気楽にブログ
読書感想文の書き方
夏休みだ。海に行って楽しかった。おうちでゲームをするのも楽しかった。マンガもたくさん読んだ。そして、宿題がまだ終わっていない。という子どもも、多いだろう。計算ドリルと漢字の書き取りは何とか終わらせたが、「自由研究」と「読書感想文」が残る、というのもお決まりのパターンだ。
「読書感想文」について。私は小学校の頃に母親に勧められ、読書感想文を宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にした。そして、うまく書けずに途中で半泣きになったのを覚えている。読んでいて、途中までは良いのだ。だが、後半になってタイタニック号とかサザンクロスとかの話になり、ファンタジーが過ぎて、よくわからなくなって、読むのが嫌になった。そして、読んでよくわからなかったので、書くのはもっと嫌な経験だった。
大人になるにつれ、宮沢賢治の良さが段々と分かるようになり(今でも銀河鉄道の夜の後半はよくわからないが)、好きでたまに読み返す。しかし、とっかかりとして嫌な気持ちがあったので、宮沢賢治は好きだが、読書感想文は嫌な思い出だ。このように、読書のきっかけとして読書感想文は、良いとも悪いとも言える。
そこで提案としては、読書感想文は一冊まるごとではなく、「気に入った文章」や「気に入った場面」などについて書くだけで、まずは良いと思う。以前、自分が読んだ一文が自分を支えたり押してくれたりすると、このブログで書いた。ワンセンテンスでも良いから本から自分に写し、残すことが読書の良さだと思う。読み終えること自体に、そんなに価値はないと思う。
例えば、銀河鉄道の夜であれば、やはりクライマックスのカンパネルラとジョバンニのやり取りに、私は感動する。「本当のしあわせ」「人にやさしくすること」、自己犠牲の美しい儚さは、自分には真似できないが、よく生きるのヒントを与えてくれる。読むたびに、「自分ももっと人にやさしくできたらいいな」と思う。そして、自分の人生経験が増えれば、その場面やセリフの響き方も変わってくる。
どうしても読書感想文はストーリーを書いて、「おもしろかったです。」になりがちだと思う。大人になった今でも、読書感想文を書くのは難しい。だからこそ、もちろん文脈があってセリフや場面があるのだが、ストーリーよりも、まずは出会った一文への感動を書きとめて欲しいと思う。
本を読んで文を書くことは、終わらせなくてはいけない課題ではなく、より良く強く生きていくための支えとなり得ることを、知って欲しいと思う。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
タッチングセラピーのすすめ
今回は、ホットペッパービューティーのサイトに投稿したものと同じ内容でございます。まじめな文でございます。
気楽に屋はタッチングセラピー(手当て)を広めています。体にふれることの有効性を、ぜひ多くの人に再認識して欲しいと考えています。
タッチングセラピーには
・自分にふれる
・セラピストにふれてもらう
・大切な人にふれる
の3つがあります。
タッチングの第一の効果は、「自分を慈しむ気持ちや、ここにいる安心といった、自己肯定感を得られる」ことです。皮膚への刺激と触れている感触で、自身の存在を確かめられます。
タッチングの第二の効果は、ふれる心地よさが「疲れや痛みが緩和する」ことです。
これは、心地よい快の刺激が、脳を介して自律神経やホルモンに作用することに依ります。
タッチングの第三の効果は、「思いやりや優しさで、相手との絆が深まる」ことです。パートナーや子供へのタッチングは、相手を癒やし、そして自分も癒やします。
いずれの効果も、ご自身で感じてもらい、確認してもらうものです。なかなか数字や見た目では表せません。しかし、脳科学や心理学で、その効果が認められてきています。
参考書として「手の治癒力」山口創 「みんなのセルフタッチング」中川れい子
の二冊をおすすめします。
まとめると、
・自分で自分にふれることで、自己肯定感が得られます。
・セラピストにふれてもらうことで、疲れや痛みが緩和します。
