気楽にブログ

2023-09-12 11:55:00

夏休みの課題レポート(そうです私の感想です)

自主的に夏休みの課題として取り組んだものを、レポートにしました。ようやく、中村雄二郎さんの著作が少し理解できてきた気がしたので、挑戦しました。

 

北里の先生方に「考えが浅い!」と怒られるだろうなー。と思いながらも稚拙に書く私。随分偉そうに書いてみました。というか、私は理学療法士から整体師になったのだが。まあ、いいか。

 

タイトル:中村雄二郎「臨床の知」を理学療法に適用するために

 

理学療法学が扱う対象は、主に「人」である。人がケガや病気で心身にダメージを受けたあと、その人がどのような過程を通り、身体的回復・適応、生活の場においての動作の再獲得・適応、社会的役割の復権・適応していくかを記述する。そこでは、対象に対する観察とともに、介入が入ってくる。ある状態から介入があり、そのあとの状態になるという、時系列を示すことになる。そして、理学療法学が進むとはつまり、人が心身にダメージを受けた後、どのような介入をどれだけすれば、その人の身体機能・生活動作・社会的役割が回復・適応するか、そのパターンの網羅や標準化が進むことであろう。

 

ところで、理学療法学の方法としてまず土台となるのは、「科学の知」である。著者が言うところの①普遍主義②論理主義③客観主義である。これは現代の日本の医学や薬学においてもそうであるように、広く納得してもらうための考え方である。すなわち、いつどこでおこなっても、曖昧なところは何もなく因果関係がはっきりとあり、誰がおこなっても同じようになる。ことが言えるからである。

 

しかし、科学の知で有効性を示すことは、薬の治験でもそうだが、甚だ難しいことが分かっている。つまり、ランダムな二重盲検であったとしても、対象と観察者の関係を極力離したとしても、過程でのバイアスは免れないし、一対一の因果関係は示し難い。近似を伴い表せたデータを示すに留まり、その解釈においては「有効であると思われる」の域を出ないだろう。人を扱う場合の科学の知へ、過信はできない。

 

まして、理学療法の介入は人による手技が入ってくる。そうなってくると、介入者の技量のばらつきや、対象者との関係も入ってくる。益々定量化、比較化が難しくなってくる。理学療法学会としては保険診療であるためには、データで世に示し、多勢の納得を得ることが必要だ。だが、この「手技をともなった介入」が強みであるはずなのに、有効性を示すことが難しいというジレンマに陥っている。だから、トレッドミルなどの機械に患者を載せて走らせて、血圧・心拍数など数字で表せる研究の方が進むのは、自明と言える。

 

これは研究の場に限らず、臨床の場においても同様である。対象者である患者が、施術者である自分の介入により、どう変化したのかを記述するのは、上記の理由から甚だ困難である。科学の記述を使うには、あまりにも不確かな要素が多すぎるし、因果関係も示しづらい。誰がやってもそうなる、とは言い難いだろう。

 

そこで、参考となるのは、「科学の知」に加え、著者が提唱する「臨床の知」という考え方である。これは①コスモロジー②シンボリズム③パフォーマンスからなる。それは、限定的な「今・ここの、あなたと私」に絞り、「言葉の多義性や意味の深さ」を大事にし、「相互作用」でもたらせるものに着目する考え方であると解釈できる。つまり、曖昧で因果関係に還し難い「手技の介入」を、そのまま記述していくことである。これは患者や介入者である理学療法士の「個別性」を敢えて出し、言葉を大事にし、経験や相互の関係性によって結果が変わり得ることを、前提にしている。

 

例えば、同じエクササイズをしたが、今日は気乗りがしないようだった。という記述や、「なんだか足が軽くなってきた」という言葉、「随分世話になってるからもう少し頑張りますわ」などの関係性の変化など、そのとき、自分が思った患者の状態や、患者の発言をそのまま書き(曖昧な表現だとしても)、それに対する考えや感想を記すというやり方である。施術者の主観を敢えて入れ、施術者自身の影響を排せず、話し言葉も記すことになる。変化を数字では表せないが、それでも発言の変化や状態の変化を言葉で記すのである。

