気楽にブログ

2023-08-15 15:08:00

いい、ね

前回は映画「フル・モンティ」について書いた。「ギルバート・グレイプ」や「ブロンクス物語」「スティング」など、好きな映画は沢山あるが、元気になりたいときは、やはりコメディがいい。目の前の現実が深刻でつらいときでも、ちょっと笑いを入れられれば、気楽になれることがある。すべてを笑い飛ばせはしない。笑ったところで解決はしない。でも、そのまま悩みに飲まれて転がって行くところを、少しの間止めてくれる。

 

人前でスッポンポンになるのは勇気がいる。と書いた。それはこうやって文を書いてネットに載せるのと、似ているのかもしれない。見せれば必ず評価される。評判が聞こえる。それが「いいね」だけではないとき、自分は落ち込まないでいられるだろうか。気楽に屋をはじめるとき「サン仲村」と言う名前にしたのも、逃げを作っておきたかったからだと思う。

 

ところで、フル・モンティの続編について、主演のロバート・カーライルのインタビューを読んだ。その中で、イギリスの緊縮財政によってみんなの生活がきつかった、という恨み節を述べていた。役者が政治批判をするのは、自身にとってメリットはないだろうに、やっぱりかっこいい。あと、やっぱり緊縮財政はろくなもんじゃない。

 

コメディは、世の中、体制、政治、に抗う要素がある。役者や監督は笑える作品を作りたいのと同時に、世の理不尽さに物申したり、つらい思いをしている人たちを応援したいのだと思う。つまり、ロックミュージックと相性がいいのだ。

 

何とか学も、生きていくためには大切だ。そして、コメディやロックも必要だ。全部が勉強だし、全部が表現だ。人や社会に嫌気が差して引きこもっていた、大学時代の私。それでも、本や音楽や映画を吸収していたのは、生き抜く術を探っていたのかもしれない。人や社会が嫌いなのではないと、ようやく分かった。

 

誰かを気楽に笑わせるために、なくならない理不尽にやられないように、それら作品はあるのだ。これからも、おもしろいいとか、かっこいいとか、そんな「いい」と思える色々を受け取りたい。そして自分でも、わけのわからないい文を書いていきたい。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-08-13 12:11:00

つらいことはコメディにして抗う

このサイトのスタッフ紹介で、好きな映画として「フル・モンティ」を挙げている。97年だから、私が、高校を卒業したくらいの映画だ。トレインスポッティングにも出ていたロバート・カーライルがおもしろかっこ良くて、こうなりたくはないけどこんな感じもいいな。と、当時は思った。

 

登場人物は6人のおっさんなのだが、紹介が「six men with nothing to lose」というのが、いい。「失うものはなにもない」この言葉は、私のおすすめの「気楽ワード」だ。基本保守な私だが、ちょっと勇気を出したいときには「ナッシング トゥ ルーズ」とつぶやくことにしている。特に人前に出ないといけないときなど、おまじないとしてきた。

 

とにかく金がないし、希望もない彼らが、開き直って男のストリップをして一攫千金を狙う。だが実際は、「失うものは何もない」のではなく、家族だったりプライドだったり、羞恥心だったり、大切にしているものがそれぞれある。自暴自棄でなく、たっぷり躊躇して「自分で決めて」ステージに立つことが描かれている。

 

そして、物語がコメディタッチで進むのがまたいい。おっさんたちがそれぞれ悩みを抱えながら、集まって冗談を言ったり、サッカーしたりする。とにかく明るい。数人でも友だちがいれば、人生はコメディになっていける。私は、そう思っている。

 

観客の前でストリップをすることは、恥ずかしいことだ。自分を出して評価を受けることは、きついことだ。それでも、その恥ずかしいこと・したくはないことを「なるべくかっこよくする」ことは可能だ。お金のためだとしても、そのせいだけにせず、自分の意志で出演する。一夜限りの演者になれたとき、何か乗り越えたような自己肯定が出たのではと、大げさに想像した。

