気楽にブログ

2023-09-20 18:56:00

やっと見つけた気楽に通える整体サロン

前回は家庭料理としての手当て整体について書いた。誰が作ってもおいしいように、誰がしても良くなるのが、手当て整体だ。自分自身での手当て、家族への手当て、それにより「労り」が普及していったら嬉しい。

 

それとともに、やはり専門性も出していきたい。誰がおこなっても同じだと、私のお店の意味がない。家庭料理も良いが、たまには外食もしたい。そしてチェーン店も良いが、お気に入りの個人店も見つけておきたい。

 

そんな感じで気楽に屋もありたいと思う。お気に入りのカフェのような、お気に入りのマイサロン。これはおしゃれでいい感じだ。

 

私は未熟者なので、他店の口コミを読んだりし、「良くなりましたー」と書いてあると、すぐ嫉妬してしまう。が、良くなればそれでいいじゃないか、と思い直す。飲食店に色々な美味しいがあるように、整体のお店もそれぞれ色々な良さがあるのだから。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-09-18 17:18:00

家庭料理と手当て整体

料理研究家の土井先生は、家庭料理は誰が作ってもおいしい。と言う。いや、さすがに先生が作った味噌汁と私が作った味噌汁は違うと思うのだが、勝手に美味しくなるものだと言う。または、あまり美味しくないのは今日の素材がそういう状態だから、作り手のせいではない、というようなことも言う。そのまま食べればよろしいと。

 

この考え方は、手当て整体にも通じる。家庭料理のように、普段の手当て整体なら誰でもできる。だって、手を当てるだけなのだから。料理よりも簡単だ。良くしようとあれこれしなくても、心地よさを感じてもらえれば、勝手に良くなっていく。そして、もちろん相手の状態にもよる。例えば相手が風邪を引いているのをすぐに回復させる、なんてことはできない。

 

特別なレシピもなく、誰がやってもある程度は美味しくなる(体が良くなる)。とすれば、家庭料理や手当ては標準化となり得る。匿名性も出てくる。それに加え、やはり母親が作ってくれたということがおいしさを増やすように、母親がさわってくれたということが心地よさを増やすだろう。標準化プラス個別性ということで、この前書いた科学の知と臨床の知のハイブリッドである。というのは言い過ぎだろうか。

 

一人でする料理や手当ても同じだと思う。インスタントの味噌汁はおいしいし便利だが、たまには自分で作りたい。マッサージ器も気持ち良いが、自分でも手当てをして整えたい。料理人でなくても、整体師でなくても。ある程度は美味しくなるし、回復もする。そんな気楽な感じで良いと思う。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA) 

2023-09-16 16:47:00

原因特定 対策設定

何か問題が起きる。つまり悪いこと(と思う)ことが起きる。それは自分の身の回りでも起きるし、自分から離れたところでも起きる。悪いことだから、その問題を解決したいと思う。そのときは、問題や悪いことの原因をつきとめることになる。そして、これだ、と原因を特定したなら、それを排除する。そうすると、もう問題は起こらないし、悪いこともなくなる。

 

このような過程は、社会がより良くなるために大切なプロセスだ。しかし、大変難しいことでもある。

 

「悪い」という決めつけ、「犯人」の決めつけ、これは私も良くやる。「消費税が最悪だ!」と居酒屋でわめくのが、大好きだ。だが、安易な決めつけは誤ることや、解決にならない、もしくは自体の悪化を招くことは、十分に注意したい。

 

マシンのトラブルも、体のトラブルも、人間関係のトラブルも、組織のトラブルも、国同士のトラブルも、環境のトラブルも、ジャニーズ事務所のトラブルも、解決したい気持ちが先走り、すぐに決めつけて安心したくなるが、じっくり見極めることも大切だ。

 

私が社会学や理学療法学を学んで良かったと思うのは、「本当にそうかなあ?」と疑問を持つ癖がついたことだ。そして、遠巻きの安全なコメンテーターとしてではなく、事象に自分も含まれていることがあることも、意識できるようになったことだ。

 

それは何か問題が起きたり、悪い(と思う)ことが起きたときに、一呼吸置き、「そもそもこれは悪いことなのか?」と問う態度だ。「いや、どう見ても問題でしょ!」という声を聞きつつ、まずそこから確かめる悠長な構えだ。