 

入院3日目。バイタルがいくつ、バイクこぎ20分、その後のバイタルがいくつ。これらの蓄積はなるほど、「科学の知」として、積み重ねればガイドラインになるのかもしれない。それに加え、言葉を介した個別のやり取り、お互いで紡いだストーリーの積み重ね、伴う状態の変化は、理学療法士の経験の共有、ひいては目の前の課題のヒントにつながるだろう。「それってあなたの感想ですよね」こそが、生きる場面もあると考える。エビデンスだけに囚われては窮屈だ。

 

このような臨床記録の集積を、論文にする方法を私は知らない。データを伴って標準化をし、保険診療と認めてもらう根拠としては、弱いのかもしれない。だが、少なくとも個々の理学療法士自身、そしてその職場の仲間同士や後輩たちには有益な知であり、明日の患者さんの臨床に、有効になり得ると私は考える。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-09-10 16:12:00

より良くはしんどい

 

「今この現在、心を歓ばせることが大事だのだ。そして、人生のおりおりで自分を歓ばせる勉強をしているなら、必要な勉強はそのときどきにやれば間に合う。」森毅

 

森毅さんの本で数学を勉強し直そうと思ったが、手始めにエッセイを読んでいる。勉強は受験勉強だけではない、と繰り返し言及されており、私の学び直しを押してくれる。それと、岡潔についても書いてあっておもしろい。「困るのは残りの三割で、すごいことなのか、笑ってすごしていいのか、よくわからない」と書いてあった。数学者にこんなコメントをされてしまう、岡潔。やはり伝説の男だ。

 

エッセイを読んでいると「いくじなし宣言」や「たかが学校」など、気楽ワードが満載で嬉しい。「人生という物語」という言葉は、そのまま河合隼雄先生だ。そして、特に繰り返し出てくるのは、正しさや良さについての危うさやの指摘や、見直しの必要性だ。

 

より良い社会、より良い暮らし。私も「より良いお体へ」とすぐ書いてしまう。だが、より良いことを追求するのは、しんどさもある。始めは良いが、だんだん伸びしろがなくなる。マンガのドラゴンボールの後半で、敵が強くなりすぎて混迷してくるように、行き過ぎると無理が出てくるものだ。

 

ほどよく、なるべく、気楽に。誰かと競い「過ぎず」、自分を気にし「過ぎず」、弱いところもひっくるめていければ良いと思う。もっと美しく、もっと健康に、もっと幸せに、と言うが、「もっと」には際限がないし、そのために苦しむことはないだろうと、自省できた。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-09-08 12:38:00

ネクタイを貸そう

「スティング」は、大好きな映画だ。よく言われるように、ロバート・レッドフォードの目と口元が、ブラッド・ピットにそっくりだ。ポール・ニューマンも最高にカッコいい。鏡に写った私と見間違えたくらいだ。

 

怒られる冗談はさておき。おもしろい!演技にだまされる!かっこいい男たちが出ている!という映画が見たい方は必見だ。繰り返し見たくなるので、プライムレンタルではなく、購入で良いかもしれない。

 

ただ、後半からおもしろくなるのは伝えておきたい。ポール・ニューマンの詐欺師ぶりが魅力全開の、列車でのポーカーの場面。そこまで観られれば大丈夫だ。あとはもう、最後までエキサイティングだ。前半は、もちろん大事だが、ちょっと入り込みにくいかもしれない。

 

そして、最後まで観たなら、必ず「うわ、だまされた!」と思うこと必至である。そして、「これはもう一度観てみないとわからないな」と、後日もう一度観てしまうことも必定である。おもしろい映画ってこういう作品のことなのですね。と同意して頂けると思う。

 

この映画に出てくるのは沢山の詐欺師だ。つまり、演技している人だ。役者は演技している人を演技している。または演技している人に気づかない人を演技する。これは、大変難しいことではないかと思う。結局、誰が演技していたの?と、混乱したコメントを思わずしてしまう。皆、演技していたのだけど。