 

うだつが上がらない連中の、最後のステージシーンは見事だ。スッポンポン(フル・モンティ)になるのは、おまけだ。クライマックスではあるが、それがすごいのではない。練習し、自信を持ったダンスこそが、「演じている」証であり、ショーとして成り立っているのだ。最高潮の盛り上がりを見せ、おっさんたちが輝く。

 

どんなレビューがあるのかネットで調べたら、何と今年、同じキャストで続編をやっていた。え、みんなおっさん過ぎてますけど、大丈夫か?うわー、これは見たい。と思ったら配信がディズニープラスだった。アマゾンプライムでやってよ、もう。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-08-09 19:14:00

笑顔が似合う 楽しくなる(TUBE)

夏休み!ということで、家族で伊豆の海に行ってきた。小学生の長女は「今年は海には入らないから」と言っていたが、着いた瞬間に気持ちが変わり、にこにこしながら駆け出した。塩辛くていやだ、べたべたするからいやだ、と言っていたのはどこへいったのか。それくらい、やはり海は魅力があるのだと思う。

 

下の子も、最近うまくいかないことがあると、すぐにむくれるという難しい頃なのだが、終始ご機嫌だった。パパは娘たちが「ごきげんさん」だと、とても嬉しい。もちろん、ずっとそうではないのだけども。

 

海に入って遊ぶのは楽しい。長女は「ずっといられるの、何でだろうね」と、その楽しさを不思議に感じたようだ。確かに、浮き輪一つ、小さなバケツ一つくらいで、ずっと遊んでいた。遊具がたくさんあるような遊び場でも、こんなにずっとは居られない。

 

その一つに、波があるように思う。穏やかな波であったが、毎回違う波が来る。その波に体を乗せたり、対抗したりするのは、体全体の楽しい体験だ。ぷかぷかしているのも、心地よい。開放感のある空と、何故かそんなに暑く感じない太陽と、「夏の中にいられるのが、海だ。」と感じた。

 

「見た」何を?「永遠を」「それは海に溶ける太陽だ」と、ランボーを気取りたいと毎年思うのだが、今年も曇りがちのサンセットであった。しかし、うす赤色になった空は、太陽がこの世界を色づけていることを、再確認させてくれた。

 

「夏の海 たゆたうほどに 気もほぐれ」などと、気楽に俳句を詠んでしまったが、これほど脱力でき、気持ち良いのは、やはり暑い夏の海だからだろう。「春の海 ひねもす のたりのたりかな」蕪村を真似してこしらえてみた次第である。

 

この夏は岡潔にまだハマっていて、ずっと読んでいる。皆さんにも知っていただきたいので抜粋する

「夏は万物が生命感にあふれている。いいですね。だから勉強もよくできます。勉強だって生命感の充実を離れてはあり得ません。フランスでは、季節が日本ほどはっきりしていないんですよ。だから、日本人がフランスに行って数学をやるのは難しいと思いますね。」

これは、失礼だが笑ってしまった。フランスに行ったら四季がないから、日本人が数学をやるのは難しいだろうなー、と考えたことは今までなかった。理系の人には、ほんのり分かる感覚なのだろうか、興味深いところだ。

 

「生命感の充実」を感じられるから夏は勉強がはかどる!を、ぜひ感じてみたかったのだが、いかんせん数学の本を持っていってなかったので、日本酒を頂いてお刺し身を食べ、自分の生命感の充実を感じてきたというところです。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-08-09 11:44:00

自分語りしかない

この前書いた「それとも、そうではないのか?私は核抑止力なんて大嫌いだ!」は、中学生のときに読んだ谷川俊太郎の「それとも、そうではないのか?ネクタイなんかしめなくていい!」と、岡本太郎の「おれは進歩と調和なんて大嫌いだ!」の影響で言葉が出ました。このように、自分が何かを語るときは、自分が読んできた文が出てきます。

