気楽にブログ
少しだけ信じてる
今年も世間では色々なことがあった。沢山の情報が溢れる中、何を信じて良いのか、何を支持して良いのか、益々判断が難しいように思う。
というわけで、今年のキーワードとして「不信」という言葉を取り上げたい。何ともネガティブで嫌だが、不信を考えることで「信じる」を取り戻し、その先の「安心・安寧」につなげていきたい。
象徴的な出来事が、兵庫県知事を巡る一連の騒動だろう。それぞれの主張が異なる中で、「誰の、どの言葉を信じるのか」は、難しいものであった。新聞やワイドショーなどのメディアが正しいのか、それともネット内の情報が正しいのか、はたまた真実は他にあるのか、判断しかねる状況だった。
その他にも司法、政治、個人のスキャンダルまで、多方面で不信が広がっていったように思う。自分と直接関係のないことならまだいいが、自分が判断しなければいけない場面も出てくるだろう。
そのときに果たして、「判断するために何を信じるか」確固たるものがあるだろうか。
その問いに対しては、こう答えたい。
「そもそも丸ごと信じ切る必要はない」
100%の正しさも、100%の善いことも、なかなか無いと私は思う。何にせよ、どちらかが一方的に悪いということは、あまりないだろう。
そして、丸ごとを信じられなくても、選ぶ判断はできると思う。「(これに関しては)信じられる」「(今のところは)信じられる」くらいの感じで十分ではなかろうか。「信じる」を「支持する」と置き換えてもよい。
昔、ジョン・レノンが、神もビートルズも信じない。ヨーコと自分のみを信じる。と歌った。私はこれにあまり共感できない。
全面的に信じるには、信仰が必要だと思う。今の私には、その対象がない。だから、自分への自信も、もちろんない。不安だ。
だが、「丸ごとではない部分的な信頼」ということであれば、それはある。常に「かもしれない」の可能性は否定できない。それでも、理屈と直感を頼りに、「部分的に沢山を」信じていきたい。自分のことも。世界のことも。
そうすれば少なくとも「もう何も信じられない!」と嘆くことは、防げるかなと思う。そして、少しは安心できたらいいと思う。まあ、間違えることはあるでしょうが。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
転職するならリク
気楽に屋が広告とコンサルでお世話になっている営業の方と、町田の居酒屋で早めの忘年会をしてきた。
20代の彼は公務員(の中でもお固い職種)から一般企業の営業職(の中でも先鋭集団)に転職した経歴があり、話を聞くのがとてもおもしろかった。
皆さんに「何で転職したのですか?」とよく聞かれるという彼の決断の理由は
「年功序列ではない評価制度で自分を試したい」「皆さんに直接のお役立ちをしたい」というものだった。
「でも、ノルマというか売上げを気にして働くのはキツくないですか?」と私は聞いてみた。それに対し、彼は
「お役立ちの対価がお金です。だから良い仕事をして沢山稼ぎたい」と答えてくれた。
「儲け主義とは言いますけど、良いことをしないと長期で売上を上げることはできません」とも言っていた。
これは以前、このブログに書いた「エシカル資本主義」だなと思い、私はいたく感じ入った。
人々の役に立つ、良い製品や善いサービス、だからこそ売れる。その考え方は、私を勇気づけるものだった。
「人の役に立つのは難しい だから売れるのも難しい」私は納得して店を出た。
気楽に屋は去年よりは売上が上がったが、正直儲かってはいない。つい、言い訳したくなるが、「皆様へのお役立ちが足りないのだな」と、帰りがけにちょっと自戒した。
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Pain in my heart
ドジャースがヤンキースを4−1で下し、ワールドチャンピオンとなった。歓喜に包まれるドジャースナインの一方で、ヤンキースはつらい敗戦を受け止めていた。
「I’m heart broken」ヤンキースのブーン監督は、記者に気持ちを問われ、沈痛な面持ちでそう答えていた。ファイナルの2チームに残ったとしても、最後に負けてしまえば敗者となる残酷さが、スポーツにはある。
だが、このように勝者と敗者がはっきりと分かれることが、結果がもたらす感動を大きくするのだろう。勝ったほうは派手に喜び、負けたほうは打ちひしがれる。
ポイントは、来年もシーズンがあることだ。勝者もパーティが終われば、トロフィーは置いてゼロからゲームスタートだ。今日の勝者は明日の敗者、そしてその逆もある。
