気楽にブログ
ボールは友だち
ゼルビア町田が強い。何とJ1で首位だ。私は小学生の頃にキャプテン翼に影響を受け、地元である町田の、サッカークラブに行っていた。その頃は、クラスの半分以上の男子は、サッカークラブに所属していた気がする。
私はサッカーがド下手であり、見切りをつけて中学校からテニスを始めた。サッカーはそれ以来、日本代表戦をテレビで応援するくらいだが、なにせ地元が町田なものだから、町田ゼルビアは応援している。
といっても、ゼルビアの試合を見ることはなく、結果を知るくらいだ。そして、どうやらゼルビアは「勝つためのプレーに徹している」らしい。
このあたりは、「ラフプレーが多い」「面白みに欠ける」などの批判も受けるようだ。
私としては、サッカーやラグビーのような体をぶつけ合う「コンタクトスポーツ」は、激しさがあるものだと思う。ただ、ケガのリスクは当然上がるだろうし、勝利至上主義だけでは危ういだろうな、とも思う。
チームを指揮するのは監督であり、試合を楽しむのは観客である。プレーするのは、もちろん選手だ。なるべくケガなく、なるべくフェアに、でも、なるべく激しく。競技としてもエンタメとしても、それぞれの立場からの希望や要求、好みにより、サッカーも変わっていくのだろう。
勝利のためには、監督の作戦が実行できるマインドと、強靭なフィジカルが必要だ。しかし、「美しく勝つ」ためにはやはり、「創造性」がプラスで必要で、その要素が消えてしまうことはないように思う。人々がマシーンではなく、ファンタジスタも見たいと願う限りは。
サッカーは全世界で人気だし、欧州や南米では熱狂的な感じだろう。と思ったら、FIFAの会長は、サッカー人気の低迷に危機感を持っているらしい。サッカーは、1部のコアなファンのものになっているようだと。
なんだ、それなら私に相談してくれればいいのに。勝つためにどうすれば良いかは分からないが、試合を面白くするアイデアならあるから。
例えばこういうのはどうだろう。
「ボールを2つにしてみる」
プレーする方も、見る方も、これは大変だ。「お前、そっちだ」「いや、こっちが手薄だ」など、それは目まぐるしい展開となるだろう。フォーメーションから作戦、その場の思いつきも必要になってくる。きっと得点も増えるだろう。
想像しただけで面白そうなのだが、ボール2つでするサッカー。どうだろうか。え、選手同士がぶつかって、危ない場面が増える?うん、確かにそうかも。
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Old Fashion
我々はまだ、進化の途中だ。科学技術が、思想文化が、芸術やスポーツも、これから更に、新しい形態となっていくだろう。
そう、今までだって少しずつ変化してきた。それは何かしらの意図があったのか、偶然だったのか分からないが、ともかく変わり続けてきたのだ。
より便利に、より効率的に、より公平に、より楽しく、そんな未来があるのだろう。
「それはもう古いよ」
若者たちに、そう言われるのは良いことだ。変化は必然であり、継続している証でもあるのだから。
「昔があったから今があるんだよ」
などと、したり顔で諭すのはやめておこう。まして、
「昔の方が良かった」
などと、言うのはかっこ悪い。
最新のモノ、新しい考え、速報のニュース、今までと少しずつ変わっているそれらを、新しい人たちが作り出し、享受していくのだ。古典が嫌われるのは、当たり前だろう。
と、理解ある大人を示しておきつつ、自分はYouTubeで昔の音楽ばかりを聴いている。
この前たまたまアレサ・フランクリンを聴いて、ぶったまげた。
自分にとって初めてなら、それは自分にとって新しい。例えそれが、60年前の作品だとしても。
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聞こえてはいます、でも
何かを知る・知らせるために有効な手段として、「音」がある。音が聞こえるからこそ、危険を察知できるし、また危険を伝えることができる。
例えば、良くあるマンガのシーンだ。イカダに乗って秘境の川を下っている。動物たちの鳴き声に混じり、ゴゴゴゴ、ザーッという音が聞こえ出す。「まずい!この先は滝だ!」
または、映画で良くあるシーンだ。監獄からまんまと脱獄し、最後の塀を越える人影。サーチライトが照らされ、けたたましいサイレンが発動される。ウー、ウー、「脱獄者発見!」
このように、知るためにも、知らせるためにも、「音」は有効だ。ここで、日常を考えてみると、音が危険を知らせていることが多いのは、交通の場面だろう。クラクションやサイレン、「バックします」という音声、または車の走る音そのものも、危険を知る・知らせるために有効だ。
というわけで、音はリスク回避のために、とても便利だ。しかし、私はどうにも電子音、警告音、の類が苦手だ。書きたいのはその話だ。
