気楽にブログ
よし、帰ろう
何年か前の家族旅行の話。
よし、夏休みは海に行こう。小さい娘に、海の楽しさを知ってもらおう。伊豆なら温泉もあるし、お魚もおいしいだろう。ということはお酒もおいしく飲めるだろう。
ネットで宿を吟味して予約し、水着や浮き輪を買い、あれこれあれこれ楽しいだろうことを想像し、その日を迎える。
そして、いざゆかん!朝から妻も娘も楽しそうだ。よしよし、いい感じだな。玄関先で、もう写真を撮ってみる。「行ってきますの図」だ。
そして道中。車の中でハイテンションな娘。「もうはしゃいでいるのか、着いたらもっと楽しいぞ」と私。幸い天気も晴れすぎなくらい、晴れている。真っ青な空と海が眼前に広がるのを想像し、それを見た娘の喜ぶだろう姿を思い浮かべる。
だがしかし。途中で寄った道の駅で娘が言った「なんか暑い」。まあ、夏だしな。暑いわな。と思うが、少し元気がなさそうなので、一応体温計で測ってみる。
「37.8℃」
「まじか!いや、計測ミスかもしれない。朝は違ったし。」もう一度お願いします。
「38.2℃」
。。。明らかに熱発でございます。
「ちょっと30分くらい休んでみようか」すぐさま引き返すことができない私。
ここまで来たのに。海、温泉、食事。そして当日の宿のキャンセル代。得られるだろうものがするりと滑り落ち、しかもマネーが羽をつけて飛んでいく。。
「海に行けないの?」半泣き状態になる娘。
「とりあえず、行ってみたら良くなるかも」などと考えてしまう私。
だが、娘の顔は明らかに赤くなっており、調子が悪そうだ。父親として決断のときだ。
「今日は帰ろう。また来れるから」自分にも言い聞かせるように、妻と娘に伝える。
「やだー、おうちかえりたくないー。うみいくー」と泣き出す娘。妻は、私が帰る決断をしたことに、ほっとしているようだ。もし、私が行くと言い出したら、全力で止めていたことだろう。
「せっかくここまで来たのだから。ちょっと無理してみようかな。うまくいくかもしれないし」と思うことはある。だが、未来に大事なものはなんだ?と、冷静に捉えて決断できる父親に、私はなりたい。
そう、映画アポロ13のときのトム・ハンクスのように。月面までもう少し、となったときに「帰ろう」という決断ができるのは、本当に大事なものがわかっているからだ。
私はといえば「あー、お刺身食べたかったなー」と帰りの運転中に心の中で思ってしまう、しようもない父親だ。刺し身ではなくて娘の具合を心配しなくてはいけないのに。
そして。散々泣いたあと、娘は眠ってしまい、家に着いたらその日は熱が高いまま。とても海で遊べる状態ではなかった。無理に連れて行ってたら、えらいことだった。
娘が大きくなったら、そのときのことを聞いてくるかもしれない。そうしたらかっこつけて、こう言おう。
「月に着くことより、無事に地球に帰るほうが大事だからね」
刺し身が惜しくてすぐに帰る決断をしなかったことは、もちろん内緒だ。
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どっちもどっち
「二重スリット実験」についてもう一度トライしよう。さすがに前回のは怒られて、私がやっているハイボールのCMを、降板させられるかもしれない。
さて、意味のない心配は置いておき、私が二重スリット実験で腑に落ちないのは「一つ打った粒子が、両方のスリットを通っていると考える」という点だ。
光は波でも粒子でもなく「量子」であることを受け入れた。波が干渉を起こすことは分かった。観測が対象を動かしてしまう事も分かった。結果が確率分布で表せることも納得した。観測によって波の性質を見ようとしたら波になり、粒の性質を見ようとしたら粒になるのもOKだ。
だがしかし。「干渉した」ということは、スクリーンに当たるときに粒ではなく「波」として当たったということでなないのか。つまり、一発ずつ光子を打つ、ということが「そもそもできない」のではないか、と考えた。粒子として飛ばすことはできず、必ず波でもあると。粒子を一発ずつ打ってたつもりが、光の干渉の実験と同じことをしていたのではないか?
