気楽にブログ
多義性ありきで
漢字は意味を表してくれるから便利だ。例えば「勝負」という単語は、「勝」と「負」から出来ているので、「ああ、勝ちと負けがあるものなのだな」と理解できる。
だがここで、「勝負」が「勝」と「負」だけで出来ていると考えてしまうのは、不十分だ。「勝負」という文字をよくよく見てほしい。拡大鏡で見たならば、勝と負の間に、うっすらと文字が見えてこないだろうか。
そう、勝(喜怒哀楽)負、こんな文字が、実は隠れているかもしれないのだ。勝負がありました。の文には、単に勝った負けただけではなく、様々な「人の気持ち」が含まれている。
だから、勝負を勝(喜怒哀楽)負と書いても構わないと思う。寧ろこちらのほうが、よく意味を表していると思う。
そんなわけで、単語や漢字というのは、何かしら他の字が隠れている可能性がある。それをよくよく探し、しっかり見て行くことが、理解するには大事だ。
また「勝」にしても、いろんな勝ちがある。「努力が実って勝った」「相手を騙して勝った」「たまたま勝った」「正義だから勝った」「相手が棄権して勝った」
そして「勝」だけに関しても、色んな「気持ち」がある。「勝って嬉しい」「勝ったけど後ろめたい」「勝ってほっとした」「勝って虚しい」
そう考えると、言葉には実に色んな意味があり、どう解釈して理解するのかで、それぞれ「違う」ものとなる。
この違いを「多義性」と言う。違いがあるから、同じ言葉を使っても、同じ意味として伝わらない。それだと困るから、例えば数学では数学用の言葉を使う。数学の用語は、世界共通の言語となりうるようだ。
数学ではなく、「日常の言葉」を使って意思疎通を図るのは、なるほど難しいのだな、というのはよくわかる。だが、多義性はまた、豊かさや面白さでもあると思うのだ。
「世の中には色んな勝ちや負けがあるし、色んな気持ちがある。」勝負という字を読むときに、その多義性が増やせたら、オリンピックを観た価値があるだろう。
最後の一文は、なんか書きたいこととずれた気がするけど気にしないで投稿しようとしたけどやっぱり気になる。
整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
オリンピックと8月6日
勝つと嬉しい。負けると悔しい。だけどきっと、勝負がもたらすものは、それだけではない。
ピアノコンクール、数学オリンピック、カーレース、映画祭、日本人や日本製が他国より優れているとき、私はすごく嬉しい。
それは当然のことであるように思われるし、悪いことではないだろう。だが、その優越感には、気をつけなくてはいけないとも思う。
応援してくれる人のために、相手より優れていることを示すために、人は競争するのだろうか。または、相手から奪うために、自分の地位を高くするために、人は勝ち負けを決めようとするのだろうか。
競争へと駆り立てるものは、沢山ある。勝負に勝つ嬉しさは、大きいものだ。
だからこそ、その危うさも知っておきたいのだ。
「他の誰かより自分が優れていると分かったとき、ものすごく嬉しい」
こう書くと、なんかイヤな奴だな、と思うことだろう。そう、そんな違和感も大事にして欲しいのだ。優越感に対する後ろめたさも、きっとあるはずだから。
争いが競争で収まるように、我々は工夫してきた。そしてこれからも工夫していく。
戦争にならず競争で留まるように。勝負の二文字には、実は色んな意味が隠れている。その多義性を、見ていこう。
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良い性格の人
「顔もだけど性格も大事だよな」などと、「何様?」「お前が言うな」というツッコミを入れ放題な発言をしていた、若い頃の私。本人としては見た目だけではなく、性格(中身)も重視しているのだ、ということでドヤ顔であったのだろう、恥ずかしい限りである。
そして、色々と学びを得て今のところ「性格」について思うことは以下の感じだ。
1.性格は生まれつきの要素も多い
2.性格は変わる
3.性格に良いも悪いもない
性格というと「やさしい」とか「怒りっぽい」とかになると思うが、これらはどうやら「気質」ということらしい。そして、気質は遺伝子の影響を受けるようだ。つまり、生まれながらの要素も多い。
3つ子の魂は100歳まで、という言葉の通り、せっかちな人はずっとせっかちで、心配性の人はずっと心配性ということだ。自分の気質に合わない行動は取れるが、疲れてしまう。
一方、気質はホルモンの影響もうける。産後にママが急に情緒不安定になった経験をしたパパもいるかと思うが、それはホルモン量の変化の影響もあるだろう。
だから「やさしい」とか「怒りっぽい」とかも、本人が「そうしよう」と思っているのではなく、「そうなりがちである(tend to)」ということもあるのだ。
