気楽にブログ
父とボスと最後にジョー・ペシ
映画:ブロンクス物語
高校か大学の頃にレンタルして観た映画だ。確か「レナードの朝」でロバート・デ・ニーロを知り、その流れで観たように思う。
舞台は60年代のアメリカ・NY、ブロンクスという地区の話だ。
冒頭からとにかく音楽が良い。ドゥーアップから始まり、アップテンポの60’sが流れ、中盤ではビートルズの「come together」も流れる。私の青春時代は90年代だったが、60年代の音楽をその頃に好んで聴いていたので、とても心地よい。
イタリアン・ギャングが力を持つ街で、そこに住む親子を中心に話が進んで行く。酒や賭博、銃、といった危険が隣にある生活の中で、主人公は父親(ロバート・デ・ニーロ)、ギャングのボス(チャズ・パルミンテリ:脚本も)、手下、主人公と同年代の不良、と関わりながら成長していく。
この前久しぶりに観たら、自分が父親役と同じくらいの年になったこともあり、彼の言葉や行動に興味がわいた。
父親(デ・ニーロ)の仕事はバスの運転士で、ギャング一味とは関わらないようにしている。きっかけからギャングのボスに息子が気に入られ、これを機に仲間入りを誘われるが、断っている。息子は段々とボスに惹かれて父親から離れ、ギャングや同年代の悪いやつらとつるみだす。そんなときでも、完全に息子を止められはしないが、自分の考えを、言葉や態度で示し続ける。
この父親の流されない強さは、ブレない信念は一体どこから来るのだろう?不正や暴力にノーと言えるのは、正義感があるからだろうか。恐怖を感じ、圧力をかけられたら、普通はそれに屈してしまうのではないか。
背景としてあるのは信仰心、そして先祖からの教えであるようだ。「良いおこないをして生きる」ということ、「祖父もそうして苦労し、だが、正しく生きてきた」というのが、拠り所となっているように描かれている。
主人公は自分の父親とギャングのボスという、いわば二人の父親の考えから影響を受ける。彼は二人の父親の生き方や考え方の違いが分かるし、対立するものとして捉えている。だが最後に「どちらも、自分の味方ということで一致していた」ことを、知る。
私は、自分がこんな父親になれるのかな、ということを考えた。
圧力や誘惑や恐怖に抗って、自分の考えを示せるのか。その拠り所はあるのか
子どもに「働くやつはばかだ」と言われても、黙々と自分の仕事ができるのか
子どもが悪影響となるだろう人と付き合い出しても、「ある程度の仕方なさ」を許容できるのか
などなど
「大人になったら分かる」そう言いながら、言葉で説明すること、姿勢を見せることを続ける。黒人女性とつきあうことには難色を示すなど、保守的・頑固な面はあるけれど、かっこ良い父親だと思う。どうせ他の人の影響も受けるのだから、そしてその方が良いだろうから「自分は自分の考えを、子どもに伝えれば良いかな」と思った。その「自分の考え」が、今の私にあるのかないのかわからないのだけれど。
最後に、
副題が「愛に包まれた街」だが、今回見返したら、その意味がちょっと分かった気がした(差別と暴力がたくさんあるけれど)。
あと、最後に出てくるジョー・ペシの存在感が強め。おすすめ!