と、私の理解(誤解)は、今のところここまでだ。私には「確率の波が通る」というのは、よく分からない。概念ではなく「何か実体のあるものが通っている」はずだと思う。私は高校で物理は脱落したが、散々「物体」について学んできただろう理系の高校生は、大学でのこの量子力学の考えを、すんなり受け入れられるのだろうか。
先程「分かる」とか「受け入れた」とか書いたが、野村泰紀さんによれば「腑に落ちるかどうかでない」「式で表せ、未来が記述できて整合性があれば、それは【分かった】」ということのようだ。私はどうしても「肌感覚でわからないと気持ち悪い」と思ってしまうが「人間の認知が追いつかない、捉えられないことがある」というのが、科学者の指摘なのだ。事実それを受け入れて、量子テクノロジーの進歩は目覚ましいようだ。
一方で岡潔は小林秀雄との対談で「感情の満足なしでは数学は存在し得ない」と言っている。数学でさえも、人間の感情を入れないと成り立たないという主張をする。矛盾がないといって「矛盾がないと思うのは感情だ」というのだ。
アインシュタインもシュレーディンガーも、量子力学の世界を受け入れがたく思っていたとの話もある(私が見ていないとき、月は存在していないのでしょうか)。というわけで、もちろん事実を認めて先に進むのはいいけれど、人間の感情を置き去りにしてしまっては危ういのかも、と思う。野村先生が映画「オッペンハイマー」を勧めておられた。やはり、人間や感情を置き去りにしたテクノロジーの進歩が、悲劇につながり得ることも、知っておかなくてはいけないのだろう。
さて、テクノロジーは置いておき、量子力学の考えを、自分の仕事や生活に近づけてみよう。これは、福岡伸一さんが書いてくれている。
「人生の出来事は因果的に起こったわけでもなく、予め決定しているわけでもない。共時的で多義的な現象が、たまたまそのように見えているにすぎません」動的平衡2のあとがき
量子力学はミクロの世界の話だが、自分の世界もそうかもしれないと思うと、おもしろい。あるのは自由と可能性。どちらも選べる、もしくはどっちも通っている。切り取り「見た」その瞬間は「その有り様」として現れるが、またすぐ先に「可能性と自由」がある。
このときの自分、このときの自分、様々な色で点々をつけ、描かれた「自分の人生の画」を最後に見てみたら、きっといかようにも解釈できるのだろう。
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二重スリット実験と少子化問題に関する一考察
私は「ようすけ」という名前なのだが、小学校のときに「ようすけべ」というあだ名がついたことがある。とってもとっても嫌だった。だが、いまはおじさんなので「すけべ」は、わりと好きだ。
話は変わるが「量子力学」は、私の人生と無縁だと思っていた。だが、どんなものか概要くらいは捉えておきたいな、という欲が出て、学んでみることにした。
しかし、これが難しかった。式がどうとか、用語がどうとかという前に、現象の説明が腑に落ちないのだ。
特に「二重スリット実験」が、有名な実験のようだが、野村泰紀さんやヨビノリタクミさんの動画を繰り返し観ても、どうにも分からない。
本当は気楽に屋の集客について考えなくてはいけないのに、二重スリット実験が気になってるなんて「何をやっているんだ」という感じだが、ついに昨日、夢にまで出てきた。
夢の中で何故か私は白衣を来て、「二重スリット実験」をしようとしているのだ。夢の中であるものの、私にはこれが夢だということが分かった。そして「夢のお告げ」「寝ているときに謎が解けてしまう」というような、高揚感があった。なにか「ものすごい気づき」を得て、ついに私も天才科学者の仲間入りか?
と、わくわくしていたら、出てきたのはシュレーディンガーではなく、博多華丸だった。
彼は言った。
「スカートとスピーチは短いほうがいい」
私はこう答えた。
「スリットは2つより4つくらいあったほうがいい」
そしてそこで、スリットの多いチャイナドレスが出てきた。
。。何と言うか、自分でも唖然としてしまった。こんな夢を見るなんて、ことによると「自分は本当におばかさんなのかもしれない」と、久しぶりに本気で思った。
どうも私の頭の中は、科学の思考をしたがらないようだ。オヤジギャグ、今ならハラスメントになってしまうようなことしか、思いつかない。
でも、いいんだ。ナイツの塙さんや華丸さんや、ロバートの秋山さんなら慰めてくれるだろう。
だってスケベが排除されていったら、その先は少子化に決まってるでしょう?
