気楽にブログ
決定は仮定だ
「決定は常に仮定だ」誰の言葉かは忘れましたが、これは少し楽になれる「気楽ワード」だと思います。自分がさんざん悩んで迷って決めたことでも、変えて良いのです。
前提として、選ぶのも、また変えるのも、「自分で決める」ことが大切だと思います。誰かに言われたからだと、自分が被ることをその人のせいにしてしまうからです。
部活だってやめたって良いんだし、大学だって入り直したっていいんだし、仕事も変えればいいと思います。続けるのがつらくてこわれてしまうくらいなら、やめましょう変えましょう。
でも、いつでも変えられる、仮定だ、としておいた上で、「ある程度は」がんばってみた方が良いと思います。自分で選んで決めたことに重きを置かないと、次の選択につながりません。
あと、向いている向いていない、ってありますね。「私、学校の先生に向いてないかも」とか。これは適性があるかどうか、ということを言っていると思います。ですが、大事なのはあなたが「先生という仕事の方を向いているか」です。向いている、というのはそういうことです。
というようなことを後輩たちに居酒屋で熱弁したところ、聞いているのは一人で、あとのみんなはスマホをいじりだしてかなしくなったので、レモンサワーの大を追加注文しようと店員さんに声をかけたら「タブレットでお願いしまーす」と言われ、余計にかなしかった。(最後、町田 康に似せて)。
手当整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
今日という日を仕舞う
ある言葉が気になる。気になったらもう止まらない。世の中に素数が気になる人がいるように、私は言葉が気になる。
例えば、「仕舞う」という言葉だ。心にそっと仕舞った。などで目にする。ここに「舞う」という漢字が使われるのはなぜなのだろうか。舞う、から私は「軽やかさ」をイメージする。
だから、引き出しにしまう。も、引き出しに仕舞う。と書けば、何となく軽やかさや上品さがあるように感じる。引き出しの中でも、心の中でも、大切にしまった物や情景は、しまわれた空間で、軽やかに舞っているのかもしれない。
ところで、仕舞う。には、終わりにする、という意味がある。「〜になってしまう」や「〜になってしまった」という場合だ。どちらも終わることに後悔がにじむ。「夏休みが終わってしまう」「アイスを落としてしまった」「しまった!頼まれた玉子買ってない!」などである。
これらは仕舞う、の上品さはあまりない。ひらがな、もしくは「シマッタ!」のように、カタカナが似合う。そして、ここまで書いてようやく気付いたが、「しまった」には同じく終わりを意味する言葉として「閉まった」「締まった」などがある。しめる、にすれば「閉める」「締める」「占める」「〆る」「絞める」など沢山ある。但し「湿る」は別物だ。否定形は「しめらない」で「しまらない」とは言わない。だから「締まっている」と「湿っている」も違う。と、まだ夕方だからシモネタはよしておこう。
そして、知らなかったのは、「染める」というのを「しめる」と読むことだ。「煮染める」という言葉があるのだ。これは、染み込ませるという意味で、おわり、という意味はないのだろうか。
さてさて。しめしめ言っているうちに、もう時間が来たようだ。拙者はヨークマートで明日のパンを買わないといけない。この辺で仕事は〆て、店のドアを閉めようと思う。おしまい。お終い。お仕舞い。
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歩いてみたら
例えば手首を骨折して、良くなるまで自転車に乗れなくなったとします。子どもを保育園に送るのに、歩いていくことになりました。ケガをした不運を嘆き、いつもより早起きすることで、疲れもたまります。しかしある日、歩いて保育園に向かっていると、子どもが言いました。「あ、かわいいお花咲いてるー。」そのとき、はっと気づいたのです。歩いたからこそ、見える景色があることに。子どもとの、豊かな時間を得たことに。
ケガや病気、しない方が良いでしょう。でも、したことで得られる何か、もあるものです。
前職で「早く自転車に乗れるようにがんばりましょうねー」と言いながら、目的を一つにしてリハビリを進めていた私。「浅いなー自分」と思う気づきを得たのは、このようなエピソードからです。利他の難しさを都度、感じました。何が良いことになるかは、分からない。図ってできるとも、限らない。人の役に立つって難しい。
私は整体サロンを開いた今も、体を良くするだけではなく、その方の生活が豊かになったらと、思い上がって施術をします。その難しさや自分の及ばなさを知りながら、それでも自分ができることを、積んでいきたいと思います。
