気楽にブログ
3月9日
「それともそうじゃないのか? ネクタイなんてしめなくていい!」
若さのイメージ 谷川俊太郎
卒業式シーズンですね。私も下の娘が保育園の卒園式を控え、家でも彼女は、式で歌う合唱の練習をしています。私は傍らで聞きながら、これは本番は「うるうる」だな、と、今から感動の式を楽しみにしています。
そう、「~式」は親にとっても大事なもの。少しの緊張感、締まった感じもまた、良いものです。
ええ、ですから、間違っても「コスプレ」で式に参加するのはやめましょう。アート系の学校ならOKかもしれませんが。。
以下、回想。
97年度の都立M高校の卒業式、例年と変わらないごく普通の式になるはずだった。だがしかし。そこに、不届き者ありけり。
大学受験を終えた僕は、卒業式までもう少しという頃、友達とウダウダと過ごしていた。受験は受かったものの、高校3年生という貴重な青春時代の後半を、受験勉強に取られた気がして、二人で憤っていた。
「なーんか、高校生活の最後の方はつまらなかったな。・・じゃあさ、卒業式、ふざけちゃおうぜ!」「はい来た!よろこんで!」
1人ではやらなかっただろう。しかし、若いバカが2人で動き出すと、もう止まらない。速度の二乗に比例してバカさが増えていく。早速、町田の東急ハンズへ行き、僕は宴会用で売られていた「エルビス・プレスリー」の、白いヒラヒラのついた服を買った。ついでにサングラスとモミアゲも買い、下のズボンは買えなかったので、テニスの白い短パンを履くことにした。
前日に担任の先生が「明日は卒業式です。まあ、好きな服装で」と言ったのを、僕はしっかりと聞いた。そう、もともとM高は私服だった。校則が少ない、自由な校風が特長の高校だった。制服がないので、例年の卒業生は殆どがスーツ、袴が少し、という感じだった。
先生も「好きな服装で」と、言ったしな。。よし。「自由こそM高校の良さなのだ!それを示すのだ!」「伝統・常識にとらわれるな!」「個性を発揮するのだ!」と、僕はリベラリスト気取りにもなっていた。ただ単にふざけているのではない。思想があるのだ、と。
3年間「自由とわがままは違います」「ときと立場にふさわしく」「私が、私が、ではなく、周りのことも考えるように」ということを何度も聞かされただろうに、そういった「公立の教え」が、僕には響かなかったようだ先生方ごめんなさい。
*エルビス・プレスリーで私が好きな曲は、「Always On My Mind」です。you tubeで聴けます。
当日は学校のトイレで着替え、わざと遅刻して教室に入った。サングラスをしているので、わりと恥ずかしくなかった。「きゃー」「陽ちゃん、うそー」という女子の嬌声が聞こえ、男子も「陽介、お前まじウケるわ」と喜んでくれた。担任の先生は苦笑いし、「仲村、その格好で出るのか?」と言ったが、それ以上は何も言ってこなかった。
卒業式では、ダンスなどのパフォーマンスはしなかった。式の進行を邪魔することは良くない、あくまで「好きな服装で参加した」ということを示したかった。あとは、全力で校歌を歌った。入場・退場のときに、後輩や保護者がざわざわし、「やってやったぜ」と、僕は思った。
とまあ、なかなかウケた。と思っているが、中には気分を害した親御さんもいらしたことだろう。ふざけてしまい、すみませんでした。謝恩会と間違えました。皆様の寛容さに感謝しています。
僕にはその後、お咎めはなかったが、1年後の卒業式のときは職員会議で問題視され、「式にふさわしい、良識ある服装で参加するように」と、生徒に伝えるようになったそうだ。「あんまりリベラルに寄ると、ああいうのが出るから気をつけましょう」と、言われたかどうかは聞いていないが。
「式には式にふさわしく」そりゃそうだ。「らしい、ふさわしい」は、高校生なら分かるでしょう。それを敢えてズラすから、おもしろい。でも、それは敬意を欠いているのです。大人になった今の私は、「公」も重んじる、保守的な考えも身につけました。安心してください。履いてますよ。
僕のように、自由の意味を勘違いした生徒がいたとして、先生たちは「それはふさわしくない」と言えば良いのだろう。いつでも若者はバカを発揮し、先生たちはそれに向きあって、諌めて欲しい。
というわけで学生のみなさんへ、エルビスより。
詩人の谷川俊太郎が言うように、若いのだから、いつもはネクタイなんてしめなくていい。でも式では、ネクタイをしっかりと締めるんだ。そして式が終ったら、そう緩めて。ここからは、パーティの時間だぜ。
あなたの暮らしに気楽時間
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権威の失墜
「オレの話を聞け 5分だけでもいい」クレイジー・ケン・バンド
権威の失墜が起こっている。偉そうにしていた支配者たちが去っていく。誰も言うことを聞かない。校長先生の話は短くなり、SNSでは揚げ足取り合戦だ。
いやー、恐ろしいと思う。私も、若い頃は大人や権威あるものたちに対し反抗心があり、パンクやリベラルを気取っていた。「常識や権威を疑え」という社会学の基本姿勢も好きだった。
今でも、それらは私の根幹にはあり、「偉そうな押し付け」は嫌いだし、無批判に従うのは良しとしない。物理学者のファインマンと共に言うなら「destruct experts(専門家を蹴散らせ!)」だ。
だがしかしである。おっさんが進んだのもあり、最近は「伝統」や「慣習」、「畏れ」や「敬い」なども大事だと感じるようになった。権威が失墜した世の中は、端的に嫌だ。
「王様は裸だ」と指摘するのは、子どもの役目だ。そして、その裸の王様に服を着せるのが、大人の役目だと思う。
完璧な大人、完璧は指導者、完璧な権威などない。部分的には「裸(自分で気づいていない欠陥)」がある。
それを見て見ぬふりをするのではなく、それを指摘してバカにするのではなく、うまく服を着せ、王様の役目を果たしてもらうのが、必要ではなかろうか。
権威は権威で役割があると思う。世の中が、ある程度うまく行くために。伝統や慣習もそうだ。また、畏れや敬いが、調和に寄与している部分もあるだろう。それらは洗脳や押し付けではなく、昔からあり、受け継いできた知恵のはずだ。
反抗、批判、より良くなるために必要だろう。だが一方で、調和や平衡のための「ほどよい権威の構築」も、必要だと考える。我々が共同体として、この先も共に生きていくのならば。
先祖、天皇、先生、父親、大人、それらの権威を取り戻すのだ!よし、差し当たっての自分の役目は、父親としての権威を高めることだ!