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光る雲を突き抜け fly away
鳥山明さんが亡くなったニュースは、驚きと寂しさを私にもたらした。私の子供時代を楽しくしてくれた彼に、感謝を示したい。
ニュース記事や動画を追っていたら、彼に対する追悼が、世界中で行われたことを知った。私と同年代のおっさんたちが、涙を浮かべながら哀悼の意を示している姿に「仲間感」を禁じ得ない。
私は孫悟空のフィギュアを棚に飾るほどのファンではないが、中学で部活にのめり込む前は、毎週の「ドラゴンボール」の放送を楽しみにしていたのを覚えている。子どもの頃のマンガ・アニメの世界の中での自分の感情の揺れは、それ自体が体験・経験だったように思う。ワクワクやドキドキといった楽しさを、強く感じられる年頃に、彼の作品が周りにあってくれて良かった。
新たな作品は生まれないが、残された作品は永遠だ。でも、作者が亡くなったことによる、この喪失感は何だろう?作品のキャラクターたちもどこかに行ってしまうような、そんな錯覚があったのは何故なのだろう。
海外の動画を見ると、英語では亡くなったことを「passed away」と表現することを知った。自分の眼の前を通り過ぎ、どこか遠くへ行ってしまうイメージなのかもしれない。
自分がいる世界から誰かがいなくなってしまう。だが、消えてしまうのではなく、遠くに行った先に、その人は「いる」のだと、私は考えたい。
もう一つ海外の動画で良く目にしたのが「R.I.P」という表現で、rest in peace の略のようだ。in ということで、やはりどこかに「いる」ことがわかる。
作品でしか彼のことを知らない私は、悲しさや悔しさより、感謝を思う。そして、安らかに、と願う。
これから先、私が知っている多くの人たちが、遠くへ行ってしまうことになるのだろう。そして、私自身もいつの日か、passed awayするのだ。
どこかへ行くと思えば、その先でまた皆に会えるかな、と思う。でもその前にもう少し、何かしら残してから行きたいな、とも思う。
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マイ気楽ワード トップ3
この「気楽にブログ」では、皆様に気楽な時間をお届けしたいと、常々考えている。そこで今回は改めて、気楽になるための「気楽ワード」について、ご紹介していこうと思う。
私のおすすめ気楽ワードのトップ3は
「にんげんだもの」あいだみつを
「だっふんだ」志村けん
「これでいいのだ」バカボンのパパ(赤塚不二夫)
の3つである。これらを南無阿弥陀仏のように、とにかく唱えることが肝要だ。
「気楽である」の否定は「気楽じゃない」で、言葉で言うと「緊張を強いられる」「間違えられない」「結果が重要」といった状況や、そのときの「心の持ちよう」だと思う。
人生・生活において、ずっと気楽ではいられない。資格試験中に「だっふんだ」と唱えて緊張を取ろうとしても、恐らくうまくいかない。
だが、もっと「気楽な時間」が多くても良いと思うのだ。休み時間や放課後は、授業時間より多いはずだ。でも、なぜか「気楽じゃない時間」が長くなってしまう。
この3つの言葉は、ひらがなだ。ひらがなは漢字より「気楽だ」まあ、私の感想だが。そして3つの言葉とも、自分を肯定してくれる。
がんばったけどうまくいかなかった。思いが相手に伝わらなかった。偶然いやなことが起きた。そして、やる気がおきずにサボってしまった。
そんな自分の「ダメさ」が出てしまうときに、「そんなときもあるよ」と励ましてくれる。それがこれら3つの気楽ワードだ。それは「逃げ」にもつながるだろうが、逃げだって大切な選択肢だ。
何が得か、何が善か、何が正しいか。不確かな中で、より安心・安全を求める気持ち。もっとがんばらなくてはいけないのではないか?より良くなくてはいけないのではないか、と焦る気持ち。傷つくことも傷つけることも恐れながら、頼れる拠り所はなかなか見つからない。
そんな日々の生活の中で、自然や宗教や推し活が、自分の迷いを減らしてくれるかもしれない。そしてそれらに加え、やはり自分の体に頼むのが良いと思う。疲れを感じたらそれは休もうということなのだ。眠くなったら寝ようということなのだ。嫌だと思ったら、嫌だと言えばいいのだ。頑張りたいなら頑張ればいいけれど、体がそうでないなら「今はそのときではない」
というわけでこんな感じ。
なんかうまくできない!だっふんだ!休憩だ。
今日は気楽にちょっと本屋でも。あとついでにラーメンも。にんげんだもの。
そうそうそう。これでいいのだ。
あなたの暮らしに気楽時間
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