気楽にブログ
歩いてみたら
例えば手首を骨折して、良くなるまで自転車に乗れなくなったとします。子どもを保育園に送るのに、歩いていくことになりました。ケガをした不運を嘆き、いつもより早起きすることで、疲れもたまります。しかしある日、歩いて保育園に向かっていると、子どもが言いました。「あ、かわいいお花咲いてるー。」そのとき、はっと気づいたのです。歩いたからこそ、見える景色があることに。子どもとの、豊かな時間を得たことに。
ケガや病気、しない方が良いでしょう。でも、したことで得られる何か、もあるものです。
前職で「早く自転車に乗れるようにがんばりましょうねー」と言いながら、目的を一つにしてリハビリを進めていた私。「浅いなー自分」と思う気づきを得たのは、このようなエピソードからです。利他の難しさを都度、感じました。何が良いことになるかは、分からない。図ってできるとも、限らない。人の役に立つって難しい。
私は整体サロンを開いた今も、体を良くするだけではなく、その方の生活が豊かになったらと、思い上がって施術をします。その難しさや自分の及ばなさを知りながら、それでも自分ができることを、積んでいきたいと思います。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
体験学習
以前、ふれること、子どもの教育、について書いた。動物に嫌がられないようにふれることは、ふれる側のやさしさを育ててくれると私は期待する。だから動物ふれあいコーナーを、ふれるきっかけとして応援していきたい。
動物愛護は、ひいては人への思いやりに通じると期待できる。自分の子どもにも、動物にやさしくできる人になって欲しいと思う。学校で動物を飼うのも賛成だ。一方で、飼った動物をしめ、最後に食べるのを食育とするのは、やりすぎだと思う。
食べるというのは「命を頂くこと」だから「頂きます」というのを伝えたいというのは、わかる。だが、感受性の強い小さな子どもに生き死にをダイレクトに教えるのには、私は抵抗を感じる。よほどうまくやらないと、「嫌な体験」として残り得ると思う。
異論はあるだろうが、家畜と「仲良くしない」というのは、知恵だと私は思っている。藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」という作品にあるように、仲良くしてしまったら、食べようとは思えない。動物愛護の観点から矛盾するが、現実の矛盾と、どの程度折り合いをつけるかが、私の個性だ。私は牛はかわいそうだから殺したくはない。でも、ステーキとして出たら食べたいのだ。その牛が生きていたときのことは、知りたくない。まったく嫌な大人だと、自分でも思う。そして、仲良くした牛を食べることが、食べ物を大切することにつながる良い経験になると、私には思えない。
私が推奨したい「ふれる体験学習」も、子供同士でやろうと思ったら、恥ずかしがって嫌がって、うまくいかないかもしれない。このように、体験学習をすれば簡単に教えられると思ったら、大間違いだ。
性や食や死に関して、子どもの疑問に答えないといけないときに、サイエンスも、体験も、物語も、有効だろう。だが、子どもに応じて適切に提供するのは、至難だ。つくづく教育は大変だと思う。そして、自分を鍛えてくれる。親たち、先生たち、自分、おつかれさまです。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
動物ふれあいコーナー再開に向けて
「人が嫌がることはしないよ」「自分がされたら嫌でしょう?」
これは、親や先生が子どもによく言うことだ。そして、これがしつけや規範を教える一歩目だと思う。大体において、自分がこうしたいと思っても、相手が嫌がったらそれはすべきではない。
「さわってみたい」
その上で、さわってみたいという欲求は誰しもあることを確認したい。例えばイベントで力士が歩いてくるとしよう。上半身裸だ。みんな、無遠慮にぺちぺち体を叩いている。そして、力士が私がいる方へ近づいてくる。私はどうするか。やはり手を伸ばし、ぺち、っとするだろう。
もふもふの動物がいる。とにかくもふもふだ。どんなにかもふもふか、確かめたい。さわった感触を確かめたい。私はやはりさわるだろう。場合によっては「フニっと」こっそりつまむ、かもしれない。
「さわってもOKですよ。但し、」
というわけで、さわりたい気持ちは、いきなり出てくる。だが、さわられる方が嫌がることもある。それはわかっておきたい。教えておきたい。そして、さわっても良いとなっても、動物でも人でも、さわりかたのマナーがある。いくら柔らかくても、フニっとつまんでは、やはりだめだ。
「お手を触れないで下さい」
さわりたい気持ちがある。だからこそ、さわられて困る作品はケースに入れられている。動物も手が届かないところにいる。ふれて欲しくないのだから、ふれられないようにするのだ。
「ふれる技術」
相手が同意したとしても。相手が嫌がらないように、相手の失礼にならないようにふれたい。それはマッサージの仕事ではなくても、大事な技術だ。パートナー、子ども、親、近しい人にふれる場面は人生で出てくるだろう。困りごとが起きないように、慣れていきたい。
「ふれる教育」
人が嫌がることをしない、それは「相手にふれる」ことを通じて学べると思う。ふれても良いのか、ふれても良いとしてどのくらいのタッチが適切なのか。それらは体験で学んでいくことだ。学校の体育で、起き上がり介助やパートナーストレッチは、教えているのだろうか。
