気楽にブログ
はちみつ食べに行こうよ
自己紹介をするとき、またはどんな人かを知りたいとき、「何が好きか?」というのは、どんな人かを表すのに、とっかかりとしての役目を果たす。
例えば、私の子どもが行っている保育園で「お誕生日会」というものがあり、その会の中でインタビューの時間があるのだが、そこでは「〜ちゃんの好きな動物は何ですか?」とか、「〜くんの好きな色は何ですか?」と聞くのだそうだ。
大人になれば「パンダが好きです」とか「群青色が好きです」とかの情報は、あまり重要ではないかもしれない。だが、「好きな歌手」や「好きな映画」もしくは「好きな戦国武将」あたりを聞けば、「ははあなるほど、このような人かも知れないな」ということを、推測することができる。
そして、大人でも子どもでも共通して盛り上がるのは「好きな食べ物は何か?」だろう。「ラーメン」でも「カレー」でも、または「お菓子」でも、「私も好きです。おいしいですよねー」とか「おすすめあります?」という具合で仲良くなれたりする。子どもでも、給食で「〜くんの好きなぶどうだね。私の少しあげるよ」などと、微笑ましい光景があるかもしれない。
というわけで、自分が何が好きなのか、特に食べ物で何が好きなのかは、よく把握しておく必要がある。それを伝えることによって、相手との距離が近づくかもしれないからだ。
そう、婚活だって有利に進めることができる。困ったら食べ物の話。これが王道だ。そして共通したものがあれば、一緒に食べに行く、というデートにつなげていける。
しかし、いい大人が「好きな食べ物はカレーです」では、浅い。カレーの種類にも色々あるし、お店もたくさんあるし、おいしく食べられる時間もそれぞれ違う。
「自分、カレーは早朝に食べるのが好きで。具材はじゃがいもが必須。豆が入っているのはちょっと。最初にルーだけ1/3食べる派かな」
くらいは語れるようになりたい。なんせ好きな食べ物なのだから。
あとは女子はあいつら大体スイーツが大好きだから、その辺りも押さえておこう。
「おれはさ、クリームブリュレ。の上のカラメル。を、パキッとこう、スプーンで割って舌で溶かすの。そんでそれから、おもむろにクリームかき込み。カラメルが思いの外とがってて、口の中で刺さったりするけど、別に気にしないね。」
とりあえずこれくらいは語れるように準備はしておけ。健闘を祈る。
あなたの暮らしに気楽時間
整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
エシカル始めました
前回は突然ethicalと書いて、「お、さてはおぬし、人文系の本を読んでいるのか?」と思わせてみた。が、実はたまたまyou tubeで哲学者マルクス・ガブリエルのインタビュー(字幕あり)を観ただけで、いつもの知ったかぶりぶりであることを、白状しておこう。
インタビューの中で彼は「ethical captitalism(倫理資本主義)」について語っていた。彼によれば、倫理を重視した企業が、これからビジネスで成功していくことになるという。
以前から企業体には社会的責任というものが課され、例えば「環境に優しい」つまり「エコである」ことは、消費者から他社より選ばれ、結果として利益が上がるという流れがある。
このエコ重視がエシカル重視に拡大されていくことで、資本主義は搾取や格差という現存する問題を、改善することができるのだろうか。
そういえば、環境破壊を進めるような企業や産業に対し、消費者が不買運動を起こすように、低賃金労働など、不当な搾取をしている企業にも、不買運動が起こっていると聞く。
人々がエシカルであることに価値を見出し、企業はエシカルであることを目指すとするなら、閉塞感漂う資本主義にも、ハッピーな未来があるかもしれない。どこかのスローガンのように「やっているフリ」や「結局は儲け主義」にならないか、という懸念もあるが。
あと、インタビュアーが「エシカルかどうかの基準はあるのか」とか「エシカルでない場合はペナルティを課すべきか」など、質問していた。それに対してマルクス・ガブリエルは、誰もが納得するような倫理(善きこと)というのは存在し、そうでないものは淘汰されると語っていた。
このあたり、随分と楽観的だな、と私は感じたが、略奪・拷問・差別の歴史を紐解けば、世界全体の倫理は、良い方へと向かっているのだろう。
というわけで、気楽に屋としても他を出し抜くため「エシカル整体」を、いち早く掲げていこうと思う。「差別をしない、搾取をしない、高い回数券を売りつけない整体サロン」おお、これはとてもエシカルだ。きっと時代の流れに乗って、選ばれて行くに違いない。大儲けだうっしっし。
という、動機が不純で行動が善の場合は、はたしてエシカルなのだろうか。教えてガブリエル。
整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
誹謗中傷 カッコ悪い
「弱い者たちが夕暮れ 更に弱い者を叩く」ザ・ブルーハーツ
SNSにおける誹謗中傷について。「気楽にブログ」には投稿機能がないこともあり、今のところ気楽に屋には、誹謗中傷が届いたことはない。だが、そのうち有名になれば「理学療法士が開業するんじゃねえ、ボケ」とか、「手当て整体?インチキでお金儲けですか?」とか、「偏見にまみれたブログが心底気持ち悪い」といった類のものが、届くのかもしれない。
