気楽にブログ
クリーンな人
年若い頃の私は、漠然と「善い人」になりたいと思っていた。だが、嘘をついたり色欲がある自分は、「善い人」になかなかなれず、苦しかった。今思うと青臭いというか、微笑ましいが、自己嫌悪することもあった。
それから少しずつ、ふてぶてしくなり、嘘にも抵抗が少なくなり、今ではすっかり「おっさんwith欺瞞」というような存在となってしまった。世の中の不正に対して、昔はよく憤っていたが、自分自身の歩みを振り返ると、とても人のことは言えないな、という感じになっている。
なんと言うか、今では人にも自分にも、あまり期待していない。というのは、博愛を信じたい気持ちの一方で、「善い人」になる難しさも実感しているからだ。嘘も不正も堕落も痴情も、すぐそばにあるし、ホコリのようにすぐに服についてくる。
そのホコリのようなものはついてくるから仕方なく、染みになる前に振り払うか、多少の染みなら受け入れるしかない。どこかでついたホコリかもしれないが、自分がそういう場所に行ったからついたのだろう。
または、ホコリで出来たかと思った染みは、自分自身の油から出来た染みなのかもしれない。汚い世の中だ、といって自分がきれいなわけではもちろん、ない。
このように、なるべくなら身奇麗にしていきたいが、いつもキレイではいられないものだ。
そうだとしても、戒めの恐怖でもなく、人の目からの圧力でもなく、自然と自分を律することは可能だろうか。「善い人」になりたい、という気持ちのみで「善い人」に、今からなれるだろうか。
ふむ、むふ。「おっさんwith欺瞞」の自分には厳しいのでは、とすぐに諦めようとした。が、諦めたらそこで試合終了なので仕方なく空を見上げたら、5月の空が青かった。クリーンだった。
今日で私は46歳になりましたおめでとう自分。
整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
良くも悪くも
テレビを見なくなって久しい。新聞も取っていない。だが、ニュースは気になるので、ヤフーニュースやXを見ている。各ニュースに対するコメントの投稿も気になり、読んでいる。
以前から「街の人の声」として、ニュース番組の街頭インタビューはあった。だが、それらは流す側の選別を受けていたし、内容も、当たり障りのないものが多かったように思う。
新聞には「読書からの声」欄があった。街頭インタビューよりは「個人の意見」の色が濃かったが、投書→掲載のタイムラグがあり、鮮度が低かった。
今では自分の知らない人のコメントが、すぐに、編集されずに、読める。また、そのコメントに対するコメントも、次々に読める。称賛にしろ、反発にしろ、自分と同じ意見があると、嬉しいものだ。また、ニュースに対する自分の意見を決めかねるとき、同調できる意見を探すこともできる。
かくして我々は、流れてくるニュースに対して、素早く何らかの判断をし、意見を持つことに追われていく。以前なら、そのニュースそのものの事実の理解に、時間をかけていた。しかし今は、そんな時間はない。ニュースとコメントをサッと読み、自分の意見をgood かbadの判断から素早く作り上げて、処理していることが多い。
ニュースに関心を持ち、それに対して自分の意見が言える。社会人の基本なのだろう。だが、「あまりに多く・早い判断をしていると、当然間違いが増える」気がする。
それに加え、ニュースもコメントも読んでいると、多すぎて疲れてしまう。だから私は、読む時間を減らしたいなと、思うようになってきた。といって、大谷翔平の試合結果は逐一チェックしてしまうのだが。彼の活躍に対する皆さんのコメントを読むと、更に良い気分になれるのです。
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ごめんちゃい、許して
夕飯作りに失敗してしまった。忘れ物をしてしまった。おならをしてしまった。
人に迷惑をかけまいと思っているのだが、なかなかどうしてうまくいかない。どうして私はこうなのだろうか。緊張感が足りないからなのだろうか。だらしがないからなのだろうか。
うまくやりたい気持ちはあるのだ。だが、失敗してしまう。迷惑をかけてしまう。そんなとき、とてもつらい。
だがその実、なかなか私はたくましい。もしくはふてぶてしい。「自分なんてこんなもんです」と、すぐに開き直れる。うまくできない自分に、寛容だ。
これは端的に「甘さ」なのだと思う。だが、その「甘え」が私にとって、この世を生き抜くための、手段や作戦なのだ。
「自分が失敗して人に迷惑をかけたくないし、人の失敗で迷惑を被りたくない。」
いやいや、そんな都合よくいかないだろう、と思う。「自分に甘く」を「人にも甘く」にできない私なのだが。
ある程度の寛容や許容が、全体の秩序や平衡を助けると、思っていることは思っている。
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休み時間
GWの集客に向け、久しぶりに営業ブログを掲載します。
4月の新生活から一段落して休みに入ったら、肩こりや腰痛が出てきた。休んでいるのに何で?それは、体が回復のモードになったからかもしれません。
