気楽にブログ

2023-08-31 12:03:00

嫌がる子どもを3秒で保育園に行かせる方法

「保育園行かない!」夏休み明けの朝、4歳の娘が泣き出した。困ったこまったどうしよう。

 

そんなとき、ネット情報やハウツー本に頼りたくなる。というか、頼っている。しかし、加えて私がおすすめしたいのは「河合隼雄先生の本」だ。もう鬼籍に入られたが、元文化庁長官だ。スポーツ庁長官の室伏広治さんがとてつもないように、元文化庁長官もまた、とてつもない。知の超人であり、しかもわかりやすく教えてくれる。

 

河合先生は言う「子どもが学校へ行くスイッチなどない」「何で学校行かないの?と聞いても、すぐに原因などわからない」と。

 

<スイッチを探しても>

例えば部屋の電気のスイッチを押したら、あかりがつく。あかりをつけたければ、スイッチを押せばいい。こんな感じで、子どもが学校へ行ってくれるスイッチがあるのなら、押したい。なんならお金を払ってもいい。でも、そんなスイッチは「見えない」。

 

<原因を探っても>

あかりがつかない。どうしてだろう。原因があるはずだ。調べてみる。電話して業者に聞いてみる。そして、これだという原因がわかる。こんな感じで子どもが保育園に行かない原因が分かれば、知りたい。なんならお金を払ってもいい。でも、そんな原因は「聞いてもわからない」。

 

どうしてこうなるのか。それは、子どもが機械や物ではなく人間だからですよ、と河合先生は言う。これは養老孟司先生の「子どもは自然です。コントロールなんてできない。」にも通じる。対象の仕組みを理解し、指示で操作して思い通りに動かす。プログラミングでは有効なのかもしれないが、子育てではうまくいかないこともある。

 

<対象ではなく自分ごと>

子どもを対象として捉えているだけでは不十分だ。ときには子どもと一緒にならなくては。同じ円の中にいる。線は引かない。原因や対処法に飛びつくのではなく、そのときの子どもが感じている気持ちを丸ごと、自分事とする。つまり、一緒に泣くのだ。

 

子どもが困っていることに、親も一緒に困る。その共感が共鳴し、今度は親の困りごとにも共感してくれる。かもしれない。「パパもお仕事行かないと行けないんだよ」と泣いたなら、「パパも大変なんだな」と思ってくれるかもしれない。それか「いや、パパは仕事行きなよ」と、冷静になってくれるかもしれない。

 

「子どもをコントロールなんてできない」「原因なんてすぐにわからない」目の前の現実を解決できないので困るが、有識者の方が言うのだから、これらは「気楽ワード」と捉えたい。保育園や学校や会社に行きたくなくて、泣きたいときもあるでしょうと。

 

<操作できないし、原因もわかりませんが解決しました>

ひとしきり泣いたらケロッとして「今日何時お迎え?」なんて言いながら靴を履き出す娘。え、今までの何だったの?と思う。でも、嫌で泣いたのは本当だ。すぐには教えてくれないし、本人も何が嫌なのかわかっていないかもしれないが、「嫌だ」の気持ちがあることは、心に留めておきたい。

 

<同じ方法は通用しませんでした>

次の朝も娘が泣いたから、同じように一緒に泣いてみたら、余計に荒れた。解決策は再現性が高くなくては標準化はしない。どうやら子育ては、自然科学の方法だけでは無理そうだ。必要なのはストーリーだ。日々の場面の積み重ねが、私と娘の大切な物語なのだ。解決するためにいるのではない。一緒にいるためにいるのだ。

 

 

「すみません、今日はお休みで。ええ、本人は元気です。明日は行けると思います。」たぶん。

 

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

 

2023-08-30 16:47:00

決定は仮定だ 

「決定は常に仮定だ」誰の言葉かは忘れましたが、これは少し楽になれる「気楽ワード」だと思います。自分がさんざん悩んで迷って決めたことでも、変えて良いのです。

 

前提として、選ぶのも、また変えるのも、「自分で決める」ことが大切だと思います。誰かに言われたからだと、自分が被ることをその人のせいにしてしまうからです。

 

部活だってやめたって良いんだし、大学だって入り直したっていいんだし、仕事も変えればいいと思います。続けるのがつらくてこわれてしまうくらいなら、やめましょう変えましょう。

 

でも、いつでも変えられる、仮定だ、としておいた上で、「ある程度は」がんばってみた方が良いと思います。自分で選んで決めたことに重きを置かないと、次の選択につながりません。

 

あと、向いている向いていない、ってありますね。「私、学校の先生に向いてないかも」とか。これは適性があるかどうか、ということを言っていると思います。ですが、大事なのはあなたが「先生という仕事の方を向いているか」です。向いている、というのはそういうことです。

 

というようなことを後輩たちに居酒屋で熱弁したところ、聞いているのは一人で、あとのみんなはスマホをいじりだしてかなしくなったので、レモンサワーの大を追加注文しようと店員さんに声をかけたら「タブレットでお願いしまーす」と言われ、余計にかなしかった。(最後、町田 康に似せて)。

 

