気楽にブログ
敗者は必ず復活する
今年も夏が終わった。各地で、学生の色んなスポーツ大会が終わったことだろう。負けて引退となった3年生も、沢山いることだろう。
そう、たった1つを除いて、残りの数多の学校やチームは負けて、この夏を終えたのだ。最後に勝って終えられた人は、とても少ない。
私は高校生のとき、都立高のテニス部にいた。そして、最後の夏の大会で、途中で負けた。
負けた選手たちは、まずは思い切り悔しがったらいいと思う。それだけの思いを持って、一つに賭けてきたのだから。届かなかったのなら、「がんばったからいい」ではないだろう。
周りへの感謝はその後でやってくるだろう。応援してくれる仲間の思いを感じ、誰かのために、と思ってテニスができたのは、私の人生であの試合だけだ。
そして、強い思いを持った若い人たちが、その思いを十分に発揮できる場を作ってあげることが、大人の役目だ。コーチをしたり、大会運営を手伝ったりして、場を用意してくれる人たちのありがたさに私が気づいたのは、随分先になってからであったが。
「人生は敗者復活」仙台育英高校の須江監督の言葉は、引退する全ての3年生へのエールだ。試合に出られなかった者もいるだろう。まさかの一回戦負けということもあっただろう。
次のシーズンは別のステージに行く。もう1回、今度こそ勝者になりたいと思ってもいい。あるいは、勝負事から離れてもいい。人生は勝負事だけではない。それでも、思い切り敗れた経験のある者は、やり遂げた自信とともに、強い気持ちとやさしい気持ちの両方を得られたはずだ。
だからこの先で必ず、復活して活躍できる。
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ユリイカを一つ下さい
以前、言葉が気になると書いた。しかし、気になってもそのままにしている言葉が多々ある。特にカタカナに多い。意味が気になり調べようと思うのだが、もったいない気もするのだ。何がもったいないのかよくわからないが。
例えば「ユリイカ」だ。確か映画のタイトルでもある。たまに目にする。だが、単体で目にすることが多く、文脈で意味を予想することができない。
ユリイカが外国語の場合はどうしようもない。しかし、カタカナの場合、固有名詞のこともある。「ダイコン」「イリオモテヤマネコ」など、日本語の可能性も捨ててはだめだ。動物?植物?なんだろう。とりあえずは「ユリ」と「イカ」に分けて探るとしよう。そして必殺!漢字変換だ。ユリは百合、イカは烏賊、つまり百合烏賊。なんだ、高級食材だったのか。「今日のおすすめは百合烏賊のバターソテーです」「じゃあ、それ一つ」
と、また知らない言葉が出てきた。「ソテー」ってどういう調理法なのか、私は知らないのだ。「蒸し」とか「焼き」とか「和え」などとは違うのか。それともこれらの違う言い方なのか、知らない。今までソテーされて出てきた料理を思い出してみると、、たぶん「塗って焼く」だと思う。
その点、漢字で書かれたものは、想像できるからいい。例えば「ポソデ スフィーヌ テルバッサ」などと書かれたメニューがあっても、全く何なのか分からない。しかし、これが漢字で「丸々小羊 多時間煮 添赤菜」と書いてあれば、大体想像がつく。まあ、赤菜が気になるところだが。
というわけで、カタカナを漢字変換が可能であれば、大体意味が分かることが分かることが分かった。ただ、「ポソデ スフィーヌ テルバッサ」に漢字表記がない場合、音を頼りに「保袖 酢不意抜 輝羽作」と自分で適当に当ててみても、一体どんな料理なんだか良くわからないのだった。
昼にびっくりドンキーのおろしそバーグディッシュのグラム数で悩みながら。
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嫌がる子どもを3秒で保育園に行かせる方法
「保育園行かない!」夏休み明けの朝、4歳の娘が泣き出した。困ったこまったどうしよう。
そんなとき、ネット情報やハウツー本に頼りたくなる。というか、頼っている。しかし、加えて私がおすすめしたいのは「河合隼雄先生の本」だ。もう鬼籍に入られたが、元文化庁長官だ。スポーツ庁長官の室伏広治さんがとてつもないように、元文化庁長官もまた、とてつもない。知の超人であり、しかもわかりやすく教えてくれる。
河合先生は言う「子どもが学校へ行くスイッチなどない」「何で学校行かないの?と聞いても、すぐに原因などわからない」と。
<スイッチを探しても>
例えば部屋の電気のスイッチを押したら、あかりがつく。あかりをつけたければ、スイッチを押せばいい。こんな感じで、子どもが学校へ行ってくれるスイッチがあるのなら、押したい。なんならお金を払ってもいい。でも、そんなスイッチは「見えない」。
<原因を探っても>
あかりがつかない。どうしてだろう。原因があるはずだ。調べてみる。電話して業者に聞いてみる。そして、これだという原因がわかる。こんな感じで子どもが保育園に行かない原因が分かれば、知りたい。なんならお金を払ってもいい。でも、そんな原因は「聞いてもわからない」。
どうしてこうなるのか。それは、子どもが機械や物ではなく人間だからですよ、と河合先生は言う。これは養老孟司先生の「子どもは自然です。コントロールなんてできない。」にも通じる。対象の仕組みを理解し、指示で操作して思い通りに動かす。プログラミングでは有効なのかもしれないが、子育てではうまくいかないこともある。
