気楽にブログ

2024-07-28 18:42:00

良い性格の人

「顔もだけど性格も大事だよな」などと、「何様?」「お前が言うな」というツッコミを入れ放題な発言をしていた、若い頃の私。本人としては見た目だけではなく、性格(中身)も重視しているのだ、ということでドヤ顔であったのだろう、恥ずかしい限りである。

 

そして、色々と学びを得て今のところ「性格」について思うことは以下の感じだ。

 

1.性格は生まれつきの要素も多い

 

2.性格は変わる

 

3.性格に良いも悪いもない

 

性格というと「やさしい」とか「怒りっぽい」とかになると思うが、これらはどうやら「気質」ということらしい。そして、気質は遺伝子の影響を受けるようだ。つまり、生まれながらの要素も多い。

 

3つ子の魂は100歳まで、という言葉の通り、せっかちな人はずっとせっかちで、心配性の人はずっと心配性ということだ。自分の気質に合わない行動は取れるが、疲れてしまう。

 

一方、気質はホルモンの影響もうける。産後にママが急に情緒不安定になった経験をしたパパもいるかと思うが、それはホルモン量の変化の影響もあるだろう。

 

だから「やさしい」とか「怒りっぽい」とかも、本人が「そうしよう」と思っているのではなく、「そうなりがちである(tend to)」ということもあるのだ。

 

だから、性格をあれこれ言うのは、顔をあれこれ言うのと、大差ないように思う。持って生まれたものでもあるし、本人の意志ではないことの影響を受けるものだから。

 

そして、そもそも性格に良いも悪いもないし、その優劣を他者が判断するものでもないように思う。

 

だから「性格が良い人が好き」というのは、良い発言のようでいて、そうでもない気がするのだ。

 

うむ、やはりこんな理屈っぽいことを言うようじゃ、若い頃のようにはしゃいだ会話ができないのは当然だな、と悲しくなってきた。

 

誰か私に言ってほしい。

 

「人を好きになるのは、理屈じゃないんだよ」と。



整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2024-07-24 20:12:00

かわいい人

おっさんになると友達との会話でも、仕事やお金、健康というものが、話題として多くなってくる。自分が学生のときに「おっさん的だな」と思っていた、正にそういう話の内容だ。

 

これではだめだ。学生の頃は、もっと友達との会話は盛り上がっていたはずだ、あの頃を思い出したい。マガジンの表紙が「菅野美穂」で、その週だけジャンプではなくマガジンを買ってしまって居た頃のことを。

 

例えばあの頃の話題と言えば、こんなものだった。

 

「顔と性格、どっちが大事か?」

 

彼女なんていたことがないくせに、「やっぱ顔がかわいくないと」「いやー、性格でしょ」と、毛の全く生えないこんな会話は、しかし、大いに盛り上がり、楽しかったのだ。

 

そして、何故かわからないが、顔だけではなくその人の性格も好きであることが、大切であったように思う。「お前、あいつの顔が好きなだけでしょ」と言われるのは、憤慨し、強く否定したものだ。

 

性格を含めて好きであることが、好きということなのだ、という共通理解が、仲間内であったようだが、何の影響でそういう認識を持っていたのだろう。

 

また、たとえ顔がかわいくても「あいつ、性格悪いよ」と言うのは、十分なパンチ力を持っていたように思う。

 

アイドルの写真で騒ぎながら、一方で何故そんなに性格を重視していたのか、謎だ。そして、考えてみると「性格が悪い」というのは、具体的にどういうことなのか、思い出せない。

 

というわけで、今の自分が知りたいのは日経平均株価ではなく、「性格の悪い人とは一体どんな人か」ということです。



あなたの暮らしに気楽時間

 

整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2024-07-14 12:03:00

やっぱ気楽に屋にしよ

町田康が書いていたように「やっぱり」という言葉は、おもしろい。

 

使い方としては主に2パターンあるだろう。

 

「やっぱりやめた」

 

というときと

 

「やっぱり!そうだったのね」

 

である。前者は「思い直し」であるのに対して、後者は「思いの通り」という違いがある。これは一見すると、相反するように感じる。変わってしまうのと、変わっていないとの、両方で使えるなんて、そんな言葉は他にあるだろうか。

 

Yesのときでも使えるし、Noでも使える。なんて便利な「やっぱり」という言葉。だが、考えてみると、「気持ち」というのはコロコロと変わるものだという前提を取れば、どっちでも使えるのは自然なのかもしれない、という気がしてくる。

 

思ったものを変えたいときでも、思ったことの通りでも、「やっぱり」と始めに言っておけば、自分の発言に「なんとなくの正しさ」を付けられる気がするから、不思議だ。自分が熟考した上での結論のようでもあり、世間一般でもそうなっているという常識のようでもあり、「やっぱり」を先につけることは、自分の発言の正当性を上げてくれる気がする。どこか根拠があり、強めの意思が込められている気もする。

 

ところで、漢字で書くと「矢張り」となるのだが、何でこのように書くのかが、わからない。「やはりな」と言うときのしたり顔と、矢を張っている職人に、共通点があるのだろうか。いや、そもそも矢を張る職人というのは何だろう。矢の持つところのフサフサの羽根の部分を、付ける人のことだろうか。

