気楽にブログ
ペグをまくべし
ギターを始めて少し経った頃、友だちのうっちゃんも、ギターを始めた。ちょっと教えてくれ、と言われたので、うっちゃんの家に行った。彼は、まだチューニングができないと言った。私は、彼よりできることを、自慢したい気持ちであった。うっちゃんはチューナーを持っていたので、それをつなぎ、機械の目盛りが振れるか見ながらペグを回した。ところが、ギターのペグを回しても、一向に針が振れなかった。私は「まだまだだ。巻くべし巻くべし」と、うっちゃんを煽った。だいじょうぶ、おれの言う通りにやればいいんだよ、と自信なさげな彼の前で、私は得意になっていた。そして、まだ巻くべし、もっと巻くべし、さらに巻く「ベチン!」と、大きな音がした。
弦が切れていた。
「何が巻くべしだよ!巻きすぎて弦切れたよ!」うっちゃんは怒っていた。まあ、当然怒るよね。知ったかぶりの恥ずかしさを、身にしみた一件であった。
何でチューナーが反応しなかったのかは謎だが、機械というのは、こういうことがあるから油断ならない。弦に触れながら、その張り具合を確認して巻いていけば、弦が切れることはなかっただろう。そして、このことを強引につなげると、機械の方だけを見るのではなく、触れて確かめることが大事だと思う。そう、医療現場の話だ。目盛りが上がらないからまだ大丈夫だ、と思っていたら、、なんてことは怖すぎる。
では、私がクライアントにふれるときはどうか。指先から伝わる感覚がまず大事だ。硬さだったり、反応だったりを感じる。そして、表情、言葉、色んな情報から「押す強さは適切か」を調整する。機械は使わない。それでも強く押しすぎてしまうことは、今でもあるのだが。
今はギターのチューニングは、音叉を使っている。音というか揺れを感じて、合わせていく感じだ。もちろん、弦の張り具合を指先で確かめながらおこなう。もう、巻きすぎて弦を切ることは、ない。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
安心安全の
自分の体にふれてもらう。それは、よほど相手を信頼していないと難しいだろう。だから、気楽に屋もそうだが、何とか信頼を得ようとする広告になる。安心・安全、次に効果をうたう。効果がないばかりか、痛みが残る可能性もあるのだから、お客さんとしても慎重になるのは、当然だと思う。飲食店で言えば、おいしくないならまだいいが、お腹をこわしたくはない。
こんなに沢山の人が来てますよ、こんな権威のある人が勧めていますよ、同業者の講師もやっていますよ、メディアに取り上げられていますよ、と列挙することで、何とか「体をさわってもらうのに、信頼に値する」と思ってもらわないといけない。整体や接骨院のHPは、信頼できる人物かどうかをアピールしたものになる。
私はそれらのHPを見て「何て過剰な」と思っていたが、こうなるのも当然だと思う。それほど、信頼して来てもらうのは大変なことなのだ。私も負けじと北里卒をアピールしたり、理学療法士として整形外科で沢山の人を診てきたことを、アピールしている。この前は雑誌のインタビューも受けた。だけど、お客さんとピース写真だけは、美意識として無理だー。と、今はかっこつけておく。そのうち載せるかもしれませんが。
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ここで10dlの水を加えます
数学が苦手だ。この苦手意識は、もうずっとこのままの気がする。前は数学が嫌いでもあった。今は嫌いではない。この苦手意識は、向上するために必要な気もするし、余計な気もする。というわけで、算数だけは娘が嫌いにならないように計らおう、と考えている。国語も音楽も、体育も、美術も、「苦手だけど、うまくできないけど、楽しい」ということはあると思う。そして、楽しければいいと思う。しかし、算数は、出来ないと楽しくないように思う。そして、出来なくなると、なかなかリカバリーが難しい科目だと思う。
娘が算数でつまずかないように、そして私が算数からやり直したいために、小学校の教科書やテストに目を通している。怒られるのを承知で書くが、算数の教科書は圧倒的につまらない。数学教育の権威の方たちが編集してこれか、とさえ思う。私が小学校の頃とほとんど変わっていないように感じる。