・近しい人にふれることで、お互いの絆が深まり、癒されます。
これらが「いたわりの普及」「笑顔のひろがり」「やさしさの循環」という、気楽に屋の3つのコンセプトにつながります。
他者へのタッチングは、セクハラや衛生面など、留意する点もあります。効果も人それぞれで、万能ではありません。しかし、自己肯定感が上がり、疲れや痛みが緩和し、人との絆が深まれば、それはより良い生活、より良く生きることにつながると、私は考えています。また、自分でも実感しています。
「自分自身にいたわりを 大切なひとにやさしさを」少し休みを入れれば、またがんばれる。そう、大丈夫。良くなる方法は、もう分かっているから。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
いい、ね
前回は映画「フル・モンティ」について書いた。「ギルバート・グレイプ」や「ブロンクス物語」「スティング」など、好きな映画は沢山あるが、元気になりたいときは、やはりコメディがいい。目の前の現実が深刻でつらいときでも、ちょっと笑いを入れられれば、気楽になれることがある。すべてを笑い飛ばせはしない。笑ったところで解決はしない。でも、そのまま悩みに飲まれて転がって行くところを、少しの間止めてくれる。
人前でスッポンポンになるのは勇気がいる。と書いた。それはこうやって文を書いてネットに載せるのと、似ているのかもしれない。見せれば必ず評価される。評判が聞こえる。それが「いいね」だけではないとき、自分は落ち込まないでいられるだろうか。気楽に屋をはじめるとき「サン仲村」と言う名前にしたのも、逃げを作っておきたかったからだと思う。
ところで、フル・モンティの続編について、主演のロバート・カーライルのインタビューを読んだ。その中で、イギリスの緊縮財政によってみんなの生活がきつかった、という恨み節を述べていた。役者が政治批判をするのは、自身にとってメリットはないだろうに、やっぱりかっこいい。あと、やっぱり緊縮財政はろくなもんじゃない。
コメディは、世の中、体制、政治、に抗う要素がある。役者や監督は笑える作品を作りたいのと同時に、世の理不尽さに物申したり、つらい思いをしている人たちを応援したいのだと思う。つまり、ロックミュージックと相性がいいのだ。
何とか学も、生きていくためには大切だ。そして、コメディやロックも必要だ。全部が勉強だし、全部が表現だ。人や社会に嫌気が差して引きこもっていた、大学時代の私。それでも、本や音楽や映画を吸収していたのは、生き抜く術を探っていたのかもしれない。人や社会が嫌いなのではないと、ようやく分かった。
誰かを気楽に笑わせるために、なくならない理不尽にやられないように、それら作品はあるのだ。これからも、おもしろいいとか、かっこいいとか、そんな「いい」と思える色々を受け取りたい。そして自分でも、わけのわからないい文を書いていきたい。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
つらいことはコメディにして抗う
このサイトのスタッフ紹介で、好きな映画として「フル・モンティ」を挙げている。97年だから、私が、高校を卒業したくらいの映画だ。トレインスポッティングにも出ていたロバート・カーライルがおもしろかっこ良くて、こうなりたくはないけどこんな感じもいいな。と、当時は思った。
登場人物は6人のおっさんなのだが、紹介が「six men with nothing to lose」というのが、いい。「失うものはなにもない」この言葉は、私のおすすめの「気楽ワード」だ。基本保守な私だが、ちょっと勇気を出したいときには「ナッシング トゥ ルーズ」とつぶやくことにしている。特に人前に出ないといけないときなど、おまじないとしてきた。
とにかく金がないし、希望もない彼らが、開き直って男のストリップをして一攫千金を狙う。だが実際は、「失うものは何もない」のではなく、家族だったりプライドだったり、羞恥心だったり、大切にしているものがそれぞれある。自暴自棄でなく、たっぷり躊躇して「自分で決めて」ステージに立つことが描かれている。
