気楽にブログ
良いだろ?おれの緑い車
赤い車、青い車、白い車、そして緑い車。そう、緑い車とは言わない。今、これをPCで書いているが、下に赤線が引かれて訂正を促されている。緑い車、と言ったのは、うちの下の娘だ。私は微笑ましいな、と思い、「緑の、だよ」と訂正しようとした。でもなぜ、緑いとは、言わないのだろうか。赤い、青い、とくれば当然、緑い、ではないか。実は子どものほうが、法則性を理解して言葉を発しているのでなないか、と思う。
長女のときは5分を「ごぷん」と言っていた。3ぷん、4ぷん、とくれば、当然5ぷん、だろう。言葉を覚えるのは、聞いて真似して覚えるのもあるが、規則性から予測して言うことも、あるのかもしれない。言い間違えを大人は笑うが、子供のほうからすれば、おかしいのは大人の方であろう。茶い車も、赤色い車も、ピンクい車も、別に変じゃない。また下に赤線引かれたけど。
上の娘は小学生になって、もう5ぷんとは言わないし、10日を「とうか」とも読める。もっと間違えても楽しいのにな、とも思うが、間違うのが嫌いな年頃になってしまった。下の子はトランプが好きだが、9とQがキューで同じなのが、納得いかないようだ。そうそう、納得いかないのも、大事よね。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
私にはある、何が、自恃と友だちが
気楽に屋を開き、ブログを書き始めて1ヶ月。週に3人ほど、お客様がいらして頂けるようになった。リピートして頂ける方も、少しいらっしゃる状況だ。知り合いではない方が来店して頂ける、その有り難さを感じている。もちろん、今のままでは家賃も支払えない収益だ。けれども、まずは半年がんばってみようと思う。万人受けするとは思えないが、中にはファンになってもらえる方も、いらっしゃるのではないか、と思っている。
収支の不安、集客の不安はある。しかし、気楽に屋を1人でやっていくことには、揺れることはあっても折れることはない。ようやく「これだ!」と思えたから、気持ちは前向きだ。ビジネスではあるけれども、自分らしくやりたいようにも、したい。ホットペッパービューティーのブログもそうだが、ブログはわりとふざけて書いていることも、やはり出てきた。文章は自分を隠せない。まあ、でもいいんだ。嫌がる人もいるだろうが、楽しんでくれる人もいるだろう。
そう思えるのは、今まで自分が読んできた本や、今まで一緒に遊んできた友だちがいるからだ。今回独立するにあたり、友だちが「陽ちゃんならうまくいくと思う」と、言ってくれたのには、びっくりした。「しようもないやつ」と思われていると、ずっと思っていたからだ。なんだかとても、力と自信がわいた。自分が好きな人が自分を認めてくれる。これ以上にうれしいことは、あまりない。
人の不安を煽るような宣伝広告はあまりせず、かっこよくいきたいと思う。と言いながら、キャンペーンのお知らせをしてしまう私なのだが。そんなときはハイロウズ、忌野清志郎、中原中也、を引っ張り出す。
「これがどうならうと、あれがどうならうと、そんなことはどうでもいいのだ 人には自恃(じじ)があればよい その余はすべてなるままだ」ようやく心からこの詩に共感できるようになって、うれしい。
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ペグをまくべし
ギターを始めて少し経った頃、友だちのうっちゃんも、ギターを始めた。ちょっと教えてくれ、と言われたので、うっちゃんの家に行った。彼は、まだチューニングができないと言った。私は、彼よりできることを、自慢したい気持ちであった。うっちゃんはチューナーを持っていたので、それをつなぎ、機械の目盛りが振れるか見ながらペグを回した。ところが、ギターのペグを回しても、一向に針が振れなかった。私は「まだまだだ。巻くべし巻くべし」と、うっちゃんを煽った。だいじょうぶ、おれの言う通りにやればいいんだよ、と自信なさげな彼の前で、私は得意になっていた。そして、まだ巻くべし、もっと巻くべし、さらに巻く「ベチン!」と、大きな音がした。
弦が切れていた。
「何が巻くべしだよ!巻きすぎて弦切れたよ!」うっちゃんは怒っていた。まあ、当然怒るよね。知ったかぶりの恥ずかしさを、身にしみた一件であった。
何でチューナーが反応しなかったのかは謎だが、機械というのは、こういうことがあるから油断ならない。弦に触れながら、その張り具合を確認して巻いていけば、弦が切れることはなかっただろう。そして、このことを強引につなげると、機械の方だけを見るのではなく、触れて確かめることが大事だと思う。そう、医療現場の話だ。目盛りが上がらないからまだ大丈夫だ、と思っていたら、、なんてことは怖すぎる。
