気楽にブログ

2026-04-04 16:18:00

4月になれば彼女は

The autumn winds blow chilly and cold

秋風が、ひやりと冷たく吹きつける 

「4月になれば彼女は」サイモン&ガーファンクル

 

20年前、サン仲村の昔話。

 

その頃私は、北里大学理学療法学専攻の学生だった。北里の理学療法学に入るのは難しく、偏差値も志も高い人が集まっていた。私は社会人入試という裏技を使い、入学していた。社会人入試は論文と面接で良いので、私のような者が紛れ込んでしまうのだ。私の代から少し経って、社会人入試の枠が減ったのだが、それが誰のせいなのかは言わないでおこう。

 

時折書いた通り、私は理系の科目がからきし苦手であったので、運よく入学したものの、授業には苦労した。理学療法学というのは医療系の学部であり、つまり医学を学ぶ。医学はサイエンスがベースなので、数学や統計学の授業があり、はっきり言ってついていけなかった。

 

そして、生理学の実習でカエルを使って神経伝達を調べるのも、子豚の解剖をするのも、楽しくはなかった。解剖の絵を描くのも嫌で、スケッチ帳にネッターという解剖学者の似顔絵を書いていた。

 

年下の同級生たちは皆「この人は何をしに来ているのだろうか」と思っていたことだろう。「人に必要とされる仕事につきたい」という、甘く身勝手な考えのみで入学した私は、「必要に応えられるだけの力を得る大変さ」を、思い知っていたのであった。

 

そのときに付き合っていた彼女は、同じ大学の薬学部で、学年は上だがもちろん年下であった。彼女はいつも忙しく、あまり会えなかったが「やせる薬が作りたくて薬学部に入ったの」というところがおもしろくて、好きだった。

 

そのうちに彼女が先に実習に行くことになった。医療系の実習は「バイトも遊びもやめてそれのみに注力すべし」というところがあり、彼女も余計に忙しくなり、更に会えなくなった。私の感覚だと10分お茶するだけなら会えるんじゃないか、と思ったのだが答えはノーで、とにかく実習が終わるのを私は待っていた。

 

そしてようやく、次の実習が始まるまでの合間に会えたが、彼女はとても疲れていた。私は自分が年上であることから、知ったかぶりで色々とアドバイスをした。だが彼女は「そうね」と言うばかりで、自分で解決しようとしていた。

 

そんな日々が続き、これから彼女が4月に就職しても、これが続くだろうと私は考えた。つまり、色々が彼女のペースに合わせて進んでいき、あまり会えず、自分の助言は聞いてもらえないのではないか、と。今思えば、いかようにも修復できたと思うが、私にはその余裕がなかった。私から別れを告げた。

 

彼女は悲しんだ。別れたくない気持ちがあったのを知り、私はひどく後悔した。だが、もう手遅れだった。人を悲しませてしまったつらさが重くのしかかり、一人ではいられなくなった。

 

耐えきれず街に出て雑踏を歩き、友達のシンちゃんがバイトをしていた、パチンコ屋に行った。汗をかいて忙しくしている彼が、私に気がついた。メールで顛末は知らせていたが、行くとは言っていなかった。

 

彼は仕事の合間に来てくれて、一言「きついよねー」と言って、そしてすぐ仕事に戻っていった。

 

人を悲しませてしまうことがあんなにつらいと、あのときに初めて知った。シンちゃんは、別れた辛さと相手を悲しませた辛さの両方を、知っていたのだろう。言ってくれた一言が、うるさいパチンコ台の音を分け、私の心にいつまでも留まった。外に出ると、秋風が冬の冷たさに、変わり始めていた。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2026-04-04 16:12:00

謝恩会なら良いのか

「それともそうじゃないのか? ネクタイなんてしめなくていい!」

若さのイメージ 谷川俊太郎

 

卒業式シーズンですね。下の娘が保育園の卒園式を控え、家でも彼女は、式で歌う合唱の練習をしています。私は傍らで聞きながら、これは本番は「うるうる」だな、と、今から感動の式が楽しみです。

 

そう、「~式」は親にとっても大事なもの。少しの緊張感、締まった感じもまた、良いものです。

 

ええ、ですから、間違っても「コスプレ」で式に参加するのはやめましょう。アート系の学校ならOKかもしれませんが。。

 

以下、回想。

 

97年度の都立M高校の卒業式、例年と変わらないごく普通の式になるはずだった。だがしかし。そこに、不届き者ありけり。

 