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bring it back to me
最近、科学の本を読んでいたから、考えが合理的になってしまいそうだ。思い出して、揺り戻さないと。
明日から一泊で伊豆旅行だ。いざ、ゆかん。の一コマ。
「おとまり楽しみー」と娘。「そうだろう、パパも楽しみだ。よし、持ち物の準備だ」と私。
着替えや水着を詰め込む私の隣で、娘もお出かけ用のリュック何やら詰めている。「おお、自分で準備しているのか?なんて良い子だ!」と親バカな私。
だが、見てみると、バッグに入れているのは、わりと大きい手鏡、わりと大きいぬいぐるみ、ぬいぐるみの枕としてのクッション、色鉛筆(紙はない)、よくわからない蓋、などなのであった。そう、
使うかどうかと、持っていきたいかどうかが違う。のだ。
私は娘のリュックがパンパンになり、チャックが閉まらないのを、手伝ってあげた。それはたしかに合理的な準備ではなかったし、ぬいぐるみの他は結局、出かけた先で使うことがなかった。
だが、娘が嬉しそうにバッグに入れているときに「それはいらないでしょう?」とは言わなかったパパの私は、それで良かったと思っている。だって、
必要か必要ではないか、役に立つか立たないかは、そのときその場で変わるから
価値があるかないかなんて、本人次第のこともあるから
「これはムダ」なんてすぐに言う大人には、なって欲しくないから
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全然大丈夫です
前回の「素敵なイケオジ」と「ベリーベター」に関する違和感について書こうと思う。まず、イケオジというのは素敵なおじさんという意味だろうということで、素敵な素敵なおじさんということになってしまう。美しい美人とは、あまり言わないだろうから、やはり変だろうということになる。だが、男の中の男という表現があるように、イケオジの中でも特に素敵なおじさん、ということを表したいなら、「素敵なイケオジ」も使用可だろうと考える。
そう、初めのうちに書いておくと、私は色んな表現の仕方があっても楽しいと思う。
さて、立場を明確にしたところで次の「ベリーベター」だ。これは気になったので調べたら、better に付けるのはveryではなくmuchのようだ。「より(更に)、より良い」と表現したいときはmuch betterだ。覚えておくことにしよう。「モア・ベター」もバツのようだ。じゃあ、very much betterは良いのだろうか?thank you very muchと言うし。面倒なので調べないが「とっても更により良い」と言いたいときがあれば、使うことにしよう。
このように英語でも日本語でも「名詞」がどんな人や物であるかを表すのに、形容詞や副詞がくっついてくる。どれが名詞でどれが形容詞・副詞なのかを探ることで、文意を得る。長文読解で培ったこの基本理解は、言葉の意味を知るうえで、役に立つ。そうだ、英語を学んできた我々に、若者言葉はこわくない。例を挙げよう。
すごくすごくない?
これを理解してみよう。「すごくすごい事である」ということに同意を求めているのは分かる。だが、「すごく」と「すごく」が同じなので、説明するのは難しい。「怖くこわくない?」と言われているのに近いのではないか、と思ってしまう。だが、ここで英語を思い出すと、すごくすごいは「very nice」と言えそうだ。おお、なるほど。これなら形容詞が副詞で強められているのだな、と分かる。
(余談だが、すごいはniceというよりはwonderfulではないか?という気もするだろう。調べたらvery wonderfulとは言わないようだ。wonderfulに強めの意味がすでに込められている、というのが理由らしい。強調したいときは so wonderful と使うようだ)。もう一つ例を挙げよう。
やばくやばくない?
問題ない。慌てずに考えよう。冷静になれば、これも形容詞を副詞で強めているのだな、ということが分かる。
このように、日本語や若者言葉を理解するために、英語学習が役に立つことが分かった。AI時代だって、外国語学習は大切だ。と思いたい。だって、高校のときにあんなに英単語ターゲットで勉強したんだし。
よし、若者言葉は、学んできた英語で理解できる。
もうこれで、「めっちゃ全然大丈夫だ」
あなたの暮らしに気楽時間
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天才科学者は「こう考えてはいかが?」と教えてくれる
今回も科学と私というテーマで書いてみたい。個別の知識が覚えられなくても、理論の理解が至らなくても、科学の基本となる考え方は、生きていく上で有用だ。私にそう思わせてくれた本が「天才科学者はこう考える」ダイヤモンド社 だ。
読む前は、天才科学者たちがブッ飛んだことを言ってるのを期待し、そのクレイジーさを苦笑いし、自分のついていけない感を楽しもうと購入した。