昔に比べ、勝利至上主義が非難されることも多くなった。勝てば何でもいいのか、負けには価値はないのか、問うきっかけとして良いと思う。その中で敗者に対する声かけや、敗者としての振る舞い方が、もっと見えて来てほしい。
例えばテニスの優勝スピーチでは、必ず優勝者が準優勝者に対し、勝ち上がってきたことを祝福し、敬意を示す。過酷な競争を勝ち抜く厳しさが分かるからこそ、対戦相手は競技仲間という認識なのかもしれない。
ブーン監督は「負けたことはつらいが、このシーズンを戦い抜いたチームを誇りに思う」と言っていた。負けて悔しい、つらい、足りなかった、と非難や卑下で終わらせるのではなく、達成できたことにも目を向ける。そんな態度もまた、豊かなスポーツ文化のためには必要ではないだろうか。
ところで、日本語でも英語でも、「心」が「心臓」のことを指すのはおもしろいと思う。そして、ハートが壊れてしまうほどの悲しみを感じることが、人生で2つ3つはあってもいいと思う。
整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
印象的な人
大リーグのワールドシリーズが始まり、ヤンキース対ドジャースということで、大変な盛り上がりを見せている。私も大谷翔平のファンとして、録画して観ている。家に帰る前に、うっかりYahooニュースで結果を見ないようにするのが大変だ。
ところで、選手や監督のインタビューや解説で、しばしば「impressive」という単語を見聞きする。そして「印象的」と翻訳されている。
だが、私は印象的という言葉が「人」に対して使われるのに、馴染みがない。印象的というのは、例えば「印象的な場面」のように、出来事について使われることが多いと思う。
英語では、人に対して印象的であるという形容をよく使うようだ。このあたり「感銘を受ける」という感じが近いのではないかな、と思っている。
と思っていたら、大谷選手がインタビューでアーロン・ジャッジ選手に関して「彼は印象的ですし、、」と日本語で答えていた。大谷選手は印象的と話せば、それが「impressive」と訳されること、その言い回しがよく使われることをよく知っているのだと思う。
なんというか、さすがだ。
そして、考えてみると、impressiveを印象的と訳すのはとてもうまいと思う。in(m)とpressということで、心の中に押し込められるような感じだし、象(イメージ)が刻印される感じとよく合っている。
心に刻まれる強烈な像。こう考えると印象的というのはなるほど、人を形容するのにも、使えそうな気がしてきた。
というわけで、インスタで「インプレッション」と出てきて何のことだかわからなくても「impression」と単語で見れば、意味が分かるということだ。まあ、私の投稿などは人々に感銘を与える、印象的なものとは程遠いのだが。
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自由意志はあるのか
「自分の人生を生きる」ということは、自分で選択し、決定していくことの連続だろう。
この「自分で決めること」を、私は子どもの頃から大事にしてきた。
もちろん、しなくてはならないことや、守らなくてはいけないルールはあったが、自分で決めて良いことに関しては、周りの人の意見に合わせることよりも、自分の気持ちを優先してきた。
この、自分で決めることこそが、自分が自分であることの証であるし、その選択の結果で被ることにも、納得して受け入れられた。
だから、「自由意志(free will)」というものは確かに存在し、揺るぎない自分固有のものだと思っていた。
だが、どうやらこの「自由意志」というのは不確かなものらしい。自分で決めたと思っていても、その選択には、無意識が影響しているようだ。そして、そのときの体調や環境にも影響を受けるのだと聞く。
まず動機があって、次に行動があるものだと、私はずっと考えていた。だが、例えば咄嗟のことなど、行動の理由を説明できないこともあるように思う。
それは反射のような、意識を介さない行動だけでなく、継続的な計画的な行動に関してもそうなのだろうか?だが、それだと「私は意図してやっていません。何でしたのかわかりません」という居直りになりはしないか。
脳の機能や遺伝子やホルモン次第で、自分の行動が変わりうるとしても、特に継続している行動には「私の意志」があると思いたい。理由は後付けだとしても「これは私が自由に選択したのだ」と言いたいと思う。まあ、決めておいて後悔もよくするのだけど。
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