そして、物語がコメディタッチで進むのがまたいい。おっさんたちがそれぞれ悩みを抱えながら、集まって冗談を言ったり、サッカーしたりする。とにかく明るい。数人でも友だちがいれば、人生はコメディになっていける。私は、そう思っている。
観客の前でストリップをすることは、恥ずかしいことだ。自分を出して評価を受けることは、きついことだ。それでも、その恥ずかしいこと・したくはないことを「なるべくかっこよくする」ことは可能だ。お金のためだとしても、そのせいだけにせず、自分の意志で出演する。一夜限りの演者になれたとき、何か乗り越えたような自己肯定が出たのではと、大げさに想像した。
うだつが上がらない連中の、最後のステージシーンは見事だ。スッポンポン(フル・モンティ)になるのは、おまけだ。クライマックスではあるが、それがすごいのではない。練習し、自信を持ったダンスこそが、「演じている」証であり、ショーとして成り立っているのだ。最高潮の盛り上がりを見せ、おっさんたちが輝く。
どんなレビューがあるのかネットで調べたら、何と今年、同じキャストで続編をやっていた。え、みんなおっさん過ぎてますけど、大丈夫か?うわー、これは見たい。と思ったら配信がディズニープラスだった。アマゾンプライムでやってよ、もう。
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笑顔が似合う 楽しくなる(TUBE)
夏休み!ということで、家族で伊豆の海に行ってきた。小学生の長女は「今年は海には入らないから」と言っていたが、着いた瞬間に気持ちが変わり、にこにこしながら駆け出した。塩辛くていやだ、べたべたするからいやだ、と言っていたのはどこへいったのか。それくらい、やはり海は魅力があるのだと思う。
下の子も、最近うまくいかないことがあると、すぐにむくれるという難しい頃なのだが、終始ご機嫌だった。パパは娘たちが「ごきげんさん」だと、とても嬉しい。もちろん、ずっとそうではないのだけども。
海に入って遊ぶのは楽しい。長女は「ずっといられるの、何でだろうね」と、その楽しさを不思議に感じたようだ。確かに、浮き輪一つ、小さなバケツ一つくらいで、ずっと遊んでいた。遊具がたくさんあるような遊び場でも、こんなにずっとは居られない。
その一つに、波があるように思う。穏やかな波であったが、毎回違う波が来る。その波に体を乗せたり、対抗したりするのは、体全体の楽しい体験だ。ぷかぷかしているのも、心地よい。開放感のある空と、何故かそんなに暑く感じない太陽と、「夏の中にいられるのが、海だ。」と感じた。
「見た」何を?「永遠を」「それは海に溶ける太陽だ」と、ランボーを気取りたいと毎年思うのだが、今年も曇りがちのサンセットであった。しかし、うす赤色になった空は、太陽がこの世界を色づけていることを、再確認させてくれた。
「夏の海 たゆたうほどに 気もほぐれ」などと、気楽に俳句を詠んでしまったが、これほど脱力でき、気持ち良いのは、やはり暑い夏の海だからだろう。「春の海 ひねもす のたりのたりかな」蕪村を真似してこしらえてみた次第である。
この夏は岡潔にまだハマっていて、ずっと読んでいる。皆さんにも知っていただきたいので抜粋する
「夏は万物が生命感にあふれている。いいですね。だから勉強もよくできます。勉強だって生命感の充実を離れてはあり得ません。フランスでは、季節が日本ほどはっきりしていないんですよ。だから、日本人がフランスに行って数学をやるのは難しいと思いますね。」
これは、失礼だが笑ってしまった。フランスに行ったら四季がないから、日本人が数学をやるのは難しいだろうなー、と考えたことは今までなかった。理系の人には、ほんのり分かる感覚なのだろうか、興味深いところだ。
「生命感の充実」を感じられるから夏は勉強がはかどる!を、ぜひ感じてみたかったのだが、いかんせん数学の本を持っていってなかったので、日本酒を頂いてお刺し身を食べ、自分の生命感の充実を感じてきたというところです。
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