いいんだ、できる子たちは。私のように算数ができない、嫌いになりそうな予備軍にとって、この教科書はつらい。一つ例を挙げると、単位とSI接頭辞の問題だ。10dlは何mlでしょうか?何だこれは。嫌がらせをしているようにしか思えない。dlは普段使わないから、教えなくてもいい、ということではない。血中の濃度などで、目にすることもある単位だろう。だが、今教えても、混乱するだけだと思う。
とにかくキロとミリだけにしてくれと思う。長さになると、センチが出てくる。小学生ともなればcmは、日常でも使う単位だ。だから、日常と算数を絡めていくのは良いと思う。だが、接頭辞は独立させてわかりやすく教えることも、必要ではないか?キロは1000倍、ミリは1000分の1倍。私がこのシンプルな決まりを知ったのは、高校生になってからだ。小学校高学年なら、分かるように思う。この1000ずつというのは、重さも長さも一緒です。キログラム、キロメートルですね。じゃあ、キロの1000倍を知っているひとー?ギガ?おしい、そう、メガですね。メガビッグ、先生も買ってるけど当たりませんねー。と、やれば、生徒たちはたちどころに1000倍ずつの関係を理解するだろう。デシやセンチは10のn乗と絡めて、あとから教えれば良いと思う。
と思って娘に力説解説したところ「お父さんの説明よくわかんなーい」と言われ、やはり計らいは勢い余って「余計」となり、悲しかった。
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つながりがつながる
おもしろそうだな、と思って小説を買う。そして、その解説を読むと、自分のお気に入りの作家が書いていることがある。あー、この人もこの小説家が好きなんだな、と思って嬉しくなる。こういうことはよくあって、自分がおもしろいと思う人たちは、お互いにつながっていることが多い。最近だと森毅さんのエッセイを読んで、なんか河合隼雄先生に通じるなー、と思って調べてみたら、ずっ友、マブダチであるようだった。このまえ書いた養老先生は、それこそ河合隼雄先生からはじまって、福岡伸一さん、土井善晴さん、甲野善紀さん、自分が追いかけている方たちと対談していらっしゃる。
私が「良い」と思うセンス、なかなかいいんじゃないの、と思う。これらの方たちの言葉に影響を受けていければ、気楽に屋は素敵な場所になるだろう。
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謙虚さはどこから
将棋はルールも知らないくらいなのだが、たまにYou Tubeで名勝負などを見るのが楽しい。解説の人も驚くような指し方が出て、こちらはその凄さがわからないのだが、感嘆している人を見るのが私は好きだ。それはサッカーやテニスも一緒で、「何だ今のは!」というシュートやショットを見るのは、それを見ている人の反応とともに楽しい。
あと、将棋は終わり方が独特だ。お互いが礼をしたあと、勝った方も何だか神妙な顔をしていることがある。あれは何なのだろうか。そして、感想戦というのもある。どういった試合内容だったか振り返るとき、勝負というより将棋そのものに興味が移っているように感じられる。
相手がいるから、良い試合になる。勝負も楽しいが、良い内容の試合がしたい。驚くような一撃が出たら楽しい。そんなことは、高校でテニスをやっていたときには、私は感じる余裕はなかったように思う。そして、トップの人たちは驚くほど謙虚だ。テニスで言うと、優勝スピーチでは必ず相手を思いやる発言をする。あれこそ、体育や英語の授業で紹介したら良いと思う。将棋の藤井竜王も、いつも謙虚だ。足りなかったところをもっと勉強して、みたいな発言をする。
相手に対する敬意、競技に対する敬意、そして全てをコントロールできるわけではない、という前提。一流の人はそれらが分かっているからこそ、謙虚になるのだろうと推測してみた。「ほらー、ほぐれでしょう!楽になったでしょう!」と、自分の手柄を押し付けている私は、まだまだまだ、というところでございます。
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