気楽にブログ
縄跳びが見つからない
幼稚園や保育園と小学校の違いの一つに、「予定・持ち物」があると思う。「明日は何があるのかを確認し、そのために持っていくものを準備する」親がしていたことを子ども自身がすることは、大きな変化だろうと思う。
子どもにもよるだろうが、自分の子を見ていると、5歳になれば「明日は豆まきがあるの」と、予定について話すことがある。また、ハンカチなどいつもの持ち物なら、自分で準備できるものもある。
だが、「あー、明日は図工でペットボトル使うから、家から持っていかないとな」とか、「雨の次の日だから、新しい靴で行くのはやめておこう」という思考は、小学生になってからだと思う。普段と違うことを把握し、いつもと違う準備をするのは、難易度が高い。
そして、明日何があり、そのために何を持っていくのかを考えるというのは、大人になってからも、ずっと必要なことだ。予定のための準備。小学生は日々の生活で、これから生きていくための合理性を養っていく。
これを促すのが、親が直接送り迎えをしないという状況だ。上の娘が小学生になって気づいたが、小学校では、先生と親との直接のやり取りが減る。もう一つは、文字を覚えるということだ。子どもは「予定・持ち物」を自分で書き、自分で準備する必要に迫られる。文字が書けるということは、予定や持ち物を思い出すために必須だ。
もちろん、まだまだ親の促しや確認が必要になるが、文字を使い、自分で予定からの準備を考えていくことで、自立心が育っていくように思う。このように「送り迎えと準備の2つが、親から離れていく」のが、子どもが小学生になるタイミングなのだろう。
実際には「まだ宿題やってなかった」とか「明日なわとび持っていくんだった」とか、急に言いだし、親とともに慌てて解決を試みることも、しばしば起こる。そして、予定からの準備を怠ることで不利益を被ることを繰り返し、「これは困るなあ」と学んでいっている。だろう。
親としてはそんな我が子を見、「こうやって大人になっていくんだね」と、成長を感じるとともに、子どもらしさが少なくなっていくことに、一抹のさみしさもある。「パパ、鍵持ったの?」と言ってくれるのは、大変助かるのだけれども。
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半開きにした口が塞がらない
「まじめにふざける」宮沢章夫さんを真似して書いたエッセイです。気楽にお読み下さいませ。
最近you tubeを見ていたら、きれいなお姉さんが英語を教えてくれるという番組を発見した。これは甚だしく幸せだ、つまり幸甚だということで、すぐさまチャンネル登録をして聞き入っている。というか、見入っている。こうやって惚けていてリスニング力が上がるかどうかは大いに疑問だが、私のお店はインバウンドとは無縁そうだし、まあいいか。
と思って口を半開きにして視聴していたところ、次のような例文が出てきた。
I have butterflies in my stomach
初めて目にする表現だった。そして、これは私の興味を引いた。この表現に対する訳がこうだ。
「ドキドキする」
これはおもしろいと思った。私がこの文を直訳するなら
「私は胃の中に蝶々を飼っています」だ。
いやいや、ピロリ菌ならいるかもしれないが、さすがに蝶々はいないだろう。そして、これが何故「ドキドキする」を表すのか、気になる。私のイメージでは、胃の中で蝶々が飛び回っているのと、ドキドキ感が結びつかないのだ。
そう考えると、I have butterflies in my stomach の表現は「比喩」より「慣用句」に近いのだと考えられる。慣用句は、言葉の情景を思い浮かべるのではなく、その意味するものをそのまま覚えてしまうのが良い。
例えば日本語でも「足が棒のようだ」というのは比喩で、イメージとして意味することが捉えやすい。だが、「足を洗う」となると、慣用句だ。そのままのイメージでは、意味することと結びつかない。「オレも、もうそろそろ足を洗わないと」と言われて、意味を知らなければ「え、毎日洗おうよ」と返してしまうかもしれない。
このように慣用句は英語であれ日本語であれ、説明するときは「こういうものだから」でいくしかないと思う。例えばこう聞かれたら困るのだ。
「目くじらを立てる」って何ですか?
