気楽にブログ
この夏にお勧めのエンタメ本
夏休みと言えば読書だ。普段、ビールを飲んで動画ばかり見ているおっさんの私だが、子どもの手前もあり、かっこつけてみようと思う。そう、自分の中では読書=知的でかっこいい。という図式があるのだ。
よし、スマホは隣の部屋に置いてきた。さてさて、何を読もうか。ここはやはり文学作品だろう。「文豪」にチャレンジしていこう。私大の文系出としては、「あー、芥川ね。彼の晩年の作品はうんたら」くらいは言えるようにしておきたい。「あー、リーマン幾何ね」と言うのは、土台無理なので。
芥川は、河童も歯車も読んだことないからな。どれどれ。。うん、ちょっと自分には早いかな。ある阿呆の一生って、コメディかと思ったけど、ちょっと違うみたいだな。
というわけで、芥川は早々に断念し、いや、引退後の楽しみに回すことにした。短編は読みやすいが、さすが文豪。豪傑に挑むには、こちらも気構えが必要だ。
それならば、夏目か、三島か、谷崎か、志賀直哉か。引きこもり時代のコレクションを漁っていたら、出くわした。
「中島敦」
おお、高校のときに「山月記」を授業で読んだな。そして、この文庫本はいつ買ったか分からんが、きれいだな。ということで読んでないな。
どれどれパラパラパラ。
こ、これは!中島敦と言えば、中国物。を連想するけれど、彼の作品はそれに留まらない。例えば「文字禍」という作品の出だしはこうだ。
「アッシリア人は無数の精霊を知っている」 え、漢文は一体どこへ?
かと思えば詩もある。
「早口のポパイが如き濁声(だみごえ)を 土曜の午後に聞けば楽しき」 え、私生活?というかどんな状況?
まさに縦横無尽。マルチタレント。宮沢賢治に近い多才性。だが、文豪からはみ出す、一種のエンタメ性がある。自ら楽しんでいるような、読者を楽しませるようなところがある。
この夏は、「中島敦全集 ちくま文庫」で決まりだ。カバーの装画は、土方久功だ。中国とパラオが混在してて、クラクラさせてくれる素敵な本だ。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
かっこいいとはこういうことさ
おれも、50歳に近づいてきた。このままだと「ちょっと変で、ちょっとおもしろいおじさん」になりそうだ。というか、なっている。
それはそれで、望んでいた姿なのだが、違う形も追い求めていきたい。
そう、そろそろ、かっこいい男になりたいと思う。
かっこいい男になるには、かっこいい男とはの「定義」や「具体例」が欲しい。
考えてみたが、定義はかっちりと決まらない。よし、まずは具体例を出していこう。そこから帰納していけば、定理や公理が導かれるだろう。
かっこいい男の例:
反町隆史、竹野内豊、三井寿、剣桃太郎、やはりこの4人が四天王だろう。漫画のキャラが二人いるが、気にしないで進もう。
この4人の共通点を探れば、「かっこいい男の定義」が決まるはずだ。あとは、それを真似れば、おれもかっこいい男になれる。
この4人の共通点は、、、うむ。
「フッ」をかっこよく言えることだな。
よっしゃよっしゃ。早速「フッ」をかっこよく言う練習だ。少し口元を緩めながら、認める余裕を持ちながら、しかし自分の意思は曲げないで、「フッ、まあいい」
できてきた、できてきた。やっぱりかっこよく言えれば、かっこよくなれそうだ。かっこいい人が言うから、かっこいいのではなくて。
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6/28同窓会
<友人の話を聞いて構想中の演劇>
例えば、高校時代の同窓会があって、自分が好きだった人に会えたとする。そして、「昔も今も好きだな」と思えたら、それは素敵じゃないか。以下、男が書いて、まだ出せていない手紙。
世の中が、人々が、こうあって欲しい。そう君が思っても、なかなかそうはいかなかっただろう。
でも君は、せめて自分だけは、「自分が希望する世界にふさわしい人」であろうとしてきたのだろう。
生きていくうえで、それはきついことだと思う。理不尽な出来事や人を前に、どうやって折り合いをつけてきたのだろうか。確かさや正しさを求めて、それが揺らいだときに、どう納得したのだろうか。
希望を持たず、期待をしない。真面目さを放棄する。そんなことで、僕は大人になった気でいた。でもそれは、諦めだったり嘘だったのだ。
久しぶりに話をして、君がまだ、希望や真面目さを持っていることを感じて、素敵だと思った。
疲れてはいるのだろうけど、今でも輝く優しい瞳が、あの頃と同じように、僕を惹きつけた。