「おーい、かあさん、ビールもう一本!は、自分で取りに行きます」
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整体の功罪とは
制度でも、産業でも、人間が作り出したものに「八方良し」を求めるのは、なかなか難しいと思う。
例えば「入試制度」「税制度」や「自動車産業」「放送・通信業」などについて、必要性は十分に理解が得られる。しかし、過剰、つまり「いきすぎ、やりすぎ」になると、「入試制度の問題」「自動車産業の問題」という感じで、厄介事もまた生まれる。
世のため、人のため、となることから始まったものも、両手を上げて称賛できるものは、なかなかない。加熱しすぎた入試、増えすぎた車、それらが生み出した負について、一言ある方も多いだろう。
そんなわけで、何かについてその負の側面を指摘するのは、割とたやすい。だが、大人ともなれば、それよりもう一歩先に進めてかっこつけたい。
そんなときに便利な言葉が
「功罪あるからね」だ。
ただ一方的に批判を加えるのではなく、良い面や恩恵にも目を向ける。「消費税が悪いって言うけど、まあ功罪あるからね」という感じだ。
そう言われると「何?消費税が諸悪の根源だと思っていたが、良いところもあるのか?」と考えるようになり、議論が深まる。かもしれない。
また、マスメディアや芸能が叩かれやすい昨今だが、「功罪あるからね」と言えば、それらから受けてきた恩恵を、思い出すこともできる。かもしれない。
というわけで、物知り顔で「まあ、功罪あるからね」を言っておくと、一方的な意見とならず、嫌われにくくもなるし、なんと言うか無難だ。
賛成なのか反対なのかはっきりしない、ずるい態度。ヒートアップしている相手から視線を逸らし、遠い目をして言うのがポイントだ。
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Let's go 2025
「のろまなこのオレも 少しずつだけれど学んできたよ まだまだ終わらない」
スピッツ ルキンフォー
去年の年始の自分のブログを読むと、なかなか頭でっかち気味、気合い空回り気味、の感がある。何とかして、自分の拠り所を固めたい感じだったのを思い出す。
あの頃は「理念・根拠・実際」のうちの理念と根拠が弱いから、実際がうまく行かないように思っていた。しかし、春からの訪問リハビリを始めたことによって、否応なく「実際」に多く時間を費やすことにより、理念や根拠を考える時間が減った。
そして、実際に身を置くことで、そこから理念や根拠を再確認したり、塗り直すことができた。もちろん「これで良いのか?」という迷いは今でもあるが、以前より揺れなくなったと感じる。
「私はこういう思いでやっとります」とか「施術や介入の根拠はこうです」とか、説明するのは、もちろん大切だ。それに加え「実際にどうなるのか」それを感じ取って頂くことが、そして、感じ取って頂いたことをこちらが感じ取ることが、仕事を進める上で更に大切だと思う。
訪問リハビリでの利用者さんとのやりとり、父親を看取ったこと、今までになかった実際が経験となり、気楽に屋での私の施術も変わったと思う。そしてそれは、リピーターの方が増えてきたことに、つながっているように感じる。
今年も引き続き本や動画から学びたい。そしてまた、実際からも多く学びたい。学びとは新しいことを取り入れることでもあり、また、今までのことを再確認することでもある。 実際とは、自分と相手との相互作用から生まれるものだ。
「相手のお役立ちができれば支持される」そう思う。そしてそれは、難しいことだ。だが、相手の気持ちに応えようとしながら、自分の思いを伝えることも続けたい。そしてそれが、ビジネスとして成り立つようにしたい。
今年1年で明確な結果が出ることだろう。なるべく、何かのせいにしないでやっていきたい。
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輝く!気楽にブログ大賞2024
今年も「気楽にブログ」をお読み頂き、誠にありがとうございました。惜しくも「みうらじゅん賞」へのノミネートは逃しましたが、来年こそはと考えております。
というわけで、アクセス数と独断で選んだ2024年の気楽にブログ大賞を5つ発表します。未読のものがあれば、ぜひ気楽にお読み下さい。
・二重スリット実験と少子化問題に関する一考察 https://kirakuniya.jp/diary/103527
・誹謗中傷かっこ悪い https://kirakuniya.jp/diary/128524
・けがない https://kirakuniya.jp/diary/92324
・恋は水色 https://kirakuniya.jp/diary/100890
・楽観的 たまに https://kirakuniya.jp/diary/134659
☆気楽にブログ大賞2023はこちらから https://kirakuniya.jp/diary/89342
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