 

次に犯人や原因探しと特定だ。それも、すぐには決めつけない。「これもあるし、あれもかもしれないなあ」と、曖昧にしておく態度だ。「いや、こいつが悪いに決まっているでしょ!」という声は大事にしながら、置かれた立場や関係性も確かめる。

 

そして、解決策に行く前に「何故こうなっているのか」を数々挙げていく。もしかしたら偶然起こったことかもしれない、ということまで考える。自明な因果関係を大事にしつつ、その他の要因もくまなく列挙する。「対策として次からこうするべきでしょう!」という声を聞きつつ、すぐに〜するべきとは言わない。「べき論」ではなく「なぜ論」だ。

 

そんなのんびりしていては、社会問題や国際問題や環境問題は解決しないし、人の病気は改善しないだろう。そして、私自身も居酒屋で「とにかく菓子パンが体に悪い!」と騒ぐくらいだから、全てにいちいちそんな「なぜ論」をしていない。例えば汚染水のことも、面倒で調べていない。が、私はすぐ決めつけはしたくないのだと、たまに思い出して確認しておきたい。そして、メロンパンはたまに買いたい。

 

遠く離れた事象でも、自分事かもしれない。そして悪いのは自分も含めてなのかもしれない。だから、自分も含めての「なぜ論」を展開することを続けていきたい。コロナ騒動で、人生で初めて社会問題がリアルに自分ごとに感じられたが、上記した考え方は、非常に役に立ったと思っている。

 

「本当にそうかなあ?」

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-09-14 10:41:00

アフォーダンスで夜は更けて

前回、学生に戻った気分で読後レポートを書いた。が、どうやら長すぎたようだ。「お前はもっとフザけた文を書いてればいいんだよ!」という声が聞こえてきた。気がした。

 

というわけで、カタカナの話がおもしろかった。もっと書いてくれ。という嬉しいお手紙を頂いた。誰を?などと、町田康の真似をして、今日のオンエアを始めるとしよう。私は最近、ずっとなりたかったDJ気分だ。今日も日本中のリスナーが、この放送を楽しみにしていると思うと嬉しい。もちろん完全な勘違いだが、自分がなりたいものになれる。いい時代だ。

 

ユリイカに続いて私が気になるカタカナは、「アナリスト」だ。いや、また怒られるからやめておこう。怒られるのは嫌いだから。えっと、気になるのは「アフォーダンス」だ。これなら良いだろう。

 

なんか小難しい本に出てくるわけだ。アフォーダンスが。そして、やっぱり想像してしまうのだ。志村けんを。白鳥の格好をした変なおじさんが、ダンスしている姿を。なんせアフォーだ。ほんとにすごい。

 

例文はどういう感じだろう。アフォーダンス=白鳥おじさんでイメージして読んでみよう。

 

「このように見てくると、おのずとアフォーダンスが形成される」

「つまり、アフォーダンスと言い換えてもいいくらいの先進性がある」

「これは一種のアフォーダンスだが、それに留まらないのである」

 

これであなたも、アフォーダンスという言葉を目にしたら、必ず志村けんが出てくる。このように、言葉の意味がよく分からないうちに刷り込まれると、なかなか取れない。

 

子どもの頃に「運賃はうんちん箱にお入れ下さい」と言うのがおもしろかったのと一緒だ。ちょっと違うか。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-09-12 11:55:00

夏休みの課題レポート(そうです私の感想です)

自主的に夏休みの課題として取り組んだものを、レポートにしました。ようやく、中村雄二郎さんの著作が少し理解できてきた気がしたので、挑戦しました。

 

北里の先生方に「考えが浅い!」と怒られるだろうなー。と思いながらも稚拙に書く私。随分偉そうに書いてみました。というか、私は理学療法士から整体師になったのだが。まあ、いいか。

 

タイトル:中村雄二郎「臨床の知」を理学療法に適用するために

 