 

ところで、悪者のビネガンは、殺しをしたり金とプライドに目がくらんだりするが、騙される、というのは「人の言うことを信じた」からだ。何回か観ているうちに、少しかわいそうな感じもした。何故か歩くときには足を引きずっているし、ものすごく強く悪いやつという演出はされていない気がする。この演出の意図はなんだろうか。

 

そして、オーシャンズもそうだが、現実なら騙したり騙されたり、盗んだり盗まれたりするのはイヤだが、エンターテインメントになると抜群におもしろいのは何故なのだろうか。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-09-05 12:12:00

敗者は必ず復活する

今年も夏が終わった。各地で、学生の色んなスポーツ大会が終わったことだろう。負けて引退となった3年生も、沢山いることだろう。

 

そう、たった1つを除いて、残りの数多の学校やチームは負けて、この夏を終えたのだ。最後に勝って終えられた人は、とても少ない。

 

私は高校生のとき、都立高のテニス部にいた。そして、最後の夏の大会で、途中で負けた。

 

負けた選手たちは、まずは思い切り悔しがったらいいと思う。それだけの思いを持って、一つに賭けてきたのだから。届かなかったのなら、「がんばったからいい」ではないだろう。

 

周りへの感謝はその後でやってくるだろう。応援してくれる仲間の思いを感じ、誰かのために、と思ってテニスができたのは、私の人生であの試合だけだ。

 

そして、強い思いを持った若い人たちが、その思いを十分に発揮できる場を作ってあげることが、大人の役目だ。コーチをしたり、大会運営を手伝ったりして、場を用意してくれる人たちのありがたさに私が気づいたのは、随分先になってからであったが。

 

「人生は敗者復活」仙台育英高校の須江監督の言葉は、引退する全ての3年生へのエールだ。試合に出られなかった者もいるだろう。まさかの一回戦負けということもあっただろう。

 

次のシーズンは別のステージに行く。もう1回、今度こそ勝者になりたいと思ってもいい。あるいは、勝負事から離れてもいい。人生は勝負事だけではない。それでも、思い切り敗れた経験のある者は、やり遂げた自信とともに、強い気持ちとやさしい気持ちの両方を得られたはずだ。

 

だからこの先で必ず、復活して活躍できる。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2023-09-02 19:06:00

ユリイカを一つ下さい

意味が気になるが、調べないでそのままにしているカタカナがある。「ソレイユ」「プラザ」「エスプリ」などだ。ネットで調べようと思うのだが、もったいない気がする。何がもったいないのか、よくわからないが。

 

そんなカタカナの中で今回は、「ユリイカ」について考えたい。確か映画のタイトルでもある。たまに目にする。だが、単体で目にすることが多く、文脈で意味を予想することができない。

 

カタカナは外国語のことが多いが、「ダイコン」「イリオモテヤマネコ」など、日本語の可能性も、捨ててはだめだ。動物?植物?なんだろう。とりあえずは「ユリ」と「イカ」に分けて探るとしよう。そして必殺!漢字変換だ。ユリは百合、イカは烏賊、つまり百合烏賊。なんだ、高級食材だったのか。

 

「今日のおすすめは百合烏賊のバターソテーです」「じゃあ、それ一つ」

 

というわけで、知らないカタカナでも、漢字変換ができれば、大体は意味が分かることが分かることが分かった。例えば「ポソデ スフィーヌ テルパッサ」などと書かれたメニューがあっても、全く何なのか分からない。これが漢字で「丸々小羊 多時間煮 添赤菜」と添え書きがしてあれば、大体想像がつく。まあ、赤菜が気になるところだが。

 

ただ、問題は「ポソデ スフィーヌ テルバッサ」の漢字変換が、音から推察できないことだ。無理やり「保袖 酢不意抜 輝羽作」と自分で当ててみても、一体どんな料理なのか、良くわからないのだった。

 

*注 百合烏賊という食べ物はありません。



あなたの暮らしに気楽時間

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA