気楽にブログ
科学と私
恐竜や宇宙のワクワク感は、小学生のときの自分にあったのを覚えている。だが、中学生で思春期を迎える頃には段々とひねくれだし、
「人の心が科学でわかってたまるか」
「これ以上科学技術を進歩させて、良いことなんかない」
などと思うようになった。青さ全開で恥ずかしい限りだが、今でもこの2つは時折思うこともある。ただ、今だと「科学アプローチで人の心(脳)を説明できることもある」や「科学技術を発展させることによって問題を生み出すが、また解決も提示できるかもしれない」と言えるようになった。
中・高の話に戻ると、自分の関心が「人間」や「気持ち」に移る中で、物体が斜面を転がってどこまで飛ぶかということは、「まあどうでもいいかな」という感じになっていった。それよりは「羅生門」「山月記」「舞姫」「こころ」の主人公の考えや行動の方が、自分が生きていくためのヒントをくれそうだと思った。「自分がどれだけ遠くに飛べるかは、質量や高さに依らない。大事なのは気持ちだ!」みたいな。
と、書いてみたが、実際は暗記で通用していたものが高校で通用しなくなり、点数が取れない言い訳として「興味がないから」「やっても意味がないから」としていたようにも思う。
そして、私大の社会学部に入り、統計を毛嫌いし、かっこつけてカミュやモーパッサンや志賀直哉あたりの文庫本を読み、卒業した頃には、アンチ科学とは言わないまでも、科学あんまり好きくない青年になっていた。「科学が正義」や「科学で未来がバラ色」と考えている科学者は実際には少ないのだろうが、自分で勝手に作り上げ、遠ざけていた。
その後、医療系の大学に入り、自然科学を学ぶことになったが、意欲的に学んだことはなかった。「ああ、人生で何が必要になるのかわからないもんだな」ということは分かったが、「おもしろい」とか「大事」とかはあまり思えなかった。むしろ、人間をデータに置き換えて記述することに違和感があり、やはり学び直しても好きにはなれなかった。
自然科学をしっかり学んでこなかった、理解してこなかったというinfeority complexは、統計処理を用いた卒論を書き終えても拭えず、エビデンスという言葉にも、反発を覚えたままだった。仕事の現場ではカルテは書いてもデータを取ることはなかったし、理学療法士の研究論文も興味は出なかった。
という私だが、今では自然科学が「おもしろい」とか「大事」とか思えるようになった。ブログでも関連することを書いている。何でそうなったのか自分で疑問なので書いてみたい。が、今日はやめておく。何故ならもうお昼の時間だから。何故なら気楽に屋だから。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)