では、私がクライアントにふれるときはどうか。指先から伝わる感覚がまず大事だ。硬さだったり、反応だったりを感じる。そして、表情、言葉、色んな情報から「押す強さは適切か」を調整する。機械は使わない。それでも強く押しすぎてしまうことは、今でもあるのだが。
今はギターのチューニングは、音叉を使っている。音というか揺れを感じて、合わせていく感じだ。もちろん、弦の張り具合を指先で確かめながらおこなう。もう、巻きすぎて弦を切ることは、ない。
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安心安全の
自分の体にふれてもらう。それは、よほど相手を信頼していないと難しいだろう。だから、気楽に屋もそうだが、何とか信頼を得ようとする広告になる。安心・安全、次に効果をうたう。効果がないばかりか、痛みが残る可能性もあるのだから、お客さんとしても慎重になるのは、当然だと思う。飲食店で言えば、おいしくないならまだいいが、お腹をこわしたくはない。
こんなに沢山の人が来てますよ、こんな権威のある人が勧めていますよ、同業者の講師もやっていますよ、メディアに取り上げられていますよ、と列挙することで、何とか「体をさわってもらうのに、信頼に値する」と思ってもらわないといけない。整体や接骨院のHPは、信頼できる人物かどうかをアピールしたものになる。
私はそれらのHPを見て「何て過剰な」と思っていたが、こうなるのも当然だと思う。それほど、信頼して来てもらうのは大変なことなのだ。私も負けじと北里卒をアピールしたり、理学療法士として整形外科で沢山の人を診てきたことを、アピールしている。この前は雑誌のインタビューも受けた。だけど、お客さんとピース写真だけは、美意識として無理だー。と、今はかっこつけておく。そのうち載せるかもしれませんが。
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ここで10dlの水を加えます
数学が苦手だ。この苦手意識は、もうずっとこのままの気がする。前は数学が嫌いでもあった。今は嫌いではない。この苦手意識は、向上するために必要な気もするし、余計な気もする。というわけで、算数だけは娘が嫌いにならないように計らおう、と考えている。国語も音楽も、体育も、美術も、「苦手だけど、うまくできないけど、楽しい」ということはあると思う。そして、楽しければいいと思う。しかし、算数は、出来ないと楽しくないように思う。そして、出来なくなると、なかなかリカバリーが難しい科目だと思う。
娘が算数でつまずかないように、そして私が算数からやり直したいために、小学校の教科書やテストに目を通している。怒られるのを承知で書くが、算数の教科書は圧倒的につまらない。数学教育の権威の方たちが編集してこれか、とさえ思う。私が小学校の頃とほとんど変わっていないように感じる。
いいんだ、できる子たちは。私のように算数ができない、嫌いになりそうな予備軍にとって、この教科書はつらい。一つ例を挙げると、単位とSI接頭辞の問題だ。10dlは何mlでしょうか?何だこれは。嫌がらせをしているようにしか思えない。dlは普段使わないから、教えなくてもいい、ということではない。血中の濃度などで、目にすることもある単位だろう。だが、今教えても、混乱するだけだと思う。
とにかくキロとミリだけにしてくれと思う。長さになると、センチが出てくる。小学生ともなればcmは、日常でも使う単位だ。だから、日常と算数を絡めていくのは良いと思う。だが、接頭辞は独立させてわかりやすく教えることも、必要ではないか?キロは1000倍、ミリは1000分の1倍。私がこのシンプルな決まりを知ったのは、高校生になってからだ。小学校高学年なら、分かるように思う。この1000ずつというのは、重さも長さも一緒です。キログラム、キロメートルですね。じゃあ、キロの1000倍を知っているひとー?ギガ?おしい、そう、メガですね。メガビッグ、先生も買ってるけど当たりませんねー。と、やれば、生徒たちはたちどころに1000倍ずつの関係を理解するだろう。デシやセンチは10のn乗と絡めて、あとから教えれば良いと思う。
と思って娘に力説解説したところ「お父さんの説明よくわかんなーい」と言われ、やはり計らいは勢い余って「余計」となり、悲しかった。
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