だから、性格をあれこれ言うのは、顔をあれこれ言うのと、大差ないように思う。持って生まれたものでもあるし、本人の意志ではないことの影響を受けるものだから。
そして、そもそも性格に良いも悪いもないし、その優劣を他者が判断するものでもないように思う。
だから「性格が良い人が好き」というのは、良い発言のようでいて、そうでもない気がするのだ。
うむ、やはりこんな理屈っぽいことを言うようじゃ、若い頃のようにはしゃいだ会話ができないのは当然だな、と悲しくなってきた。
誰か私に言ってほしい。
「人を好きになるのは、理屈じゃないんだよ」と。
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かわいい人
おっさんになると友達との会話でも、仕事やお金、健康というものが、話題として多くなってくる。自分が学生のときに「おっさん的だな」と思っていた、正にそういう話の内容だ。
これではだめだ。学生の頃は、もっと友達との会話は盛り上がっていたはずだ、あの頃を思い出したい。マガジンの表紙が「菅野美穂」で、その週だけジャンプではなくマガジンを買ってしまって居た頃のことを。
例えばあの頃の話題と言えば、こんなものだった。
「顔と性格、どっちが大事か?」
彼女なんていたことがないくせに、「やっぱ顔がかわいくないと」「いやー、性格でしょ」と、毛の全く生えないこんな会話は、しかし、大いに盛り上がり、楽しかったのだ。
そして、何故かわからないが、顔だけではなくその人の性格も好きであることが、大切であったように思う。「お前、あいつの顔が好きなだけでしょ」と言われるのは、憤慨し、強く否定したものだ。
性格を含めて好きであることが、好きということなのだ、という共通理解が、仲間内であったようだが、何の影響でそういう認識を持っていたのだろう。
また、たとえ顔がかわいくても「あいつ、性格悪いよ」と言うのは、十分なパンチ力を持っていたように思う。
アイドルの写真で騒ぎながら、一方で何故そんなに性格を重視していたのか、謎だ。そして、考えてみると「性格が悪い」というのは、具体的にどういうことなのか、思い出せない。
というわけで、今の自分が知りたいのは日経平均株価ではなく、「性格の悪い人とは一体どんな人か」ということです。
あなたの暮らしに気楽時間
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やっぱ気楽に屋にしよ
町田康が書いていたように「やっぱり」という言葉は、おもしろい。
使い方としては主に2パターンあるだろう。
「やっぱりやめた」
というときと
「やっぱり!そうだったのね」
である。前者は「思い直し」であるのに対して、後者は「思いの通り」という違いがある。これは一見すると、相反するように感じる。変わってしまうのと、変わっていないとの、両方で使えるなんて、そんな言葉は他にあるだろうか。
Yesのときでも使えるし、Noでも使える。なんて便利な「やっぱり」という言葉。だが、考えてみると、「気持ち」というのはコロコロと変わるものだという前提を取れば、どっちでも使えるのは自然なのかもしれない、という気がしてくる。
思ったものを変えたいときでも、思ったことの通りでも、「やっぱり」と始めに言っておけば、自分の発言に「なんとなくの正しさ」を付けられる気がするから、不思議だ。自分が熟考した上での結論のようでもあり、世間一般でもそうなっているという常識のようでもあり、「やっぱり」を先につけることは、自分の発言の正当性を上げてくれる気がする。どこか根拠があり、強めの意思が込められている気もする。
ところで、漢字で書くと「矢張り」となるのだが、何でこのように書くのかが、わからない。「やはりな」と言うときのしたり顔と、矢を張っている職人に、共通点があるのだろうか。いや、そもそも矢を張る職人というのは何だろう。矢の持つところのフサフサの羽根の部分を、付ける人のことだろうか。
3分くらい考えたが「やっぱり」わからなかった。
と、この場合は「予想に反して」なのか「予想通りに」なのか、微妙なところだ。「やっぱりだめだった」も同じで、文脈がないと、「でも(やっぱり)」なのか「ほら(やっぱり)」なのか、判断が難しい。
話を戻して、矢張りは当て字だと思うことにした。大事なのは音の方かもしれない。
つまり「やっぱ」だ。
「やっぱやめたー」とか、「やっぱいいよねー」とか、言いやすい言葉なので、ただそうして在るのかもしれない。例えば「もう」とか「あらま」みたいな感じで。カジュアルな枕詞として。
というわけで、英訳しにくい日本語として今回は「やっぱり」を取り上げました。次回は「いやはや」にしましょう。これ、どう英訳するんでしょうね。
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