大学受験を終えた僕は、卒業式までもう少しという頃、友達とウダウダと過ごしていた。受験は受かったものの、高校3年生という貴重な青春時代の後半を、受験勉強に取られた気がして、二人で憤っていた。

 

「なーんか、高校生活の最後の方はつまらなかったな。・・じゃあさ、卒業式、ふざけちゃおうぜ!」「はい来た!よろこんで!」

 

1人ではやらなかっただろう。しかし、若いバカが2人で動き出すと、もう止まらない。速度の二乗に比例してバカさが増えていく。早速、町田の東急ハンズへ行き、僕は宴会用で売られていた「エルビス・プレスリー」の、白いヒラヒラのついた服を買った。ついでにサングラスとモミアゲも買い、下のズボンは買えなかったので、テニスの白い短パンを履くことにした。

 

前日に担任の先生が「明日は卒業式です。まあ、好きな服装で」と言ったのを、僕はしっかりと聞いた。そう、もともとM高は私服だった。校則が少ない、自由な校風が特長の高校だった。制服がないので、例年の卒業生は殆どがスーツ、袴が少し、という感じだった。

 

先生も「好きな服装で」と、言ったしな。。よし。「自由こそM高校の良さなのだ!それを示すのだ!」「伝統・常識にとらわれるな!」「個性を発揮するのだ!」と、僕はリベラリスト気取りにもなっていた。ただ単にふざけているのではない。思想があるのだ、と。

 

3年間「自由とわがままは違います」「ときと立場にふさわしく」「私が、私が、ではなく、周りのことも考えるように」ということを何度も聞かされただろうに、そういった「公立の教え」が、僕には響かなかったようだ先生方ごめんなさい。

 

*エルビス・プレスリーで私が好きな曲は、「Always On My Mind」です。you tubeで聴けます。

 

当日は学校のトイレで着替え、わざと遅刻して教室に入った。サングラスをしているので、わりと恥ずかしくなかった。「きゃー」「陽ちゃん、うそー」という女子の嬌声が聞こえ、男子も「陽介、お前まじウケるわ」と喜んでくれた。担任の先生は苦笑いし、「仲村、その格好で出るのか?」と言ったが、それ以上は何も言ってこなかった。

 

卒業式では、ダンスなどのパフォーマンスはしなかった。式の進行を邪魔することは良くない、あくまで「好きな服装で参加した」ということを示したかった。あとは、全力で校歌を歌った。入場・退場のときに、後輩や保護者がざわざわし、「やってやったぜ」と、僕は思った。

 

とまあ、なかなかウケた。と思っているが、中には気分を害した親御さんもいらしたことだろう。ふざけてしまい、すみませんでした。謝恩会と間違えました。皆様の寛容さに感謝しています。

 

僕にはその後、お咎めはなかったが、1年後の卒業式のときは職員会議で問題視され、「式にふさわしい、良識ある服装で参加するように」と、生徒に伝えるようになったそうだ。「あんまりリベラルに寄ると、ああいうのが出るから気をつけましょう」と、言われたかどうかは聞いていないが。

 

「式には式にふさわしく」そりゃそうだ。「らしい、ふさわしい」は、高校生なら分かるでしょう。それを敢えてズラすから、おもしろい。でも、それは敬意を欠いているのです。大人になった今の私は、「公」も重んじる、保守的な考えも身につけました。安心してください。履いてますよ。

 

僕のように、自由の意味を勘違いした生徒がいたとして、先生たちは「それはふさわしくない」と言えば良いのだろう。いつでも若者はバカを発揮し、先生たちはそれに向きあって、諌めて欲しい。

 

というわけで学生のみなさんへ、エルビスより。

 

詩人の谷川俊太郎が言うように、若いのだから、いつもはネクタイなんてしめなくていい。でも式では、ネクタイをしっかりと締めるんだ。そして式が終ったら、そう緩めて。ここからは、パーティの時間だぜ。



あなたの暮らしに気楽時間

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA) 

2026-04-04 16:08:00

そして、心の琴が鳴り響く

物語の流れは いつもそっと消えて 振り向いた瞬間 何も見えないよ 

「救われる気持ち」ザ・フィッシュマンズ

 

おじさんの思い出話です。気楽にお読み頂けたら幸いですm(_ _)m

 

心の琴線にふれる、そんな表現があります。私がこれを「ことせん」と読んでいたことは秘密です。正しくは「きんせん」ですね。心には琴があり、その弦が揺れると響くのです。感動は振動であり、それは音楽となるのです。

 

私はその昔、町田市にある都立M高校に通っておりました。そこでは毎年6月に、合唱祭がありました。「テニス部のキャプテンは代々、クラスの指揮者をやる決まりだから!」そう先輩に言われ「うす、度胸つけまっす!」と軽はずみな私は、めでたく指揮者となりました。

