気楽にブログ
やっぱ気楽に屋にしよ
町田康が書いていたように「やっぱり」という言葉は、おもしろい。
使い方としては主に2パターンあるだろう。
「やっぱりやめた」
というときと
「やっぱり!そうだったのね」
である。前者は「思い直し」であるのに対して、後者は「思いの通り」という違いがある。これは一見すると、相反するように感じる。変わってしまうのと、変わっていないとの、両方で使えるなんて、そんな言葉は他にあるだろうか。
Yesのときでも使えるし、Noでも使える。なんて便利な「やっぱり」という言葉。だが、考えてみると、「気持ち」というのはコロコロと変わるものだという前提を取れば、どっちでも使えるのは自然なのかもしれない、という気がしてくる。
思ったものを変えたいときでも、思ったことの通りでも、「やっぱり」と始めに言っておけば、自分の発言に「なんとなくの正しさ」を付けられる気がするから、不思議だ。自分が熟考した上での結論のようでもあり、世間一般でもそうなっているという常識のようでもあり、「やっぱり」を先につけることは、自分の発言の正当性を上げてくれる気がする。どこか根拠があり、強めの意思が込められている気もする。
ところで、漢字で書くと「矢張り」となるのだが、何でこのように書くのかが、わからない。「やはりな」と言うときのしたり顔と、矢を張っている職人に、共通点があるのだろうか。いや、そもそも矢を張る職人というのは何だろう。矢の持つところのフサフサの羽根の部分を、付ける人のことだろうか。
3分くらい考えたが「やっぱり」わからなかった。
と、この場合は「予想に反して」なのか「予想通りに」なのか、微妙なところだ。「やっぱりだめだった」も同じで、文脈がないと、「でも(やっぱり)」なのか「ほら(やっぱり)」なのか、判断が難しい。
話を戻して、矢張りは当て字だと思うことにした。大事なのは音の方かもしれない。
つまり「やっぱ」だ。
「やっぱやめたー」とか、「やっぱいいよねー」とか、言いやすい言葉なので、ただそうして在るのかもしれない。例えば「もう」とか「あらま」みたいな感じで。カジュアルな枕詞として。
というわけで、英訳しにくい日本語として今回は「やっぱり」を取り上げました。次回は「いやはや」にしましょう。これ、どう英訳するんでしょうね。
あなたの暮らしに気楽時間
整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
本日空きあり◎
ブログの更新が滞っていたので、私の健康を心配している方がいるのではいかと私が心配していることを、心配している方がいらっしゃるかもしれません。大丈夫です。元気でおります。少しやせましたが。
ブログを更新できていなかったのは、4月からバイトで始めた訪問リハビリの仕事が忙しくなり、また6月は気楽に屋の方も、おかげさまでご予約が増えてきて、とそんなわけでした。
今だから書きますが、開業して1年は本当に暇で、「ヒマー」「ヒマー」と鳴く声がするので窓を開けてみたら、よく閑古鳥が来てくれていました。
おお、これが閑古鳥というやつか、よく鳴いておるわい。かじりかけのじゃがりこをあげるから、どうか他所へ飛んでいっておくれ、と追い払ったものの、次の日にはまた、「ヒマー」「ヒマー」の声を聞く、という有り様でした。
「集客」というのは本当に大変で、気に入ってもらって「リピーター」となって頂くのは、もっと大変だということが、心底感じられたこの1年でした。
北里大学出の理学療法士がやっている整体なんて他にないし、リクルート様に広告もお願いしたし、まあ半年もすれば「予約が取れない整体サロン」になるだろう。などと、ナポレオンパイよりも甘い私の見通しは、見事に弾け飛びました。
ただ、過剰な宣伝をしたり、不安を煽る営業トークをしたり、自分と合わないサービスをしたり、といったことは(なるべく)しないようにしてきました。だって、嫌だから。
ビジネスなのだから、自分ではなくてお客様に合わせるのが大切。というのは分かるのですが、やはり「オイル」や「足湯」は違うかなあ、と思って、やりませんでした。
ホームページでコンセプトに共感してもらえ、施術を受けて気に入ってもらえ、ブログを読んでもらってファンになってもらえ、リアルな口コミで評判が広がっていく。。
そんな夢想を今でも持っていて、少しずつ、そんな感じにもなってきています。
「あなたの痛みやしびれは、骨盤の歪みが原因です」「今なら回数券がお得です」
そんな整体は、この先消えていくことでしょう。真似しようとは思いません。ライバル視もしていません(メラメラ)。
ただ、リラクゼーションとしては、きれいなお姉さんたちのタイ古式マッサージには、とても敵わないので、相変わらず厳しいところです。
ご予約お待ちしております!!
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今の何点ですか?
評価するということは、つまりは点数をつけることで、そこには優劣がある。
優劣というのは、人間の他の動物も、感じるものなのだろうか?