<対象ではなく自分ごと>
子どもを対象として捉えているだけでは不十分だ。ときには子どもと一緒にならなくては。同じ円の中にいる。線は引かない。原因や対処法に飛びつくのではなく、そのときの子どもが感じている気持ちを丸ごと、自分事とする。つまり、一緒に泣くのだ。
子どもが困っていることに、親も一緒に困る。その共感が共鳴し、今度は親の困りごとにも共感してくれる。かもしれない。「パパもお仕事行かないと行けないんだよ」と泣いたなら、「パパも大変なんだな」と思ってくれるかもしれない。それか「いや、パパは仕事行きなよ」と、冷静になってくれるかもしれない。
「子どもをコントロールなんてできない」「原因なんてすぐにわからない」目の前の現実を解決できないので困るが、有識者の方が言うのだから、これらは「気楽ワード」と捉えたい。保育園や学校や会社に行きたくなくて、泣きたいときもあるでしょうと。
<操作できないし、原因もわかりませんが解決しました>
ひとしきり泣いたらケロッとして「今日何時お迎え?」なんて言いながら靴を履き出す娘。え、今までの何だったの?と思う。でも、嫌で泣いたのは本当だ。すぐには教えてくれないし、本人も何が嫌なのかわかっていないかもしれないが、「嫌だ」の気持ちがあることは、心に留めておきたい。
<同じ方法は通用しませんでした>
次の朝も娘が泣いたから、同じように一緒に泣いてみたら、余計に荒れた。解決策は再現性が高くなくては標準化はしない。どうやら子育ては、自然科学の方法だけでは無理そうだ。必要なのはストーリーだ。日々の場面の積み重ねが、私と娘の大切な物語なのだ。解決するためにいるのではない。一緒にいるためにいるのだ。
「すみません、今日はお休みで。ええ、本人は元気です。明日は行けると思います。」たぶん。
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決定は仮定だ
「決定は常に仮定だ」誰の言葉かは忘れましたが、これは少し楽になれる「気楽ワード」だと思います。自分がさんざん悩んで迷って決めたことでも、変えて良いのです。
前提として、選ぶのも、また変えるのも、「自分で決める」ことが大切だと思います。誰かに言われたからだと、自分が被ることをその人のせいにしてしまうからです。
部活だってやめたって良いんだし、大学だって入り直したっていいんだし、仕事も変えればいいと思います。続けるのがつらくてこわれてしまうくらいなら、やめましょう変えましょう。
でも、いつでも変えられる、仮定だ、としておいた上で、「ある程度は」がんばってみた方が良いと思います。自分で選んで決めたことに重きを置かないと、次の選択につながりません。
あと、向いている向いていない、ってありますね。「私、学校の先生に向いてないかも」とか。これは適性があるかどうか、ということを言っていると思います。ですが、大事なのはあなたが「先生という仕事の方を向いているか」です。向いている、というのはそういうことです。
というようなことを後輩たちに居酒屋で熱弁したところ、聞いているのは一人で、あとのみんなはスマホをいじりだしてかなしくなったので、レモンサワーの大を追加注文しようと店員さんに声をかけたら「タブレットでお願いしまーす」と言われ、余計にかなしかった。(最後、町田 康に似せて)。
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今日という日を仕舞う
ある言葉が気になる。気になったらもう止まらない。世の中に素数が気になる人がいるように、私は言葉が気になる。
例えば、「仕舞う」という言葉だ。心にそっと仕舞った。などで目にする。ここに「舞う」という漢字が使われるのはなぜなのだろうか。舞う、から私は「軽やかさ」をイメージする。
だから、引き出しにしまう。も、引き出しに仕舞う。と書けば、何となく軽やかさや上品さがあるように感じる。引き出しの中でも、心の中でも、大切にしまった物や情景は、しまわれた空間で、軽やかに舞っているのかもしれない。
ところで、仕舞う。には、終わりにする、という意味がある。「〜になってしまう」や「〜になってしまった」という場合だ。どちらも終わることに後悔がにじむ。「夏休みが終わってしまう」「アイスを落としてしまった」「しまった!頼まれた玉子買ってない!」などである。
これらは仕舞う、の上品さはあまりない。ひらがな、もしくは「シマッタ!」のように、カタカナが似合う。そして、ここまで書いてようやく気付いたが、「しまった」には同じく終わりを意味する言葉として「閉まった」「締まった」などがある。しめる、にすれば「閉める」「締める」「占める」「〆る」「絞める」など沢山ある。但し「湿る」は別物だ。否定形は「しめらない」で「しまらない」とは言わない。だから「締まっている」と「湿っている」も違う。と、まだ夕方だからシモネタはよしておこう。
そして、知らなかったのは、「染める」というのを「しめる」と読むことだ。「煮染める」という言葉があるのだ。これは、染み込ませるという意味で、おわり、という意味はないのだろうか。
さてさて。しめしめ言っているうちに、もう時間が来たようだ。拙者はヨークマートで明日のパンを買わないといけない。この辺で仕事は〆て、店のドアを閉めようと思う。おしまい。お終い。お仕舞い。
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