違いして受け止めていこうと思う。誰の言葉かは忘れたが、「作品の解釈は観客がそれぞれすればいい。」のだ。
私はこの作品から「争い事の可能性とその回避」について考えた。家族愛、郷土愛、厚木愛、それらはあってしかるべきものだろうし、私も持っている。だが、それは他との対立を生むきっかけともなり得る。自分や自分に近いものと「違うもの」に対して、どう接していくかは、いじめや戦争とも関連があると考える。いや、わりとまじめにそう思っている。
我々は寛容や愛があるとともに「対立」や「競争」も起こしやすい。これは子どもの頃を振り返ると、例えばドッチボールのクラス対抗でも、「メラメラしたもの」はすぐに起こる。何なら、じゃんけんで決めたチーム分けでもすぐに起こる。普段は仲が良い友達だとしても、「敵チーム」に決まった途端、倒す相手となり得るのである。
「敵である」ということに決まった途端、誰かを「自分で」敵にしてしまう、これは良く考えると怖いことだ。世の中に色んな争いがあるが、「敵と決まったから」という要素も少なくないと私は推測する。そこにもってチーム内で仲間意識が高まれば、もちろん敵意識も増加する。加えてお互いが悪者扱いや忌み嫌うものとして扱えば、益々煽るのは容易で、勝手に競い争い合う。
映画では都知事と神奈川県知事が共謀し、埼玉と千葉を対立させたが、このような「仕組まれた対立」にはよっぽど注意しないといけない。敵とみなして対立するのは、生物学や社会学を持ち出さなくても、自分を振り返れば簡単に起こり得ることだと分かる。「メラメラしたもの」はスポーツやビジネス競争において必要だが、注意も必要だ。
もちろん映画はフィクションでファンタジーである。だが、現実でも「対立は起こりやすい」。極端に言うと、いじめも簡単に起こるし、戦争も簡単に起こる。
敢えて極端に言ったのは、対立は起こりやすいものだという認識を持てば、その回避もしやすくなると考えからだ。更に「仕組まれた対立」に対しても敏感でありたい。「何で争っているんだっけ?」と冷静になる時間や、寛容さや愛を広げていくことも大切だ。世の中はゼロサムゲームだけではないのだと、知っておきたい。もちろん良きライバルの競い合いなら、対立も悪くない。
最後に
たとえ対立したとしても現実に埼玉と千葉が血を見るような争いは起きない。何故起きないのか、その回避できている術が応用可能ならば、国家間にもぜひ応用したいと考えた。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)