しかし、繰り返し読むうちに、エッセーの中のエッセンスが少しずつ自分に染みてきた。これは、最新の知見を紹介しているだけの本ではない。天才科学者たちは謙虚に、優しく、教えてくれている。「感情だけではなく、理性も大事にして生きてみませんか」と。
このようなエッセーで読める科学の本は、私のような科学苦手、科学懐疑、といった考えを少なからず持つ人たちに、読まれると良いだろう。高校で「科学」の授業として、生徒たちに輪講させたりレポート書かせたら、教科書の学びにプラスになると思う。
「科学はおもしろく、そして有用だ。」
ド文系の私がそう思えるようになってきたのは、この本のおかげがある。では、本書を頼りに科学の考え方で「有用だな」と私が思うことを挙げてみる。文言はまるごとの切り抜きではないので、注意されたい。
・主観を排除するのは難しい
・科学理論は仮定。変わる可能性がある
・エピソードは理論にならない。が、吸引力がある
・名前をつけると分かった気になる
・批判や懐疑も必要
・真実を見つけているのではなく、近似の連続によるモデルを構築している
・再現性を重視せよ
・原因は一つではない。しかし、要因の可能性は探れ
より妥当な判断 失敗が小さい判断 のために。
ベターな結果のためのベターな選択の繰り返し。検証して訂正していくことの繰り返し。
私が整体という仕事をしていく上でも、生活をしていく上でも、上記したことは有用だ。つまり、役に立っている実感がある。勉強って何の役に立つの?と聞かれたら、先程書いた「ベターな結果のためのベターな判断ができる」と今なら言える。
例えば私がお客様の施術をするときも、自分が何でそうするのか説明するときの根拠となる。今どうなっていて、こうなりそうだから、これをしていく、という判断を助けてくれる。そしてそれは、結果を見たり新しく知識を得たりして、変えてもいける。
自分の気持ちが大事だ!直感に任せてGoだ!今日の気分次第だ!というのが実は好きな私だが、感受性も合理性も、うまい具合に併せ持って生きていきたい。それが素敵な大人、素敵なイケオジだろうと思うから。つまりベリーベターだから。あれ、言葉なんか変かな。
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科学と私
恐竜や宇宙のワクワク感は、小学生のときの自分にあったのを覚えている。だが、中学生で思春期を迎える頃には段々とひねくれだし、
「人の心が科学でわかってたまるか」
「これ以上科学技術を進歩させて、良いことなんかない」
などと思うようになった。青さ全開で恥ずかしい限りだが、今でもこの2つは時折思うこともある。ただ、今だと「科学アプローチで人の心(脳)を説明できることもある」や「科学技術を発展させることによって問題を生み出すが、また解決も提示できるかもしれない」と言えるようになった。
中・高の話に戻ると、自分の関心が「人間」や「気持ち」に移る中で、物体が斜面を転がってどこまで飛ぶかということは、「まあどうでもいいかな」という感じになっていった。それよりは「羅生門」「山月記」「舞姫」「こころ」の主人公の考えや行動の方が、自分が生きていくためのヒントをくれそうだと思った。「自分がどれだけ遠くに飛べるかは、質量や高さに依らない。大事なのは気持ちだ!」みたいな。
と、書いてみたが、実際は暗記で通用していたものが高校で通用しなくなり、点数が取れない言い訳として「興味がないから」「やっても意味がないから」としていたようにも思う。
そして、私大の社会学部に入り、統計を毛嫌いし、かっこつけてカミュやモーパッサンや志賀直哉あたりの文庫本を読み、卒業した頃には、アンチ科学とは言わないまでも、科学あんまり好きくない青年になっていた。「科学が正義」や「科学で未来がバラ色」と考えている科学者は実際には少ないのだろうが、自分で勝手に作り上げ、遠ざけていた。
その後、医療系の大学に入り、自然科学を学ぶことになったが、意欲的に学んだことはなかった。「ああ、人生で何が必要になるのかわからないもんだな」ということは分かったが、「おもしろい」とか「大事」とかはあまり思えなかった。むしろ、人間をデータに置き換えて記述することに違和感があり、やはり学び直しても好きにはなれなかった。
自然科学をしっかり学んでこなかった、理解してこなかったというinfeority complexは、統計処理を用いた卒論を書き終えても拭えず、エビデンスという言葉にも、反発を覚えたままだった。仕事の現場ではカルテは書いてもデータを取ることはなかったし、理学療法士の研究論文も興味は出なかった。
という私だが、今では自然科学が「おもしろい」とか「大事」とか思えるようになった。ブログでも関連することを書いている。何でそうなったのか自分で疑問なので書いてみたい。が、今日はやめておく。何故ならもうお昼の時間だから。何故なら気楽に屋だから。
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