 

歌うことは好きだったのですが、指揮者なんぞやったことはなく、後悔し始めた頃には「時すでにIt’s too late」練習が始まってしまいました。学校近くの市民球場のベンチに、クラス毎に集まって、日の長い6月の明るさが、暗くなる時間までの合唱練習は、、さぞ近所迷惑だったと思います。今ではもう「球場練」は、行われていないのではと推察します。90年代、世間はまだまだ寛容でした。

 

私は部活で疲れたふりをして、かったるそうにし、吹奏楽部の女子が「早く練習しようよ」と言ってくれるのを待っていたものでした。なんでしょうね、あの「女子を困らせたいという気持ち」は。「まじめはかっこわるい」みたいな感じは。

 

そうです、そのときピアニカを抱えた吹奏楽部の子に、しっかりと指揮者の何たるかを教わっておけば良かった、のに。練習では何となく良い感じだったので、私はすっかり調子に乗って本番を迎えたのでした。

 

そして迎えた本番当日のホールで、ものの見事に緊張し、あわあわあわ。と3回くらい泡を吹いたのは、私が立つ指揮者台から、歌うみんなが遠く感じられたからです。「天使にラブソングを」のウーピーゴールドバーグのように、にっこりしてから指揮を始めるつもりが、竹中直人の「笑いながら怒る人」みたいな顔になっていたと思います。

 

「距離が離れれば、心も離れる」私は練習のときに、音を聞いていたのではなく、皆の表情を見て、指揮をしていたのでした。それが良く見えないとなると、頼りがありません。「いつもよりみんなが遠い今こそ、耳をすませてみんなのVIBESを掴め!」とはいかず、不安なまま、手応えなく終えました。

 

指揮はうまくいったのか、合唱はうまくいったのか、まったくわからないまま終わりました。皆もなぜか私に声をかけてくれません。「やっちまったか」と、落ち込みかけたそのときです。

 

「陽ちゃん、良かったよ」

 

S君が声をかけてくれたのです。そんなに親しかったわけでもないS君。でもその一言で、本当に救われた気持ちがしました。

 

結局、2位か3位という順位で終わり、みんなで仲良く打ち上げに行きました(どこに行ったかは、今のご時世では書けません)。歌声はあのとき会場に離散してしまったし、課題曲の歌詞もメロディも、あんまり覚えていません。でも、S君のかけてくれたうれしい一言は、ずっと心に残っています。

 

勇気が出ないとき、くじけそうになったとき、自分をもう一度信じたいとき、思い出すのは誰かが言ってくれた、そんな一言です。言葉が心にふれ、それは音楽となり、たまにリフレインしてくれるのです。

 

以上、サン(陽)仲村の昔話でした!気楽に屋では学生の行事を応援しています。体育祭、合唱祭、文化祭、ぜひ楽しんでください先生方おつかれさまです。



キラキラ ラクラク  気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2026-04-04 15:57:00

てんぱいから一言

「後輩をいじめてはいけない」

 

高校の後輩に、激辛カレーを面白がって食べさせたことがある自分が、言えたものではないのだが。

 ブログ画像

僕が中1のときのテニス部での話をしよう。

 

いつもは2年生が1年生のトレーニング指導をするのだが、その日は何故か、3年のO竹先輩が出てきた。「よし1年、今日は校庭で声出しだ!」彼は張り切って、僕たちを校庭へ連れて行った。

 

何でテニス部で声出しが必要なのかは謎だが、3年生が言うならやらねばならない。僕たちは「ナイッショー(ナイスショット)!」「一本先行ー!」など、力の限り叫んだ。野球部の奴らが苦笑いしていて恥ずかしかったが、気合を見せねばと張り切っていた。

 

O竹先輩は「もっと腹から声だせー」とかノリノリだったが、段々と飽きてきたようで、「だっふんだ」って言え、とか「お前の好きな子の名前言え」とか、段々と悪ノリしてきた。いやーそれはちょっと、と僕たちが渋ると、機嫌が悪くなってきた。

 

そうして、ちょっと気まずい感じになってきたとき、テニス部のS田先輩が、遠くを歩いているのが見えた。

 

するとO竹先輩は、お前ら、S田に「てんぱい」って言え、と言ってきた。S田先輩の髪は、いわゆる天然パーマで「天パ」と言われると激怒することを、僕たちも知っていた。「天パ」と「先輩」をかけて「てんぱい」は、「ものすごくおもしろい」と思ったが、さすがに恐ろしく、言うのは憚られた。