いや、わからないのだ。「目くじら」がどんなクジラなのか。そして、それは立てるものなのか、そして、それが立ったら一体どうなるのか。
あなたの暮らしに気楽時間
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父とボスと最後にジョー・ペシ
映画:ブロンクス物語
高校か大学の頃にレンタルして観た映画だ。確か「レナードの朝」でロバート・デ・ニーロを知り、その流れで観たように思う。
舞台は60年代のアメリカ・NY、ブロンクスという地区の話だ。
冒頭からとにかく音楽が良い。ドゥーアップから始まり、アップテンポの60’sが流れ、中盤ではビートルズの「come together」も流れる。私の青春時代は90年代だったが、60年代の音楽をその頃に好んで聴いていたので、とても心地よい。
イタリアン・ギャングが力を持つ街で、そこに住む親子を中心に話が進んで行く。酒や賭博、銃、といった危険が隣にある生活の中で、主人公は父親(ロバート・デ・ニーロ)、ギャングのボス(チャズ・パルミンテリ:脚本も)、手下、主人公と同年代の不良、と関わりながら成長していく。
この前久しぶりに観たら、自分が父親役と同じくらいの年になったこともあり、彼の言葉や行動に興味がわいた。
父親(デ・ニーロ)の仕事はバスの運転士で、ギャング一味とは関わらないようにしている。きっかけからギャングのボスに息子が気に入られ、これを機に仲間入りを誘われるが、断っている。息子は段々とボスに惹かれて父親から離れ、ギャングや同年代の悪いやつらとつるみだす。そんなときでも、完全に息子を止められはしないが、自分の考えを、言葉や態度で示し続ける。
この父親の流されない強さは、ブレない信念は一体どこから来るのだろう?不正や暴力にノーと言えるのは、正義感があるからだろうか。恐怖を感じ、圧力をかけられたら、普通はそれに屈してしまうのではないか。
背景としてあるのは信仰心、そして先祖からの教えであるようだ。「良いおこないをして生きる」ということ、「祖父もそうして苦労し、だが、正しく生きてきた」というのが、拠り所となっているように描かれている。
主人公は自分の父親とギャングのボスという、いわば二人の父親の考えから影響を受ける。彼は二人の父親の生き方や考え方の違いが分かるし、対立するものとして捉えている。だが最後に「どちらも、自分の味方ということで一致していた」ことを、知る。
私は、自分がこんな父親になれるのかな、ということを考えた。
圧力や誘惑や恐怖に抗って、自分の考えを示せるのか。その拠り所はあるのか
子どもに「働くやつはばかだ」と言われても、黙々と自分の仕事ができるのか
子どもが悪影響となるだろう人と付き合い出しても、「ある程度の仕方なさ」を許容できるのか
などなど
「大人になったら分かる」そう言いながら、言葉で説明すること、姿勢を見せることを続ける。黒人女性とつきあうことには難色を示すなど、保守的・頑固な面はあるけれど、かっこ良い父親だと思う。どうせ他の人の影響も受けるのだから、そしてその方が良いだろうから「自分は自分の考えを、子どもに伝えれば良いかな」と思った。その「自分の考え」が、今の私にあるのかないのかわからないのだけれど。
最後に、
副題が「愛に包まれた街」だが、今回見返したら、その意味がちょっと分かった気がした(差別と暴力がたくさんあるけれど)。
あと、最後に出てくるジョー・ペシの存在感が強め。おすすめ!
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bring it back to me
最近、科学の本を読んでいたから、考えが合理的になってしまいそうだ。思い出して、揺り戻さないと。
明日から一泊で伊豆旅行だ。いざ、ゆかん。の一コマ。
「おとまり楽しみー」と娘。「そうだろう、パパも楽しみだ。よし、持ち物の準備だ」と私。
着替えや水着を詰め込む私の隣で、娘もお出かけ用のリュック何やら詰めている。「おお、自分で準備しているのか?なんて良い子だ!」と親バカな私。
だが、見てみると、バッグに入れているのは、わりと大きい手鏡、わりと大きいぬいぐるみ、ぬいぐるみの枕としてのクッション、色鉛筆(紙はない)、よくわからない蓋、などなのであった。そう、
使うかどうかと、持っていきたいかどうかが違う。のだ。
私は娘のリュックがパンパンになり、チャックが閉まらないのを、手伝ってあげた。それはたしかに合理的な準備ではなかったし、ぬいぐるみの他は結局、出かけた先で使うことがなかった。
だが、娘が嬉しそうにバッグに入れているときに「それはいらないでしょう?」とは言わなかったパパの私は、それで良かったと思っている。だって、
必要か必要ではないか、役に立つか立たないかは、そのときその場で変わるから
価値があるかないかなんて、本人次第のこともあるから
「これはムダ」なんてすぐに言う大人には、なって欲しくないから
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全然大丈夫です
前回の「素敵なイケオジ」と「ベリーベター」に関する違和感について書こうと思う。まず、イケオジというのは素敵なおじさんという意味だろうということで、素敵な素敵なおじさんということになってしまう。美しい美人とは、あまり言わないだろうから、やはり変だろうということになる。だが、男の中の男という表現があるように、イケオジの中でも特に素敵なおじさん、ということを表したいなら、「素敵なイケオジ」も使用可だろうと考える。
そう、初めのうちに書いておくと、私は色んな表現の仕方があっても楽しいと思う。
さて、立場を明確にしたところで次の「ベリーベター」だ。これは気になったので調べたら、better に付けるのはveryではなくmuchのようだ。「より(更に)、より良い」と表現したいときはmuch betterだ。覚えておくことにしよう。「モア・ベター」もバツのようだ。じゃあ、very much betterは良いのだろうか?thank you very muchと言うし。面倒なので調べないが「とっても更により良い」と言いたいときがあれば、使うことにしよう。
このように英語でも日本語でも「名詞」がどんな人や物であるかを表すのに、形容詞や副詞がくっついてくる。どれが名詞でどれが形容詞・副詞なのかを探ることで、文意を得る。長文読解で培ったこの基本理解は、言葉の意味を知るうえで、役に立つ。そうだ、英語を学んできた我々に、若者言葉はこわくない。例を挙げよう。
すごくすごくない?
これを理解してみよう。「すごくすごい事である」ということに同意を求めているのは分かる。だが、「すごく」と「すごく」が同じなので、説明するのは難しい。「怖くこわくない?」と言われているのに近いのではないか、と思ってしまう。だが、ここで英語を思い出すと、すごくすごいは「very nice」と言えそうだ。おお、なるほど。これなら形容詞が副詞で強められているのだな、と分かる。
(余談だが、すごいはniceというよりはwonderfulではないか?という気もするだろう。調べたらvery wonderfulとは言わないようだ。wonderfulに強めの意味がすでに込められている、というのが理由らしい。強調したいときは so wonderful と使うようだ)。もう一つ例を挙げよう。
やばくやばくない?
問題ない。慌てずに考えよう。冷静になれば、これも形容詞を副詞で強めているのだな、ということが分かる。
このように、日本語や若者言葉を理解するために、英語学習が役に立つことが分かった。AI時代だって、外国語学習は大切だ。と思いたい。だって、高校のときにあんなに英単語ターゲットで勉強したんだし。
よし、若者言葉は、学んできた英語で理解できる。
もうこれで、「めっちゃ全然大丈夫だ」
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