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体験学習
以前、ふれること、子どもの教育、について書いた。動物に嫌がられないようにふれることは、ふれる側のやさしさを育ててくれると私は期待する。だから動物ふれあいコーナーを、ふれるきっかけとして応援していきたい。
動物愛護は、ひいては人への思いやりに通じると期待できる。自分の子どもにも、動物にやさしくできる人になって欲しいと思う。学校で動物を飼うのも賛成だ。一方で、飼った動物をしめ、最後に食べるのを食育とするのは、やりすぎだと思う。
食べるというのは「命を頂くこと」だから「頂きます」というのを伝えたいというのは、わかる。だが、感受性の強い小さな子どもに生き死にをダイレクトに教えるのには、私は抵抗を感じる。よほどうまくやらないと、「嫌な体験」として残り得ると思う。
異論はあるだろうが、家畜と「仲良くしない」というのは、知恵だと私は思っている。藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」という作品にあるように、仲良くしてしまったら、食べようとは思えない。動物愛護の観点から矛盾するが、現実の矛盾と、どの程度折り合いをつけるかが、私の個性だ。私は牛はかわいそうだから殺したくはない。でも、ステーキとして出たら食べたいのだ。その牛が生きていたときのことは、知りたくない。まったく嫌な大人だと、自分でも思う。そして、仲良くした牛を食べることが、食べ物を大切することにつながる良い経験になると、私には思えない。
私が推奨したい「ふれる体験学習」も、子供同士でやろうと思ったら、恥ずかしがって嫌がって、うまくいかないかもしれない。このように、体験学習をすれば簡単に教えられると思ったら、大間違いだ。
性や食や死に関して、子どもの疑問に答えないといけないときに、サイエンスも、体験も、物語も、有効だろう。だが、子どもに応じて適切に提供するのは、至難だ。つくづく教育は大変だと思う。そして、自分を鍛えてくれる。親たち、先生たち、自分、おつかれさまです。
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動物ふれあいコーナー再開に向けて
「人が嫌がることはしないよ」「自分がされたら嫌でしょう?」
これは、親や先生が子どもによく言うことだ。そして、これがしつけや規範を教える一歩目だと思う。大体において、自分がこうしたいと思っても、相手が嫌がったらそれはすべきではない。
「さわってみたい」
その上で、さわってみたいという欲求は誰しもあることを確認したい。例えばイベントで力士が歩いてくるとしよう。上半身裸だ。みんな、無遠慮にぺちぺち体を叩いている。そして、力士が私がいる方へ近づいてくる。私はどうするか。やはり手を伸ばし、ぺち、っとするだろう。
もふもふの動物がいる。とにかくもふもふだ。どんなにかもふもふか、確かめたい。さわった感触を確かめたい。私はやはりさわるだろう。場合によっては「フニっと」こっそりつまむ、かもしれない。
「さわってもOKですよ。但し、」
というわけで、さわりたい気持ちは、いきなり出てくる。だが、さわられる方が嫌がることもある。それはわかっておきたい。教えておきたい。そして、さわっても良いとなっても、動物でも人でも、さわりかたのマナーがある。いくら柔らかくても、フニっとつまんでは、やはりだめだ。
「お手を触れないで下さい」
さわりたい気持ちがある。だからこそ、さわられて困る作品はケースに入れられている。動物も手が届かないところにいる。ふれて欲しくないのだから、ふれられないようにするのだ。
「ふれる技術」
相手が同意したとしても。相手が嫌がらないように、相手の失礼にならないようにふれたい。それはマッサージの仕事ではなくても、大事な技術だ。パートナー、子ども、親、近しい人にふれる場面は人生で出てくるだろう。困りごとが起きないように、慣れていきたい。
「ふれる教育」
人が嫌がることをしない、それは「相手にふれる」ことを通じて学べると思う。ふれても良いのか、ふれても良いとしてどのくらいのタッチが適切なのか。それらは体験で学んでいくことだ。学校の体育で、起き上がり介助やパートナーストレッチは、教えているのだろうか。
ハラスメントや衛生面の懸念から、人や動物にふれる機会が減っていく。そうするとふれる技術や思いやりの気持ちも減るだろう。益々トラブルが増えるだろう。その解決策として、どうぶつふれあいコーナーにかかる教育的期待が、倍の倍になって高まってくれたら嬉しい。
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