気楽にブログ
竹取りのおじさんありけり
休日に、町田の実家に行ってきた。町田と言うと、駅前は賑やかなので、随分と開けた感じだが、私の実家は駅から遠く離れたド田舎である。蛇やたぬきや、そしてこの時期はなんとホタルまで見ることができる。水がきれいなんですねー。何せ鶴見川の源流ですからねー。
夏にはカエルの合唱を聞き、冬には日向ぼっこをし、猫と戯れてのんびり育ったら、こんな大人になってしまった。そうそして、そんな自分や地元が、私は大好きだ。就職活動で都心に通った時期もあったが、都会のオフィスで働くなど、私にはやはり無理だったのだ。早く気づいて良かったと思う。
というわけで、両親も年老いてきたので、竹切りを命じられた。竹取りおじさんとして、家の周囲の若竹たちを、片っ端からなぎ倒してきた。大きく育ってしまうと、これらは厄介なのだ。人と竹、それぞれの領分を示す必要がある。このライン、ここから先は生えないでおくれ。斜面での作業もあり、滑らないように足を踏ん張る。勢い余ってケガをしないように、加減を感じながらのこぎりを引く。色々な労作が、自分を確かめる作業にもなる。自然と対峙し、おれの手に負えるものなのか、試していく。ぎこぎこぎこ、ばきん。ふっ、やってやったぜ。倒したぜ。
終わりが分からないので勝手に終わりにし、母親の作ったうどんをおいしく食べた。窓から見えるのは、今日の自分の成果だ。生活のために自然に手を入れる。やはり、放っておくだけではエントロピーが増大するだけだ。見てみろあっちの方、竹が猛々しいではないか。手入れの重要性を再確認し、心地よい疲れとともに帰路についた。その日は、久しぶりによく眠れた。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
定期メンテで「疲れにくい疲れてもすぐに回復するお体」に!
エントロピーの増大、福岡伸一さんの本で知った言葉だ。理系の方たちには、お馴染みのことかもしれない。形あるものはすべて、乱雑な方に、壊れるほうに進むという法則だ。老化も、この一つと言えるようだ。これに対し、生命はその流れに抗わず、自らを壊し(正常な細胞でも)、再生することによって、エントロピーの中でもがいている。これが動的平衡、動きながらバランスを取ることだと、私は解釈している。
放っておいても壊れて(老いて)いくが、日々の活動のがんばりが大きいと、それはそれでダメージとなる。また、突発的なケガや病気もある。それに対し、自己治癒力という言葉がある。例えば創傷が治る過程で、組織を壊し(炎症)、その上で再生していく。体に元々備わっている、素晴らしい回復能力だ。
放っておくと、徐々に劣化する。または、日々の活動でダメージを受ける。それに対し、自己破壊と再生、そして自己治癒力で、何とかしている。これが体の前提だ。放っておいて「様子をみましょう」でも、何とかなることも多い。
では、整体とは何だろうか。私は手入れだと思う。体はうまくできているので、大体は大丈夫なのだが、「手入れをしたほうが、より長持ちするだろう、自己治癒力をサポートするだろう」ということだ。整えても、また乱れていく、崩れていく。その幅を、小さくするのが狙いだ。木の手入れ、歯の手入れ、整体はメンテナンスだと考える。
だから、私の整体には「はい治りましたよ!」という終わりはない。クライアントさんとの関係が続く限り、月に1回でも通って頂きたいと考えている。経営的にそれがいいからでしょう?と聞かれたら、はい、その通りです。と答えるところでございます常連さんが大事。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
Shall we dance?
