気楽にブログ

2024-01-24 11:34:00

おぬし寝返ったな

「他に方法はないんだよ 待ってたんじゃだめなんだよ」ザ・ハイロウズ

 

「What if I fail ? I can always try again」英文問題集 旺文社

 

ヒトが生まれてから歩き出すのは、大体1年くらいかかる。その過程を観察してみると、出来るようになっていく不思議さと合理性が見て取れる。総じて、「自分も頑張ろう」と思えてくる。何とも安易な結論を書いてしまったが、今回は頭を持ち上げる・寝返るまでにスポットを当てて書いてみたい。

 

以下、教科書と外れている記述があるかもしれません。時間の経過もいい加減です。読み物としてご了承下さい。

 

私の場合、一人目の子のときはとても「観察」などという余裕はなかった。まず第一に「お世話」があり、なんとも目まぐるしくしているうちに、子は歩けるようになっていた。

 

二人目の子のときは経験から慣れて「余裕」があったので、人がどのように歩くようになるのかを観察してみた。一応大学で「人間発達学」の履修をしており、知識としては多少あったが、実物からは、より多くの気づきが得られた。

 

まず、赤ちゃんは仰向けで手足をバタバタさせている。特に足の曲げ伸ばしが力強い。初めは反射の要素が大きいので、意思で動かしている感じは少ないだろうが、「手や足は動くものだ」という知覚は、赤ちゃん自身に気づきや予感を与えるだろう。

 

ちなみに赤ちゃんに指を差し出すと握ってくるが、これは「把握反射」と呼ばれるものだ。もちろん、「それ、反射で握っているだけだよ」と、嬉しそうな妻に向かって私が言うことはなかった。敢えて言わなくても良いことは、色々とあるものだ。

 

赤ちゃんはしばらくバタバタしているだけだ。体幹はまったく動かない。この人が立ったり歩いたりする姿は、とてもじゃないが想像できない。どうやってこれから歩けるようになるのか、観察を続けることにした。

 

次に注目したのは頚部だ。頭を動かそうとするようになるのだ。どうやら仰向けで見える範囲のその先を「見よう」と色々やっているうちに、頚部の筋肉に収縮が起こり、運動学習につながっていくようだ。つまり、反射が大部分の状態から「自分の意思」が強くなっていく。「こちらを見ようとすれば頭が動かせる」これも大きな気づきだろう。

 

そして、自分で頭が動かせることが分かると、頭を持ち上げようとするのだ。これは私の考えとして、かなり大きなポイントだと思う。頭を動かしているうちに、持ち上がりそうだという予感がしたのだろうか?しかし、何のために?

 

頭を持ち上げようと頚部に力が入ると、腹筋の収縮も促される。全く動かなかった体幹が、動作に参加するようになる。「頭を動かそうとしたら体も動くじゃん!」ブレークスルーの瞬間である。

 

しかし、頚部と腹筋を使っても、真っすぐは起き上がれない。そこで体を捻っていく。するとどうだろう、何回かの試行のあとでコロンと横に転がった。「寝返り」である。頭はうつ伏せのまま上がらず、泣いている。放っておくか?いや、戻れなさそうだから手助けしよう。

 

そうだ、仰向けの状態だ。これが「安心・安全」の姿勢だ。このままで何も問題ないではないか。だが、この人は泣きやんだらまたトライするのだ。これが本当に不思議だ。今の安全を捨て「わざわざ」動いていく。「もっと違うものが見たい」「動きたい」この源泉となるものは一体なんだろう?

 

頚部に力が入る、腹筋に力が入る。頭と上体が持ち上がる。横向きになり、正中線を越えたなら、あとは自由落下だ。ぼふん。また寝返った。そして頭が持ち上がらずに泣いている。

 

また疑問が湧く。「なんでわざわざ」「こうなるでしょうに」

 

また、戻してあげる。泣き止む。寝返る。泣く。戻してあげる。泣き止む。寝返る。泣く。

 

「何でがんばるのだ?」「また泣くことになるのが、わからないのか?」健気なような、おばかのような我が子。

 

しかし、繰り返すうちに、頭が後ろにも持ち上がるようになったのだ。嬉しそうなとびきりの笑顔が見えた。

 

そして、このうつ伏せから頭が上がることは、ハイハイにつながっていく合理的な流れがある。頭が後ろに持ち上がれば今度は背筋が使われ、座位姿勢も取れるようになる。

 

できるようになると思って、無謀なチャレンジを繰り返していたのかは、わからない。だが、他に方法はないのだ。何もしなければ何も出来ないのだ。おばかなのは、私の方だ。



出来ることをしていたら、出来ないことが出てきた。

 

それでも何度もしていたら、出来るようになった。

 

そしてそれは、自分がしたいことだった。

 

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)