ハラスメントや衛生面の懸念から、人や動物にふれる機会が減っていく。そうするとふれる技術や思いやりの気持ちも減るだろう。益々トラブルが増えるだろう。その解決策として、どうぶつふれあいコーナーにかかる教育的期待が、倍の倍になって高まってくれたら嬉しい。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
分数を教えられるようになりたい
小学校の算数の中でも、つまづきやすいのが「割り算」そして「分数」であるように思う。私と同じように算数が苦手な子には「暗記して」「操作として」できるようになって、とにかく問題を解けるようになっておくことは必要だと思う。よくわからなくても、できれば何とか次に進める。できないと、その先の算数にまるでついていけないことが起こり得る。
とはいえとはいえ、やはり割り算や分数を理解していくことが、本当は大切なのだろう。自分の子どもに教えるとして、どのように教えるか難しいところだ。
私の思う難しさはこのようなところだ
・割り切れないで余りが出る計算がある
・りんごの個数で考えるとイメージできなくなる
・通分しないで分母同士を足してはいけない
・1より小さい数をかけると、もとより小さくなっていまう
・分数の割り算はひっくり返してかける
・ゼロで割ってはいけない
・1あたりの量が割り算で出る
・比や割合がが割り算であらわせる
算数と数学の違いとして、算数は身の回りのことと絡めて、数字や式に親しんでいくことと聞いたことがある。ただ、割り算になってくると、紙の上で明快に完結する説明も、併せて大事だと思う。
割り算と分数について考えるときに、高校の野間先生に教わった「割り算は掛け算の反対」というのが、シンプルながら役に立つ。もうひとつは、何かで読んだ「分数は計算しやすいから存在する」も、少し気持ちを楽にしてくれる。
自分が上に挙げた難しさを、小3の娘が感じて質問されたときに、わかりやすい説明ができるようになりたい。割り算は掛け算の反対だから逆数をかける操作だよ、とかは、納得してくれるだろうか。割り切れない数字も分数にしておけば、計算しているうちに整数になることもあるから便利だね。とか。掛け算の反対だからゼロでは割れないよ。とか。比や割合は、料理や買い物で説明するとわかりやすいか。
ただ、やっぱり現実において10センチを三等分できるのだろうか?あと、そもそもりんごを完全に半分にできるのだろうか?ゼロから10までに数字はいくつあるのか?などは、よく分からない。私の頭では個数も線分も序数もよく区別できていないのだろう。娘からこんな質問はされないと思うが、私が数学がよくわからないのは、こういう疑問からだ。これらは本格的な数学になってくるのだろう。そうだ、森毅さんの本で勉強してみよう!かな、と思う。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
かま猫とブドリ
前回は、読書感想文と銀河鉄道の夜について書いた。本に出会うきっかけとして、読書感想文は良いと思う。しかし、物語全体を捉えるのは、大人でも難しい。途中で嫌になる可能性がある。だから、感動した場面のことだけで良いから、自分で言葉にして残しておくと良いと思う。その言葉には、その時点での自分の経験が入ってくると思う(自分語り)。途中の話はよくわからなかったが、あの一文が良かった。そうすれば、読書感想文が良い体験として、もっと本を読むことにつながるのではないか。
そして、少し宮沢賢治について書くと、「猫の事務所」と「「グスコーブドリの伝記」は、若い人たちに是非読んでほしい。どうして出版社は「銀河鉄道の夜」が入っている文庫に、この2つを入れないのか、不思議だ。「風の又三郎」よりも読みやすいし、私は好きな話だ。
「猫の事務所」はすごく短い話だが、かま猫の記述がとにかくかわいそうだ。特に「原簿、原簿」という場面が切ない。頬が酸っぱくなって、耳がきいんとして、という記述は、子どもにはよく伝わると思う。切ない感じ、悲しい感じ、かわいそう、そういう気持ちが分かることは、やさしい気持ちにつながると私は思っている。
「やっぱり僕が悪いんだ、しかたないなあと、かま猫は考えて、涙をまんまるな目いっぱいにためました。」
うう、かま猫。おじさんもうるうるしてしまうぞよ。
「グスコーブドリの伝記」は、銀河鉄道の夜よりもずっと情景が想像しやすい。むしろ、こっちをもっと推せば、更に宮沢賢治のファンが増えると思う。そして、やっぱりラストは切ない。自己犠牲によって世界を救う話は、手法としてはありふれているのかもしれない。しかし、その強さとやさしさに、かなしさに、何度読んでも手を止めてしまう。自分はこんな風には仕事はできないし、生きられない。でも、こういうお話がいい、と思える人でありたいと思う。
「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっとなんでもできる人が、私よりももっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりしていくのですから」
・・・久しぶりに読み返すとこの文は、ずどーんと来ますね。音楽や映画もそうですが、今の自分の人生の地点によって響き方が変わります。
もっと立派に美しく、仕事をしたり笑っていかなくては。ブドリが託してくれた未来に、私は今いるのだから。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)