 

「うん、それはパクリだよ」そう言われるかもしれませんが、自分の思いを言葉に乗せたいときに、前からある表現を借りることは有効です。それは自分が考えたオリジナルではありません。しかし、思いがあれば、表現に自分が入っているのだと思います。

 

本、マンガやアニメや映画、歌の歌詞でも良いですが、言葉を使った表現を自分の中に通すことで、自分の気持ちや考えを表現しやすくなります。例えば「諦めたらそこで試合終了ですよ」というスラムダンクの安西先生の言葉があります。皆さん、人生の中でときおり使ったことがあるのでは、と推察します。

 

原作でどんな文脈や情景で使ったのかは忘れていても、眼の前の現実に、作品のセリフが合うときがあるものです。そして、自分を支えたり押してくれたりするのです。作品全体、ストーリーだけではなく、ワンセンテンスだけでも心に残れば、それが味方をしてくれることがあります。

 

「自分語り」が、嫌われる風潮があるようですが、自分のことの他に、何を語ろうというのでしょうか。そのなかに出てくる言葉は使い古しの表現でも、元ネタがあったとしても、使う場面が違えば新しいと思います。そして、個人の経験や気持ちこそ、AIでは書けないことであり、それこそが記しておく意味がある文だと思います。

 

ネットで調べて分かることを貼り付けても、それは情報であって表現ではない。AIに気楽に屋のおかしなブログは書けまい。と、何故か張り合う。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-08-08 15:25:00

風が強く吹いている(三浦しをん)

以前、岡潔についての投稿で「自分がどんな風の中に身を置いてきたか、どんな地を歩いたかによって、自分が生み出せるものが変わる。」と書いた。そのときは風と地について、何の気なしに書いたが、地を土とすればすなわち「風土」ということになる。

 

このところニュースを読んで「企業風土」という言葉が気になった。会社で何か不正が発生したとき、その不正に「企業風土」はどれくらい影響したのであろうか。私は少なからず影響があると思う。思う、であるから推察である。

 

会社の風というのは、社員が社内外で受けている様々である。それは叱咤であったり励ましであったりする。穏やかな風もあるだろうし、向かい風、追い風もあるかもしれない。または、突風や嵐かもしれない。そんな「社風」が自分と合っていれば、何とか頑張れるだろう。「風通しが良い」「良い風吹いている」「嵐がくる」実に色んな表現があるものだ。

 

そして、会社の土というのは、社員が進めている仕事のことだ。その困難さも様々だ。道標がある道かもしれないし、分岐が多い道かもしれない。登り坂かもしれないし、下り坂かもしれない。または道はなく、その場に留まり、耕すかもしれない。そんな「社地」や「社道」が自分と合っていれば、何とか頑張れるだろう。「地に足をつけて」「道なき道を」「道をそれる」実に色んな表現があるものだ。

 

そんな「風土」に身を置き、人と関わって仕事をしていけば、自分の考えや行動が、風土に影響を受けるのは、当然だと思う。学校もそうだが、風土が自分に合うか否かで、自分が変わり得る。その中で、どう頑張っても合わないときは、場所を変えるか、もしくは自分で始めるかした方が良いと思う。

 

実際は働いている人々が風土を生み出すこともあるから、一方的ではないのだろう。そこで、不正が起きるときは、企業風土と社員のミスマッチが要因の一つではないかと考えた。反対に成果が上がるときは、企業風土と社員のベストマッチも要因の一つだと思う。

 

悪いことが起きたとき、社長が悪い、従業員が悪い、組織が悪い、仕組みが悪い、政治が悪い、犯人を決めつけて、「何かのせい一つにすると納得しやすい」が、それは短絡的で誤ることも多いだろう。社会学、心理学、生物学、統計学、あと理学療法学、をもっと学べば、この複雑な「物事の要因になるもの」について、もう少しクリアに分かるのかもしれない。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)