気楽にブログ

2024-02-02 11:54:00

天才科学者は「こう考えてはいかが?」と教えてくれる

今回も科学と私というテーマで書いてみたい。個別の知識が覚えられなくても、理論の理解が至らなくても、科学の基本となる考え方は、生きていく上で有用だ。私にそう思わせてくれた本が「天才科学者はこう考える」ダイヤモンド社 だ。

 

読む前は、天才科学者たちがブッ飛んだことを言ってるのを期待し、そのクレイジーさを苦笑いし、自分のついていけない感を楽しもうと購入した。

 

しかし、繰り返し読むうちに、エッセーの中のエッセンスが少しずつ自分に染みてきた。これは、最新の知見を紹介しているだけの本ではない。天才科学者たちは謙虚に、優しく、教えてくれている。「感情だけではなく、理性も大事にして生きてみませんか」と。

 

このようなエッセーで読める科学の本は、私のような科学苦手、科学懐疑、といった考えを少なからず持つ人たちに、読まれると良いだろう。高校で「科学」の授業として、生徒たちに輪講させたりレポート書かせたら、教科書の学びにプラスになると思う。

 

「科学はおもしろく、そして有用だ。」

 

ド文系の私がそう思えるようになってきたのは、この本のおかげがある。では、本書を頼りに科学の考え方で「有用だな」と私が思うことを挙げてみる。文言はまるごとの切り抜きではないので、注意されたい。



・主観を排除するのは難しい

 

・科学理論は仮定。変わる可能性がある

 

・エピソードは理論にならない。が、吸引力がある

 

・名前をつけると分かった気になる

 

・批判や懐疑も必要

 

・真実を見つけているのではなく、近似の連続によるモデルを構築している

 

・再現性を重視せよ

 

・原因は一つではない。しかし、要因の可能性は探れ



より妥当な判断 失敗が小さい判断  のために。

 

ベターな結果のためのベターな選択の繰り返し。検証して訂正していくことの繰り返し。

 

私が整体という仕事をしていく上でも、生活をしていく上でも、上記したことは有用だ。つまり、役に立っている実感がある。勉強って何の役に立つの?と聞かれたら、先程書いた「ベターな結果のためのベターな判断ができる」と今なら言える。

 

例えば私がお客様の施術をするときも、自分が何でそうするのか説明するときの根拠となる。今どうなっていて、こうなりそうだから、これをしていく、という判断を助けてくれる。そしてそれは、結果を見たり新しく知識を得たりして、変えてもいける。

 

自分の気持ちが大事だ!直感に任せてGoだ!今日の気分次第だ!というのが実は好きな私だが、感受性も合理性も、うまい具合に併せ持って生きていきたい。それが素敵な大人、素敵なイケオジだろうと思うから。つまりベリーベターだから。あれ、言葉なんか変かな。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2024-01-31 11:38:00

科学と私

 

恐竜や宇宙のワクワク感は、小学生のときの自分にあったのを覚えている。だが、中学生で思春期を迎える頃には段々とひねくれだし、

 

「人の心が科学でわかってたまるか」

 

「これ以上科学技術を進歩させて、良いことなんかない」

 

などと思うようになった。青さ全開で恥ずかしい限りだが、今でもこの2つは時折思うこともある。ただ、今だと「科学アプローチで人の心(脳)を説明できることもある」や「科学技術を発展させることによって問題を生み出すが、また解決も提示できるかもしれない」と言えるようになった。

 

中・高の話に戻ると、自分の関心が「人間」や「気持ち」に移る中で、物体が斜面を転がってどこまで飛ぶかということは、「まあどうでもいいかな」という感じになっていった。それよりは「羅生門」「山月記」「舞姫」「こころ」の主人公の考えや行動の方が、自分が生きていくためのヒントをくれそうだと思った。「自分がどれだけ遠くに飛べるかは、質量や高さに依らない。大事なのは気持ちだ!」みたいな。

 

と、書いてみたが、実際は暗記で通用していたものが高校で通用しなくなり、点数が取れない言い訳として「興味がないから」「やっても意味がないから」としていたようにも思う。

 

そして、私大の社会学部に入り、統計を毛嫌いし、かっこつけてカミュやモーパッサンや志賀直哉あたりの文庫本を読み、卒業した頃には、アンチ科学とは言わないまでも、科学あんまり好きくない青年になっていた。「科学が正義」や「科学で未来がバラ色」と考えている科学者は実際には少ないのだろうが、自分で勝手に作り上げ、遠ざけていた。

 