暇なときは、本を読んでいる。ときもあるが、やはりYou Tubeがおもしろい。志村けんも、ブルーハーツも、昔の映像が見られるし、大谷翔平の活躍も、ダイジェストで見られる。あとは、やはりテニスだ。フェデラーや錦織のスーパーショット集は、最高だ。あんなボールが打てるものなのか!!と感嘆符を連発してしまう。
フェデラーは、一番好きなテニスプレーヤーだ。彼のプレーは、他の人にはできないように思う。私は力が入りすぎて、カクカクした動きでテニスをしてしまうので、彼のような滑らかさはずっと憧れだ。
いつかの中継で、実況が「まるでダンスをしているようなプレーだー」と言っていたのを、よく覚えている。ダンスのようにテニスをする。軽やかに、涼しげに、リズミカルに。ボールを打つ音が、コートを駆ける靴音とともに、ハーモニーを奏でる。観客は、たちまち魅了される。素敵な音楽と美の時間が、そこにある。
小川洋子さんの「からだの美」という本を読んで、自分でも書けそう!と思って書いたけど、無理でした。書くプロは全然ちがう、当たり前だが。「からだの美」おすすめです。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
良いだろ?おれの緑い車
赤い車、青い車、白い車、そして緑い車。そう、緑い車とは言わない。今、これをPCで書いているが、下に赤線が引かれて訂正を促されている。緑い車、と言ったのは、うちの下の娘だ。私は微笑ましいな、と思い、「緑の、だよ」と訂正しようとした。でもなぜ、緑いとは、言わないのだろうか。赤い、青い、とくれば当然、緑い、ではないか。実は子どものほうが、法則性を理解して言葉を発しているのでなないか、と思う。
長女のときは5分を「ごぷん」と言っていた。3ぷん、4ぷん、とくれば、当然5ぷん、だろう。言葉を覚えるのは、聞いて真似して覚えるのもあるが、規則性から予測して言うことも、あるのかもしれない。言い間違えを大人は笑うが、子供のほうからすれば、おかしいのは大人の方であろう。茶い車も、赤色い車も、ピンクい車も、別に変じゃない。また下に赤線引かれたけど。
上の娘は小学生になって、もう5ぷんとは言わないし、10日を「とうか」とも読める。もっと間違えても楽しいのにな、とも思うが、間違うのが嫌いな年頃になってしまった。下の子はトランプが好きだが、9とQがキューで同じなのが、納得いかないようだ。そうそう、納得いかないのも、大事よね。
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私にはある、何が、自恃と友だちが
気楽に屋を開き、ブログを書き始めて1ヶ月。週に3人ほど、お客様がいらして頂けるようになった。リピートして頂ける方も、少しいらっしゃる状況だ。知り合いではない方が来店して頂ける、その有り難さを感じている。もちろん、今のままでは家賃も支払えない収益だ。けれども、まずは半年がんばってみようと思う。万人受けするとは思えないが、中にはファンになってもらえる方も、いらっしゃるのではないか、と思っている。
収支の不安、集客の不安はある。しかし、気楽に屋を1人でやっていくことには、揺れることはあっても折れることはない。ようやく「これだ!」と思えたから、気持ちは前向きだ。ビジネスではあるけれども、自分らしくやりたいようにも、したい。ホットペッパービューティーのブログもそうだが、ブログはわりとふざけて書いていることも、やはり出てきた。文章は自分を隠せない。まあ、でもいいんだ。嫌がる人もいるだろうが、楽しんでくれる人もいるだろう。
そう思えるのは、今まで自分が読んできた本や、今まで一緒に遊んできた友だちがいるからだ。今回独立するにあたり、友だちが「陽ちゃんならうまくいくと思う」と、言ってくれたのには、びっくりした。「しようもないやつ」と思われていると、ずっと思っていたからだ。なんだかとても、力と自信がわいた。自分が好きな人が自分を認めてくれる。これ以上にうれしいことは、あまりない。
人の不安を煽るような宣伝広告はあまりせず、かっこよくいきたいと思う。と言いながら、キャンペーンのお知らせをしてしまう私なのだが。そんなときはハイロウズ、忌野清志郎、中原中也、を引っ張り出す。
「これがどうならうと、あれがどうならうと、そんなことはどうでもいいのだ 人には自恃(じじ)があればよい その余はすべてなるままだ」ようやく心からこの詩に共感できるようになって、うれしい。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)