前に書いたように私は既に「おっさんwith欺瞞」なので、真面目を装いつつ、人の悪口を言うのが大好きだ。特に他の整体院の「広告文」に関してしゃべり始めると、止まらなくなる。「骨盤矯正でダイエットって、本気で言っているのかな?」などなど、嫌味たっぷりだ。
色んな方が書いているように、誹謗中傷の背景には「嫉妬」や「憂さ晴らし」があるように思う。他の人がキラキラしているとき、人々の称賛を受けているとき、羨ましく思ってしまうのだ。また、自分より弱くしかも悪い人がいたら好都合で、安全な位置から正義の名のもとで叩くことで、報われない(と思い込んでいる)自分を慰めるのだ。
私が他の整体院の口コミを読んで、「椎間板ヘルニアがそんなにすぐ良くなるなんてあるかい!」とか、悪態をついてしまうのは、自分ができないことや高評価を受けていることに、嫉妬しているからだと思う。
また、自分のお店が儲からないのを「景気が悪いからだ」「消費税が諸悪の根源だ」「つまり政治家が悪いからだ、この☓☓☓野郎が」とするのは、それらは弱い立場ではないが、「悪しきもの」という私の決めつけをすれば、十分に責任転嫁ができるからだと思う。
そんなわけで、自分も人も悪口を言ったり言われたり、誹謗中傷したりされたりがある。
だからまあ仕方ないよね。ずっとあった人間の感情が、可視化されやすくなっただけだよ。
で、終わりにしたくもないので、改善策を考えてみる。
私が思いつくのは、昔、サッカーの前園選手のポスターで「いじめ、カッコ悪い」というやつだ。当時は、「うわ、ダサ。何このポスター」と思ったが、わりとあれは「効いた」ように思う。
「かっこ悪いからしない」そういう動機づけは、ethical(倫理的)であるために有効な気がする。子どもの頃に、私を含めみんなで一人をからかっていたとき、「お前らやめろよ」と言ったやつがいた。今思うと、そいつは本当にかっこよかったと思う。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
多義性ありきで
漢字は意味を表してくれるから便利だ。例えば「勝負」という単語は、「勝」と「負」から出来ているので、「ああ、勝ちと負けがあるものなのだな」と理解できる。
だがここで、「勝負」が「勝」と「負」だけで出来ていると考えてしまうのは、不十分だ。「勝負」という文字をよくよく見てほしい。拡大鏡で見たならば、勝と負の間に、うっすらと文字が見えてこないだろうか。
そう、勝(喜怒哀楽)負、こんな文字が、実は隠れているかもしれないのだ。勝負がありました。の文には、単に勝った負けただけではなく、様々な「人の気持ち」が含まれている。
だから、勝負を勝(喜怒哀楽)負と書いても構わないと思う。寧ろこちらのほうが、よく意味を表していると思う。
そんなわけで、単語や漢字というのは、何かしら他の字が隠れている可能性がある。それをよくよく探し、しっかり見て行くことが、理解するには大事だ。
また「勝」にしても、いろんな勝ちがある。「努力が実って勝った」「相手を騙して勝った」「たまたま勝った」「正義だから勝った」「相手が棄権して勝った」
そして「勝」だけに関しても、色んな「気持ち」がある。「勝って嬉しい」「勝ったけど後ろめたい」「勝ってほっとした」「勝って虚しい」
そう考えると、言葉には実に色んな意味があり、どう解釈して理解するのかで、それぞれ「違う」ものとなる。
この違いを「多義性」と言う。違いがあるから、同じ言葉を使っても、同じ意味として伝わらない。それだと困るから、例えば数学では数学用の言葉を使う。数学の用語は、世界共通の言語となりうるようだ。
数学ではなく、「日常の言葉」を使って意思疎通を図るのは、なるほど難しいのだな、というのはよくわかる。だが、多義性はまた、豊かさや面白さでもあると思うのだ。
「世の中には色んな勝ちや負けがあるし、色んな気持ちがある。」勝負という字を読むときに、その多義性が増やせたら、オリンピックを観た価値があるだろう。
最後の一文は、なんか書きたいこととずれた気がするけど気にしないで投稿しようとしたけどやっぱり気になる。
整体サロン 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
オリンピックと8月6日
勝つと嬉しい。負けると悔しい。だけどきっと、勝負がもたらすものは、それだけではない。
ピアノコンクール、数学オリンピック、カーレース、映画祭、日本人や日本製が他国より優れているとき、私はすごく嬉しい。
それは当然のことであるように思われるし、悪いことではないだろう。だが、その優越感には、気をつけなくてはいけないとも思う。
応援してくれる人のために、相手より優れていることを示すために、人は競争するのだろうか。または、相手から奪うために、自分の地位を高くするために、人は勝ち負けを決めようとするのだろうか。
競争へと駆り立てるものは、沢山ある。勝負に勝つ嬉しさは、大きいものだ。
だからこそ、その危うさも知っておきたいのだ。
「他の誰かより自分が優れていると分かったとき、ものすごく嬉しい」
こう書くと、なんかイヤな奴だな、と思うことだろう。そう、そんな違和感も大事にして欲しいのだ。優越感に対する後ろめたさも、きっとあるはずだから。
争いが競争で収まるように、我々は工夫してきた。そしてこれからも工夫していく。
戦争にならず競争で留まるように。勝負の二文字には、実は色んな意味が隠れている。その多義性を、見ていこう。
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