その後、医療系の大学に入り、自然科学を学ぶことになったが、意欲的に学んだことはなかった。「ああ、人生で何が必要になるのかわからないもんだな」ということは分かったが、「おもしろい」とか「大事」とかはあまり思えなかった。むしろ、人間をデータに置き換えて記述することに違和感があり、やはり学び直しても好きにはなれなかった。

 

自然科学をしっかり学んでこなかった、理解してこなかったというinfeority complexは、統計処理を用いた卒論を書き終えても拭えず、エビデンスという言葉にも、反発を覚えたままだった。仕事の現場ではカルテは書いてもデータを取ることはなかったし、理学療法士の研究論文も興味は出なかった。

 

という私だが、今では自然科学が「おもしろい」とか「大事」とか思えるようになった。ブログでも関連することを書いている。何でそうなったのか自分で疑問なので書いてみたい。が、今日はやめておく。何故ならもうお昼の時間だから。何故なら気楽に屋だから。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2024-01-24 11:34:00

おぬし寝返ったな

「他に方法はないんだよ 待ってたんじゃだめなんだよ」ザ・ハイロウズ

 

「What if I fail ? I can always try again」英文問題集 旺文社

 

ヒトが生まれてから歩き出すのは、大体1年くらいかかる。その過程を観察してみると、出来るようになっていく不思議さと合理性が見て取れる。総じて、「自分も頑張ろう」と思えてくる。何とも安易な結論を書いてしまったが、今回は頭を持ち上げる・寝返るまでにスポットを当てて書いてみたい。

 

以下、教科書と外れている記述があるかもしれません。時間の経過もいい加減です。読み物としてご了承下さい。

 

私の場合、一人目の子のときはとても「観察」などという余裕はなかった。まず第一に「お世話」があり、なんとも目まぐるしくしているうちに、子は歩けるようになっていた。

 

二人目の子のときは経験から慣れて「余裕」があったので、人がどのように歩くようになるのかを観察してみた。一応大学で「人間発達学」の履修をしており、知識としては多少あったが、実物からは、より多くの気づきが得られた。

 

まず、赤ちゃんは仰向けで手足をバタバタさせている。特に足の曲げ伸ばしが力強い。初めは反射の要素が大きいので、意思で動かしている感じは少ないだろうが、「手や足は動くものだ」という知覚は、赤ちゃん自身に気づきや予感を与えるだろう。

 

ちなみに赤ちゃんに指を差し出すと握ってくるが、これは「把握反射」と呼ばれるものだ。もちろん、「それ、反射で握っているだけだよ」と、嬉しそうな妻に向かって私が言うことはなかった。敢えて言わなくても良いことは、色々とあるものだ。

 

赤ちゃんはしばらくバタバタしているだけだ。体幹はまったく動かない。この人が立ったり歩いたりする姿は、とてもじゃないが想像できない。どうやってこれから歩けるようになるのか、観察を続けることにした。

 

次に注目したのは頚部だ。頭を動かそうとするようになるのだ。どうやら仰向けで見える範囲のその先を「見よう」と色々やっているうちに、頚部の筋肉に収縮が起こり、運動学習につながっていくようだ。つまり、反射が大部分の状態から「自分の意思」が強くなっていく。「こちらを見ようとすれば頭が動かせる」これも大きな気づきだろう。

 

そして、自分で頭が動かせることが分かると、頭を持ち上げようとするのだ。これは私の考えとして、かなり大きなポイントだと思う。頭を動かしているうちに、持ち上がりそうだという予感がしたのだろうか?しかし、何のために?

 

頭を持ち上げようと頚部に力が入ると、腹筋の収縮も促される。全く動かなかった体幹が、動作に参加するようになる。「頭を動かそうとしたら体も動くじゃん!」ブレークスルーの瞬間である。

 

しかし、頚部と腹筋を使っても、真っすぐは起き上がれない。そこで体を捻っていく。するとどうだろう、何回かの試行のあとでコロンと横に転がった。「寝返り」である。頭はうつ伏せのまま上がらず、泣いている。放っておくか?いや、戻れなさそうだから手助けしよう。

 

そうだ、仰向けの状態だ。これが「安心・安全」の姿勢だ。このままで何も問題ないではないか。だが、この人は泣きやんだらまたトライするのだ。これが本当に不思議だ。今の安全を捨て「わざわざ」動いていく。「もっと違うものが見たい」「動きたい」この源泉となるものは一体なんだろう?