 

3分くらい考えたが「やっぱり」わからなかった。

 

と、この場合は「予想に反して」なのか「予想通りに」なのか、微妙なところだ。「やっぱりだめだった」も同じで、文脈がないと、「でも(やっぱり)」なのか「ほら(やっぱり)」なのか、判断が難しい。

 

話を戻して、矢張りは当て字だと思うことにした。大事なのは音の方かもしれない。

 

つまり「やっぱ」だ。

 

「やっぱやめたー」とか、「やっぱいいよねー」とか、言いやすい言葉なので、ただそうして在るのかもしれない。例えば「もう」とか「あらま」みたいな感じで。カジュアルな枕詞として。

 

というわけで、英訳しにくい日本語として今回は「やっぱり」を取り上げました。次回は「いやはや」にしましょう。これ、どう英訳するんでしょうね。



あなたの暮らしに気楽時間

 

整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2024-07-08 10:51:00

本日空きあり◎

ブログの更新が滞っていたので、私の健康を心配している方がいるのではいかと私が心配していることを、心配している方がいらっしゃるかもしれません。大丈夫です。元気でおります。少しやせましたが。

 

ブログを更新できていなかったのは、4月からバイトで始めた訪問リハビリの仕事が忙しくなり、また6月は気楽に屋の方も、おかげさまでご予約が増えてきて、とそんなわけでした。

 

今だから書きますが、開業して1年は本当に暇で、「ヒマー」「ヒマー」と鳴く声がするので窓を開けてみたら、よく閑古鳥が来てくれていました。

 

おお、これが閑古鳥というやつか、よく鳴いておるわい。かじりかけのじゃがりこをあげるから、どうか他所へ飛んでいっておくれ、と追い払ったものの、次の日にはまた、「ヒマー」「ヒマー」の声を聞く、という有り様でした。

 

「集客」というのは本当に大変で、気に入ってもらって「リピーター」となって頂くのは、もっと大変だということが、心底感じられたこの1年でした。

 

北里大学出の理学療法士がやっている整体なんて他にないし、リクルート様に広告もお願いしたし、まあ半年もすれば「予約が取れない整体サロン」になるだろう。などと、ナポレオンパイよりも甘い私の見通しは、見事に弾け飛びました。

 

ただ、過剰な宣伝をしたり、不安を煽る営業トークをしたり、自分と合わないサービスをしたり、といったことは(なるべく)しないようにしてきました。だって、嫌だから。

 

ビジネスなのだから、自分ではなくてお客様に合わせるのが大切。というのは分かるのですが、やはり「オイル」や「足湯」は違うかなあ、と思って、やりませんでした。

 

ホームページでコンセプトに共感してもらえ、施術を受けて気に入ってもらえ、ブログを読んでもらってファンになってもらえ、リアルな口コミで評判が広がっていく。。

 

そんな夢想を今でも持っていて、少しずつ、そんな感じにもなってきています。

 

「あなたの痛みやしびれは、骨盤の歪みが原因です」「今なら回数券がお得です」

 

そんな整体は、この先消えていくことでしょう。真似しようとは思いません。ライバル視もしていません(メラメラ)。

 

ただ、リラクゼーションとしては、きれいなお姉さんたちのタイ古式マッサージには、とても敵わないので、相変わらず厳しいところです。

 

 

ご予約お待ちしております!!

 

 

整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2024-06-22 17:02:00

今の何点ですか?

評価するということは、つまりは点数をつけることで、そこには優劣がある。

 

優劣というのは、人間の他の動物も、感じるものなのだろうか?

 

例えば孔雀は羽根の大きさや美しさでパートナーを選ぶという話があるし、この世はいわゆる「弱肉強食」で、強者が残ってきたとするなら、その判断となる「優劣の基準」は、何らかの形で、それぞれの動物に備わっているものなのか。

 

そして、種としての存続のために必要なことだから、人間は「優劣を点数という形にして表し」、判断するのだろうか。

 

点数をつけたがり、点数を稼ぎたくなる。当然なのかもしれないが、でもなんか、全面的な肯定は嫌だなあ、と思う。

 

そう言いながらも自分を鑑みれば、飲食店や旅館の点数から映画まで、私は他の人がつけた点数が気になるのだが。



・点数は曖昧なもの

 

・点数で測れないことがある



とは思うが、気をつけないと点数に引っ張られてしまう。

 

もちろん医療の現場だとか、機械の安全とか、ある程程度「明確な基準がある上での点数は必要」なのは分かる。

 

でも、自分でつける点数や、他人がつける点数、「主観的な判断」に対しては、大らかでいたい。

 

そんなわけで「点数とうまい具合につきあっていきたいな」という、いつも通りふんわりとした結論に落ち着いたのだが、やはり「点数だけじゃないでしょ!」ということを書いて終わりにしたい。

 

例えば、自分の子どもが保育園の合唱で歌うのを聴くとき。「うーん、これは〇〇点だな」とか、思わないでしょう。別に点数をつけなくても、確かにあるから。感動も価値も。



あなたの暮らしに気楽時間

 

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