資格試験や仕事のプロジェクトで一山越えたあとに、風邪を引いた経験はありませんか?ほっとしたあとにどっと疲れが出る、そんなことありますね。痛みに関しても同様です。忙しかったあと、一息ついて休んでいるときに痛みが出ることがあります。そしてそれは必要な、回復の時間です。
何かに集中してがんばって取り組んでいるときは、体も気持ちも戦うモードです。アドレナリン、ドーパミンが、多く出ています。そのときは、自分の体のケアは後回しになります。これは体のシステムが自動的にしています。「意外と乗り切れるもんだな、まだ若いなオレ」、そう思いたいところですが、残念ながらそれは勘違いで、体のダメージは蓄積しているものです。
ほっとして休んでいたら筋肉が痛みだした。それは後回しにしておいた、回復のための自分のケアが、始まったしるしです。疲労感や痛みは「休ませて」の体からのサインです。休んでいるのに肩や腰が痛む、それは炎症反応、つまり免疫を発揮して、回復しているからだと考えられます。体と気持ちが、戦闘モードから回復モードになったと言えるでしょう。
筋肉痛も含め、それら筋肉の痛みは、様子見で引くことが多いです。風邪が良くなるのと同じように、自己治癒力で治っていきます。ただ、風邪の引き始めできちんと休まないと悪化するように、体の痛みや疲れも、早いうちのケアが大切です。
お体が休みを求めている声が聞こえたら、自己治癒を促す施術を受けに、気楽に屋にどうぞお越し下さい。筋肉をほぐす施術をし、体が回復するための良い休み時間となるよう、サポート致します。
ご予約はこちらから http://b.hpr.jp/kr/hp/H000639285/
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ですから、たいてい文です
5歳の娘がSnow Man のファンになった。私はと言えば去年から、浜辺美波と岡潔のファンになった。
というわけで、「人間の建設」岡潔・小林秀雄 新潮文庫 を厚木の有隣堂で購入した。
いわゆる対談本で、論戦・論破というものではない。そして帯のコピーにあるような「すれ違い」では決してない。お互いに敬意を払い、共通している考え方を探りながら、「相手が世の中をどう捉えているか」を知りたい!と思っているように感じた。
相手の言葉によって新たな気づきが得られ、相手に語ることによって自分の確認になる。そんな豊かな対話が、ここに記されているように思う。自説の正しさで相手をやり込めるのではなく、やりとりの中から新しさをお互いに得る。それが、対話による「建設」なのだろう。感情を排した表現や抽象的な話ではなく、お二人から「直感と情熱」という言葉が出てくることが、何だかとても嬉しかった。
それぞれの発言に岡、小林、岡、小林、となっており、後でもう一度読み直すため、感銘をうけた発言に、私は◯をつけて読んでいった。そうしたら結局◯だらけになってしまったが、少し岡の方への◯が私の場合、多かった。文系の私なのに。やはり岡のファンだからだろうか。
評論家の小林秀雄は、音楽や絵画に関心がある。そしてそれを、何とか文章にしていく。そのときに、作品を言葉で表すのはとても難しい。だから文学評論も含め、「作家」に着目して文章を書いていく。それに対し、岡潔は数学者である。そして岡もまた、絵画や文学、音楽、そして仏教や俳句にも興味がある。彼もまた「作家性」「人間」にとても関心がある。
だから、数学のような、最も人間の感情と離れていそうな対象に対しても岡は、人が数学をするのだから「情緒が大切だ」と言うのである。二人が自然科学・物理学に対して少し批判的なのは、情緒・人間を置き去りにして進めている面があると、感じているかもしれない。やはり自然科学が原爆を作るに至ったことは、その時代を生きた人にとって、大きなインパクトなのだろう。
二人に共通する「人間」への興味を表すのに「言葉」がツールとなっている。
私が最もウケた、というか驚いたのは次の箇所で
小林が「岡さんの数学というのは数式で書かれる方が多いのですか?それとも文章で表せるのですか」と問う場面だ。
いや、数学者なんだから、数式に決まっているでしょ!と私なんかは思うわけだが、この問いには小林の予感があるのだろう。事実、岡はこう答える。
「なかなか数式で表せるようになってこないのです。ですから、たいてい文です」
そうなんかーい!驚愕である。数学と言えば黒板やノートに数式がびっしりではないのか?文と言うより文字や記号という意味なのかもしれないが、それにしても。
小林「そうすると、やはり言葉が基ですね」
岡「言葉なんです。思索は言葉なんです」
と、二人の考えが合致するのである。人間の情緒がまず大切で、言葉を用いて思索する。それによって「建設」していく。理性を使うためにも愛情が必要。そういった個々人の情がまずあって、それが詩や数学となる。だから、「情緒や言葉を育むことが大切」と、本書の最後は、教育のあり方に話が及んでいく。
解説で茂木健一郎氏が書いていたように「声に出して読んでみると心地よい」だろう。氏が言うように「自分が少しだけ賢くなった気がする」かもしれない。また自分の「直感と情熱」が、増大するかもしれない。
よし、知の巨人に近づくために、◯をつけたところを音読してみよう。Snow Manの気分になりたかったら、彼らの歌を歌えば良いように。
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