過去も未来も変えられなくて、どうにもならないけど、つい「もし」を考えてしまった。そのあと気を取り直して、とにかく自分の心の中に、今日のこの場面を残そうとした。
こんな気持ちになれたこと、その嬉しさだけで僕はいいんだ。そして君には、君のおかげで嬉しい気持ちになれる人がいることを、知っておいて欲しい。
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学び直し小1算数
おじさんの学び直しが流行っているらしい。私も、学生の頃は算数や数学が苦手だったけど、もう一度勉強してみようかなと、たまに思う。
というわけで森毅さんの本を読んで知ったのだが、数には「順序数」と「集合数」というのがあるらしい。以下、私の理解(誤解)を示す。
何番目の数か、というのが順序数で
何個あるか、というのが集合数だ。
こんな区別、私は今まで考えたことはなかったが、娘の小1の算数の教科書を見ると、小学校ではまず、順序数を教えていることが分かる。
例えば列があって、ハナコさんは前から5番目です。7番目の子は誰でしょう?という具合だ。これが順序数だ。数は増えていくが、着目されるのはn番目の「地点」であって、総量ではない。
これに対して、袋の中に飴玉が7個あります。というのは集合数だ。ここで着目されるのは総量、多さ、であって、特別に7個目に着目しているわけではない。
順序数と集合数は、足し算をするときに、その違いがより見えてくる。
例えば順序数の見方の足し算で、すごろくを考える。すごろくで、スタートから5マスのところから、4マス進むとする。そのとき、操作としては、すでに5があり、そこからプラス4することになる。
着目はやはり、進んだ9の地点となる。なるほど、スタートからすれば9進んでおり、ベクトルの加法として見れば、総量は増えている。だが、9番目という地点がどこかということに関して言うのなら、総量は気にしなくて良いだろう。
これに対し、集合数の見方の足し算は、Aの袋に入った2つの飴と、Bの袋に入った3つの飴を、お皿に出して、合わせていくつあるか数える。これは全部でいくつあるか、個数(量)に注目している。
この2つの違いとして、例えばすごろくの例では5+4が、4+5でも良いことはわかりにくい。しかし、飴玉だと2+3でも3+2でも同じ、という交換法則が分かりやすい。
また、すごろくは3マス、という概念を入れずに+3という「操作」に結びつきやすい。一方、飴玉はどうしても「個数」の数え上げとなり、数字が記号となりにくい。かもしれない。
個数でばかり考えていると1/3個、と分数が出てくると、途端に理解が難しいように思う。日常と関連させていくのは算数の良さだが、操作できる記号として、数を扱えるようになることも、学びが進めば必要となってくる。
うーむ、簡単だと思っていた足し算こそ、数の基礎なのだな。小1の算数の教科書を前に、唸る私なのであった。
たまには気楽に学び時間
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
太陽の欠片
大阪万博が開催されている。色々と問題もあるようだが、「未来への期待」「ワクワク感」が感じられたら、とても良いと思う。
さて、前回の大阪万博と言えば、岡本太郎の太陽の塔だろう。私は生まれてはいなかったし、実物を見たことはないが、異形と言えるその造形は、アートに疎い私にも興味を持たせるものだった。
他にどんな作品があるのかなと思い、岡本太郎の本を読んでみると、作品だけでなく、彼の言葉にも心惹かれた。例えば
「自分を貫く苦しい生き方をすると、自分が燃え上がる。そうすると人生は芸術になる」と書いてある。
passiveからのpassion 苦しみを受け入れてから情熱が生まれ、持ち続けると芸術になるようだ。私は人生を芸術に、とまでは熱く生きられないが、太郎のエッセンス、太陽の欠片はもらっておきたい。
開業する前は「自分はこうやりたいのに」とか、仕事に文句を言っていた私だが、今は言い訳をせず、自分の思いを基に、仕事が出来ている。「労りの普及が、自分のやるべきやりたいことだ!」と、開業から2年経っても、開業当初と変わらずに、言うことが出来る。寧ろ気持ちは強くなっている。
期待通りの応えがなく、自分の不甲斐なさに悲しくなることもある。だが、まずは受け入れて進めたい。
「苦しくても、自分を貫いて続けていきたい気持ち、すなわち情熱が私にはあるのだ!!」
と、自分を昆布。じゃなくて鼓舞。
いつも心に太陽を 情熱で、バクハツだ
サン(sun)仲村