例えば、冷蔵庫を閉め忘れたときに鳴る、あの「ピー」という音。本当に嫌だ。「こっちは卵を割ったあとの指のネバネバを、洗い流しているところなのだ。今すぐに扉に触れたなら、卵のネバネバ&水が、お前(冷蔵庫)につくぞ」と言いたくなる。
電子レンジもそうだ。控えめに「ピピピ」という音だが、「分かってる、ごはんを解凍したのは、忘れてないから。今この即席味噌汁の味噌が、袋から変な感じで飛び出したんだよ。これ拭いたら開けるから。ちょっと待ってくれよ」と、言いたくなる。
しかし考えてみると、私はこのような警告音そのものが嫌いというよりは、「自分が今していることを中断し、直ちに他のことをすることを強いられること」が、嫌いなのかもしれない。
もしかしたら、たとえピーという音が不快な音だったとしても、それが休み時間の始まりを示す合図だったり、好きな子からのメールの通知だったら、嫌ではない気がする。
逆に、不快な音ではなくても、自分の行動を強いられるようなものは、嫌なのだろう。昔、広末涼子の声で起こしてくれる目覚まし時計を使ったことがある。「ねえ、起きてよー」の声は心地よかったが、ちっとも起きられなかった。
あなたの暮らしに気楽時間
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クリーンな人
年若い頃の私は、漠然と「善い人」になりたいと思っていた。だが、嘘をついたり色欲がある自分は、「善い人」になかなかなれず、苦しかった。今思うと青臭いというか、微笑ましいが、自己嫌悪することもあった。
それから少しずつ、ふてぶてしくなり、嘘にも抵抗が少なくなり、今ではすっかり「おっさんwith欺瞞」というような存在となってしまった。世の中の不正に対して、昔はよく憤っていたが、自分自身の歩みを振り返ると、とても人のことは言えないな、という感じになっている。
なんと言うか、今では人にも自分にも、あまり期待していない。というのは、博愛を信じたい気持ちの一方で、「善い人」になる難しさも実感しているからだ。嘘も不正も堕落も痴情も、すぐそばにあるし、ホコリのようにすぐに服についてくる。
そのホコリのようなものはついてくるから仕方なく、染みになる前に振り払うか、多少の染みなら受け入れるしかない。どこかでついたホコリかもしれないが、自分がそういう場所に行ったからついたのだろう。
または、ホコリで出来たかと思った染みは、自分自身の油から出来た染みなのかもしれない。汚い世の中だ、といって自分がきれいなわけではもちろん、ない。
このように、なるべくなら身奇麗にしていきたいが、いつもキレイではいられないものだ。
そうだとしても、戒めの恐怖でもなく、人の目からの圧力でもなく、自然と自分を律することは可能だろうか。「善い人」になりたい、という気持ちのみで「善い人」に、今からなれるだろうか。
ふむ、むふ。「おっさんwith欺瞞」の自分には厳しいのでは、とすぐに諦めようとした。が、諦めたらそこで試合終了なので仕方なく空を見上げたら、5月の空が青かった。クリーンだった。
今日で私は46歳になりましたおめでとう自分。
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良くも悪くも
テレビを見なくなって久しい。新聞も取っていない。だが、ニュースは気になるので、ヤフーニュースやXを見ている。各ニュースに対するコメントの投稿も気になり、読んでいる。
以前から「街の人の声」として、ニュース番組の街頭インタビューはあった。だが、それらは流す側の選別を受けていたし、内容も、当たり障りのないものが多かったように思う。
新聞には「読書からの声」欄があった。街頭インタビューよりは「個人の意見」の色が濃かったが、投書→掲載のタイムラグがあり、鮮度が低かった。
今では自分の知らない人のコメントが、すぐに、編集されずに、読める。また、そのコメントに対するコメントも、次々に読める。称賛にしろ、反発にしろ、自分と同じ意見があると、嬉しいものだ。また、ニュースに対する自分の意見を決めかねるとき、同調できる意見を探すこともできる。
かくして我々は、流れてくるニュースに対して、素早く何らかの判断をし、意見を持つことに追われていく。以前なら、そのニュースそのものの事実の理解に、時間をかけていた。しかし今は、そんな時間はない。ニュースとコメントをサッと読み、自分の意見をgood かbadの判断から素早く作り上げて、処理していることが多い。
ニュースに関心を持ち、それに対して自分の意見が言える。社会人の基本なのだろう。だが、「あまりに多く・早い判断をしていると、当然間違いが増える」気がする。
それに加え、ニュースもコメントも読んでいると、多すぎて疲れてしまう。だから私は、読む時間を減らしたいなと、思うようになってきた。といって、大谷翔平の試合結果は逐一チェックしてしまうのだが。彼の活躍に対する皆さんのコメントを読むと、更に良い気分になれるのです。
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