気楽にブログ

2024-01-19 12:23:00

悪いひとたち

免疫学者の多田富雄先生の本で読んだが、体は異物にはある程度寛容で、共存を探る。だが、ひとたび体全体にとって有害だと捉えれば、一斉攻撃を加えて排除する。生物のシステムとして、他者への「寛容さも攻撃性も」、両方デザインされ備わっているようだ。そして、このような体内での機構は、人間社会でも「受け入れと排除」「称賛と断罪」のような形で表れているように思う。

 

「こんな毎日をだるそうに過ごしている この毎日にとりあえず文句つける」ザ・フィッシュマンズ

 

「残酷性が高ければ高いほど週刊誌は飛ぶように売れる」ブランキー・ジェット・シティ

 

そう、何も今に限ったことではない。20年前だって週刊誌やワイドショーで「ネタ」は沢山あった。私たちはそれを見聞きし、「ねえ、知ってる?ひどいよねー」と、自分とは全く関係のない人たちのことを、もしくは自分とは全く関係のないかの如く、しかし自分がその人たちを断罪できることを当然として、仲間内の会話の盛り上げに使っていた。そして、お互いに共感し、「酷い奴」を攻撃することで、自分の安心を得ていた。

 

酷い奴は政治家だったり芸能人だったり、容疑者だったりと今と同じで、だが、昔と違うのは「酷さが発見されやすくなったこと」と、「攻撃が強くなったこと」だと感じる。

 

自分と無関係の人を攻撃するのも、(善い人である)自分とは関係ないと思うのも、少ない情報で人を断罪し排除するのも、多分普通のことなのだろう。そういう私もそうだから。

 

そしてもちろん、善し悪しの判断や、それを伝えて空気や制度にしていくことは、より良くなるためには必要だろう。不当に虐げられている人たちの力になることは、大切だと考える。

 

ただ、一方で、多くが明らかになっていない段階で断罪された場合、それが間違っている可能性があることを、忘れてはいけないと思う。また、断罪している相手のように自分はならないというのは、随分傲慢ではないかと、省みることも必要だと思う。

 

酷い奴や酷い事件が増えたのか、ただ単に発見されやすくなっただけなのかは、分からない。しかし、そういったニュースの総数は増え、それらに対して憤ることも増えているように感じる。目にする数が増えれば判断する数も増えるから、更に短絡的な「これは酷い」という結論も増える。そして、そういった結論が増えれば当然間違いも増える。そして、それらの間違った結論が発見されることも増えていく。酷い奴(とラベリングされた)への攻撃は強くなっていく。

 

と、このように一部、社会学っぽく書いてみた(タイトルはSNSで増す不寛容かな)が、もちろんこれは私の感想に過ぎず、なんのデータも示してはいない。「攻撃が強くなるって何だ?言葉と数字で説明してくれ。」というツッコミどころが満載だ。しかし、個別の事案に対して善い悪いを短絡的に付けていくだけではない、引いた視点は、たまには必要だと考える。自分、社会学の学士だし。

 

 

私も多くの人も、自分が善い人でありたいし、不当に不利益を被っている人たちを救いたいだろう。また、酷い奴にはそれ相応の報いを受けてほしい。出来れば自分から遠ざけたいと思うだろう。だからこそ、「これは酷い」や、「酷いやつだ」の判断には慎重でありたい。その判断が間違っているかもしれないから。その判断で良い気持ちになっているのは、自分だけかもしれないから。間違った攻撃をして、自分が酷いやつになるかもしれないのだから。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)