 

しかし、O竹先輩は「言え、言わないと終わらないぞ!」などと、僕らをけしかけた。「大丈夫、あいつが来たらおれが相手するから」とも言った。僕らは、なるほど、責任は取ってくれるのだなと思い、しかたなしに大声で叫んだ。

 

「S田てっんぱあーい」

 

次の瞬間、顔を真っ赤にして、S田先輩が僕らの方に走ってきた。

 

「まずい、ぶっ飛ばされる」僕らは恐怖で慄いた。でも、大丈夫だ、O竹先輩が何とかしてくれる。そう思った次の瞬間だ。

 

O竹先輩が、ダッシュでその場から逃げ去った。

 

呆然とする僕らの元に、真っ赤な顔で汗をたらした、S田先輩がやってきた。彼の赤鬼のような形相に、僕らは「終わった」と思い、羊の目で立ちすくんでいた。すると、S田先輩は息を弾ませながら「お前ら、どうせO竹に言わされたんだろう、ここはいいからコートに戻りな」と言った。そして、O竹先輩を猛烈ダッシュで追っていった。

 

「安堵」この言葉を、その当時知っていたか覚えていないが、当てはまる言葉は、この二文字だろうと思う。

 

容姿をからかわれるのは、中学生としては耐え難い(私も天パなのでよくわかる)。が、後輩には怒りをぶつけない。あ、先輩ってこういうものなんだな、と僕たちは知った。

 

先輩というのは立場が上だ。つまり、後輩に指図できる。その優位性が、その時の気分や周りの空気に乗っかり、時として理不尽なことが起こり得る。自分も、後輩に迷惑をかけたと思う。

 

でも多くの場合は、ある程度の範囲で収まる。(O竹先輩が逃げたのも、S田先輩が後輩をどついたりしないと、知っていたからだと思う。たぶん)

 

力があるからといって、無理を振りかざさない。それが、先輩としてのあるべき姿だと思う。そしてそれは、当たり前であって欲しい、とも思う。



あなたの暮らしに気楽時間

 

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2026-04-04 15:54:00

灯せ!友情の火

私が小学生のときの運動会のお話です。

 

私のときは6年生で組体操があり、担任の先生は「お前たちならできるようになる!」とか「仲間と力を合わせることが大事だ!」と、熱血指導でした。私も、当時はひねくれておりませんでしたので「がんばってできるようになって、先生や親に見てもらいたい!」と熱い気持ちでした。

 

当日は曇りだったのですが、組体操の頃には雨が降り出しました。今なら安全上、中止も十分ありえますが、当時は昭和。当然続行です。

 

先生が太鼓をひとつならすと、1つのポーズ。雨が強くなるなか、技が決まっていきます。1人の体操から2人での組体操、5人での扇のポーズ、4段のピラミッド。

 

そして、ついに最後の見せ場、「キャンドル」になりました。これは、肩車された2人がスクラムのように肩を組み、その上に1人乗り、立ち上がって頭の上で丸を作って炎を形作るという、難易度Zのボーズでした。

 

私は下で肩車をしていたのですが、とにかく揺れます。首の付け根から肩あたりの狭いところで立ち上がるのは、今思えば相当危険です。雨ですし、キャンドルだけは中止もあり得ます。

 

ええ、でも当然やります。昭和ですから。

 

どーん、先生の太鼓が響きました。下が立ち上がる合図です。ドーン、もう一度鳴って、いよいよ一番上の人が立ち上がります。「うっちゃん、立てたかな」祈る気持ちで、下で必死にバランスを取りました。揺れながら、でも何とかバランスは取れています。

 

どーん、どーん、ややあって、先生の太鼓が2回鳴りました。ポーズが完成した合図です。「やった、できたんだ!」そーっと、そーっと、気を抜かずに降ろしていきます。

 

後日、8ミリの上映会。こわごわゆっくり、でもしっかりと立ち上がったキャンドルの先端に、炎の形が作られていました。降りしきる雨の中でも消えることのない、友情のキャンドルの灯が、ほんの2秒ほど、ともったのです。

 

ブログ画像

 

一番上で炎を作ったうっちゃんは、「あれはこわかったよー、雨の中でやらないでしょう普通」と、大人になって飲み会で言ってました。

 

そして、ちょっと笑ったあとに彼は言いました。

 

「でもね、できる気がしていたよ」と。

 

以上、サン仲村の気楽じゃなかった昔話でした!気楽に屋では、皆さんの熱血(たまに)を応援しています。



頑張りの後は労りを

 

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