例えば孔雀は羽根の大きさや美しさでパートナーを選ぶという話があるし、この世はいわゆる「弱肉強食」で、強者が残ってきたとするなら、その判断となる「優劣の基準」は、何らかの形で、それぞれの動物に備わっているものなのか。
そして、種としての存続のために必要なことだから、人間は「優劣を点数という形にして表し」、判断するのだろうか。
点数をつけたがり、点数を稼ぎたくなる。当然なのかもしれないが、でもなんか、全面的な肯定は嫌だなあ、と思う。
そう言いながらも自分を鑑みれば、飲食店や旅館の点数から映画まで、私は他の人がつけた点数が気になるのだが。
・点数は曖昧なもの
・点数で測れないことがある
とは思うが、気をつけないと点数に引っ張られてしまう。
もちろん医療の現場だとか、機械の安全とか、ある程程度「明確な基準がある上での点数は必要」なのは分かる。
でも、自分でつける点数や、他人がつける点数、「主観的な判断」に対しては、大らかでいたい。
そんなわけで「点数とうまい具合につきあっていきたいな」という、いつも通りふんわりとした結論に落ち着いたのだが、やはり「点数だけじゃないでしょ!」ということを書いて終わりにしたい。
例えば、自分の子どもが保育園の合唱で歌うのを聴くとき。「うーん、これは〇〇点だな」とか、思わないでしょう。別に点数をつけなくても、確かにあるから。感動も価値も。
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ボールは友だち
ゼルビア町田が強い。何とJ1で首位だ。私は小学生の頃にキャプテン翼に影響を受け、地元である町田の、サッカークラブに行っていた。その頃は、クラスの半分以上の男子は、サッカークラブに所属していた気がする。
私はサッカーがド下手であり、見切りをつけて中学校からテニスを始めた。サッカーはそれ以来、日本代表戦をテレビで応援するくらいだが、なにせ地元が町田なものだから、町田ゼルビアは応援している。
といっても、ゼルビアの試合を見ることはなく、結果を知るくらいだ。そして、どうやらゼルビアは「勝つためのプレーに徹している」らしい。
このあたりは、「ラフプレーが多い」「面白みに欠ける」などの批判も受けるようだ。
私としては、サッカーやラグビーのような体をぶつけ合う「コンタクトスポーツ」は、激しさがあるものだと思う。ただ、ケガのリスクは当然上がるだろうし、勝利至上主義だけでは危ういだろうな、とも思う。
チームを指揮するのは監督であり、試合を楽しむのは観客である。プレーするのは、もちろん選手だ。なるべくケガなく、なるべくフェアに、でも、なるべく激しく。競技としてもエンタメとしても、それぞれの立場からの希望や要求、好みにより、サッカーも変わっていくのだろう。
勝利のためには、監督の作戦が実行できるマインドと、強靭なフィジカルが必要だ。しかし、「美しく勝つ」ためにはやはり、「創造性」がプラスで必要で、その要素が消えてしまうことはないように思う。人々がマシーンではなく、ファンタジスタも見たいと願う限りは。
サッカーは全世界で人気だし、欧州や南米では熱狂的な感じだろう。と思ったら、FIFAの会長は、サッカー人気の低迷に危機感を持っているらしい。サッカーは、1部のコアなファンのものになっているようだと。
なんだ、それなら私に相談してくれればいいのに。勝つためにどうすれば良いかは分からないが、試合を面白くするアイデアならあるから。
例えばこういうのはどうだろう。
「ボールを2つにしてみる」
プレーする方も、見る方も、これは大変だ。「お前、そっちだ」「いや、こっちが手薄だ」など、それは目まぐるしい展開となるだろう。フォーメーションから作戦、その場の思いつきも必要になってくる。きっと得点も増えるだろう。
想像しただけで面白そうなのだが、ボール2つでするサッカー。どうだろうか。え、選手同士がぶつかって、危ない場面が増える?うん、確かにそうかも。
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Old Fashion
我々はまだ、進化の途中だ。科学技術が、思想文化が、芸術やスポーツも、これから更に、新しい形態となっていくだろう。
そう、今までだって少しずつ変化してきた。それは何かしらの意図があったのか、偶然だったのか分からないが、ともかく変わり続けてきたのだ。
より便利に、より効率的に、より公平に、より楽しく、そんな未来があるのだろう。
「それはもう古いよ」
若者たちに、そう言われるのは良いことだ。変化は必然であり、継続している証でもあるのだから。
「昔があったから今があるんだよ」
などと、したり顔で諭すのはやめておこう。まして、
「昔の方が良かった」
などと、言うのはかっこ悪い。
最新のモノ、新しい考え、速報のニュース、今までと少しずつ変わっているそれらを、新しい人たちが作り出し、享受していくのだ。古典が嫌われるのは、当たり前だろう。
と、理解ある大人を示しておきつつ、自分はYouTubeで昔の音楽ばかりを聴いている。
この前たまたまアレサ・フランクリンを聴いて、ぶったまげた。
自分にとって初めてなら、それは自分にとって新しい。例えそれが、60年前の作品だとしても。
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