手当整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-08-27 19:05:00

今日という日を仕舞う

ある言葉が気になる。気になったらもう止まらない。世の中に素数が気になる人がいるように、私は言葉が気になる。

 

例えば、「仕舞う」という言葉だ。心にそっと仕舞った。などで目にする。ここに「舞う」という漢字が使われるのはなぜなのだろうか。舞う、から私は「軽やかさ」をイメージする。

 

だから、引き出しにしまう。も、引き出しに仕舞う。と書けば、何となく軽やかさや上品さがあるように感じる。引き出しの中でも、心の中でも、大切にしまった物や情景は、しまわれた空間で、軽やかに舞っているのかもしれない。

 

ところで、仕舞う。には、終わりにする、という意味がある。「〜になってしまう」や「〜になってしまった」という場合だ。どちらも終わることに後悔がにじむ。「夏休みが終わってしまう」「アイスを落としてしまった」「しまった!頼まれた玉子買ってない!」などである。

 

これらは仕舞う、の上品さはあまりない。ひらがな、もしくは「シマッタ!」のように、カタカナが似合う。そして、ここまで書いてようやく気付いたが、「しまった」には同じく終わりを意味する言葉として「閉まった」「締まった」などがある。しめる、にすれば「閉める」「締める」「占める」「〆る」「絞める」など沢山ある。但し「湿る」は別物だ。否定形は「しめらない」で「しまらない」とは言わない。だから「締まっている」と「湿っている」も違う。と、まだ夕方だからシモネタはよしておこう。

 

そして、知らなかったのは、「染める」というのを「しめる」と読むことだ。「煮染める」という言葉があるのだ。これは、染み込ませるという意味で、おわり、という意味はないのだろうか。

 

さてさて。しめしめ言っているうちに、もう時間が来たようだ。拙者はヨークマートで明日のパンを買わないといけない。この辺で仕事は〆て、店のドアを閉めようと思う。おしまい。お終い。お仕舞い。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-08-26 12:31:00

歩いてみたら

例えば手首を骨折して、良くなるまで自転車に乗れなくなったとします。子どもを保育園に送るのに、歩いていくことになりました。ケガをした不運を嘆き、いつもより早起きすることで、疲れもたまります。しかしある日、歩いて保育園に向かっていると、子どもが言いました。「あ、かわいいお花咲いてるー。」そのとき、はっと気づいたのです。歩いたからこそ、見える景色があることに。子どもとの、豊かな時間を得たことに。

 

ケガや病気、しない方が良いでしょう。でも、したことで得られる何か、もあるものです。

 

前職で「早く自転車に乗れるようにがんばりましょうねー」と言いながら、目的を一つにしてリハビリを進めていた私。「浅いなー自分」と思う気づきを得たのは、このようなエピソードからです。利他の難しさを都度、感じました。何が良いことになるかは、分からない。図ってできるとも、限らない。人の役に立つって難しい。

 

私は整体サロンを開いた今も、体を良くするだけではなく、その方の生活が豊かになったらと、思い上がって施術をします。その難しさや自分の及ばなさを知りながら、それでも自分ができることを、積んでいきたいと思います。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-08-26 11:39:00

体験学習

以前、ふれること、子どもの教育、について書いた。動物に嫌がられないようにふれることは、ふれる側のやさしさを育ててくれると私は期待する。だから動物ふれあいコーナーを、ふれるきっかけとして応援していきたい。

 

動物愛護は、ひいては人への思いやりに通じると期待できる。自分の子どもにも、動物にやさしくできる人になって欲しいと思う。学校で動物を飼うのも賛成だ。一方で、飼った動物をしめ、最後に食べるのを食育とするのは、やりすぎだと思う。

 

食べるというのは「命を頂くこと」だから「頂きます」というのを伝えたいというのは、わかる。だが、感受性の強い小さな子どもに生き死にをダイレクトに教えるのには、私は抵抗を感じる。よほどうまくやらないと、「嫌な体験」として残り得ると思う。

 

異論はあるだろうが、家畜と「仲良くしない」というのは、知恵だと私は思っている。藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」という作品にあるように、仲良くしてしまったら、食べようとは思えない。動物愛護の観点から矛盾するが、現実の矛盾と、どの程度折り合いをつけるかが、私の個性だ。私は牛はかわいそうだから殺したくはない。でも、ステーキとして出たら食べたいのだ。その牛が生きていたときのことは、知りたくない。まったく嫌な大人だと、自分でも思う。そして、仲良くした牛を食べることが、食べ物を大切することにつながる良い経験になると、私には思えない。

 

私が推奨したい「ふれる体験学習」も、子供同士でやろうと思ったら、恥ずかしがって嫌がって、うまくいかないかもしれない。このように、体験学習をすれば簡単に教えられると思ったら、大間違いだ。

 

 

 性や食や死に関して、子どもの疑問に答えないといけないときに、サイエンスも、体験も、物語も、有効だろう。だが、子どもに応じて適切に提供するのは、至難だ。つくづく教育は大変だと思う。そして、自分を鍛えてくれる。親たち、先生たち、自分、おつかれさまです。

 

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)