理学療法学が扱う対象は、主に「人」である。人がケガや病気で心身にダメージを受けたあと、その人がどのような過程を通り、身体的回復・適応、生活の場においての動作の再獲得・適応、社会的役割の復権・適応していくかを記述する。そこでは、対象に対する観察とともに、介入が入ってくる。ある状態から介入があり、そのあとの状態になるという、時系列を示すことになる。そして、理学療法学が進むとはつまり、人が心身にダメージを受けた後、どのような介入をどれだけすれば、その人の身体機能・生活動作・社会的役割が回復・適応するか、そのパターンの網羅や標準化が進むことであろう。

 

ところで、理学療法学の方法としてまず土台となるのは、「科学の知」である。著者が言うところの①普遍主義②論理主義③客観主義である。これは現代の日本の医学や薬学においてもそうであるように、広く納得してもらうための考え方である。すなわち、いつどこでおこなっても、曖昧なところは何もなく因果関係がはっきりとあり、誰がおこなっても同じようになる。ことが言えるからである。

 

しかし、科学の知で有効性を示すことは、薬の治験でもそうだが、甚だ難しいことが分かっている。つまり、ランダムな二重盲検であったとしても、対象と観察者の関係を極力離したとしても、過程でのバイアスは免れないし、一対一の因果関係は示し難い。近似を伴い表せたデータを示すに留まり、その解釈においては「有効であると思われる」の域を出ないだろう。人を扱う場合の科学の知へ、過信はできない。

 

まして、理学療法の介入は人による手技が入ってくる。そうなってくると、介入者の技量のばらつきや、対象者との関係も入ってくる。益々定量化、比較化が難しくなってくる。理学療法学会としては保険診療であるためには、データで世に示し、多勢の納得を得ることが必要だ。だが、この「手技をともなった介入」が強みであるはずなのに、有効性を示すことが難しいというジレンマに陥っている。だから、トレッドミルなどの機械に患者を載せて走らせて、血圧・心拍数など数字で表せる研究の方が進むのは、自明と言える。

 

これは研究の場に限らず、臨床の場においても同様である。対象者である患者が、施術者である自分の介入により、どう変化したのかを記述するのは、上記の理由から甚だ困難である。科学の記述を使うには、あまりにも不確かな要素が多すぎるし、因果関係も示しづらい。誰がやってもそうなる、とは言い難いだろう。

 

そこで、参考となるのは、「科学の知」に加え、著者が提唱する「臨床の知」という考え方である。これは①コスモロジー②シンボリズム③パフォーマンスからなる。それは、限定的な「今・ここの、あなたと私」に絞り、「言葉の多義性や意味の深さ」を大事にし、「相互作用」でもたらせるものに着目する考え方であると解釈できる。つまり、曖昧で因果関係に還し難い「手技の介入」を、そのまま記述していくことである。これは患者や介入者である理学療法士の「個別性」を敢えて出し、言葉を大事にし、経験や相互の関係性によって結果が変わり得ることを、前提にしている。

 

例えば、同じエクササイズをしたが、今日は気乗りがしないようだった。という記述や、「なんだか足が軽くなってきた」という言葉、「随分世話になってるからもう少し頑張りますわ」などの関係性の変化など、そのとき、自分が思った患者の状態や、患者の発言をそのまま書き(曖昧な表現だとしても)、それに対する考えや感想を記すというやり方である。施術者の主観を敢えて入れ、施術者自身の影響を排せず、話し言葉も記すことになる。変化を数字では表せないが、それでも発言の変化や状態の変化を言葉で記すのである。

 

入院3日目。バイタルがいくつ、バイクこぎ20分、その後のバイタルがいくつ。これらの蓄積はなるほど、「科学の知」として、積み重ねればガイドラインになるのかもしれない。それに加え、言葉を介した個別のやり取り、お互いで紡いだストーリーの積み重ね、伴う状態の変化は、理学療法士の経験の共有、ひいては目の前の課題のヒントにつながるだろう。「それってあなたの感想ですよね」こそが、生きる場面もあると考える。エビデンスだけに囚われては窮屈だ。

 

このような臨床記録の集積を、論文にする方法を私は知らない。データを伴って標準化をし、保険診療と認めてもらう根拠としては、弱いのかもしれない。だが、少なくとも個々の理学療法士自身、そしてその職場の仲間同士や後輩たちには有益な知であり、明日の患者さんの臨床に、有効になり得ると私は考える。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)