 

頚部に力が入る、腹筋に力が入る。頭と上体が持ち上がる。横向きになり、正中線を越えたなら、あとは自由落下だ。ぼふん。また寝返った。そして頭が持ち上がらずに泣いている。

 

また疑問が湧く。「なんでわざわざ」「こうなるでしょうに」

 

また、戻してあげる。泣き止む。寝返る。泣く。戻してあげる。泣き止む。寝返る。泣く。

 

「何でがんばるのだ?」「また泣くことになるのが、わからないのか?」健気なような、おばかのような我が子。

 

しかし、繰り返すうちに、頭が後ろにも持ち上がるようになったのだ。嬉しそうなとびきりの笑顔が見えた。

 

そして、このうつ伏せから頭が上がることは、ハイハイにつながっていく合理的な流れがある。頭が後ろに持ち上がれば今度は背筋が使われ、座位姿勢も取れるようになる。

 

できるようになると思って、無謀なチャレンジを繰り返していたのかは、わからない。だが、他に方法はないのだ。何もしなければ何も出来ないのだ。おばかなのは、私の方だ。



出来ることをしていたら、出来ないことが出てきた。

 

それでも何度もしていたら、出来るようになった。

 

そしてそれは、自分がしたいことだった。

 

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2024-01-19 12:23:00

悪いひとたち

免疫学者の多田富雄先生の本で読んだが、体は異物にはある程度寛容で、共存を探る。だが、ひとたび体全体にとって有害だと捉えれば、一斉攻撃を加えて排除する。生物のシステムとして、他者への「寛容さも攻撃性も」、両方デザインされ備わっているようだ。そして、このような体内での機構は、人間社会でも「受け入れと排除」「称賛と断罪」のような形で表れているように思う。

 

「こんな毎日をだるそうに過ごしている この毎日にとりあえず文句つける」ザ・フィッシュマンズ

 

「残酷性が高ければ高いほど週刊誌は飛ぶように売れる」ブランキー・ジェット・シティ

 

そう、何も今に限ったことではない。20年前だって週刊誌やワイドショーで「ネタ」は沢山あった。私たちはそれを見聞きし、「ねえ、知ってる?ひどいよねー」と、自分とは全く関係のない人たちのことを、もしくは自分とは全く関係のないかの如く、しかし自分がその人たちを断罪できることを当然として、仲間内の会話の盛り上げに使っていた。そして、お互いに共感し、「酷い奴」を攻撃することで、自分の安心を得ていた。

 

酷い奴は政治家だったり芸能人だったり、容疑者だったりと今と同じで、だが、昔と違うのは「酷さが発見されやすくなったこと」と、「攻撃が強くなったこと」だと感じる。

 

自分と無関係の人を攻撃するのも、(善い人である)自分とは関係ないと思うのも、少ない情報で人を断罪し排除するのも、多分普通のことなのだろう。そういう私もそうだから。

 

そしてもちろん、善し悪しの判断や、それを伝えて空気や制度にしていくことは、より良くなるためには必要だろう。不当に虐げられている人たちの力になることは、大切だと考える。

 

ただ、一方で、多くが明らかになっていない段階で断罪された場合、それが間違っている可能性があることを、忘れてはいけないと思う。また、断罪している相手のように自分はならないというのは、随分傲慢ではないかと、省みることも必要だと思う。

 

酷い奴や酷い事件が増えたのか、ただ単に発見されやすくなっただけなのかは、分からない。しかし、そういったニュースの総数は増え、それらに対して憤ることも増えているように感じる。目にする数が増えれば判断する数も増えるから、更に短絡的な「これは酷い」という結論も増える。そして、そういった結論が増えれば当然間違いも増える。そして、それらの間違った結論が発見されることも増えていく。酷い奴(とラベリングされた)への攻撃は強くなっていく。

 

と、このように一部、社会学っぽく書いてみた(タイトルはSNSで増す不寛容かな)が、もちろんこれは私の感想に過ぎず、なんのデータも示してはいない。「攻撃が強くなるって何だ?言葉と数字で説明してくれ。」というツッコミどころが満載だ。しかし、個別の事案に対して善い悪いを短絡的に付けていくだけではない、引いた視点は、たまには必要だと考える。自分、社会学の学士だし。

 

 

私も多くの人も、自分が善い人でありたいし、不当に不利益を被っている人たちを救いたいだろう。また、酷い奴にはそれ相応の報いを受けてほしい。出来れば自分から遠ざけたいと思うだろう。だからこそ、「これは酷い」や、「酷いやつだ」の判断には慎重でありたい。その判断が間違っているかもしれないから。その判断で良い気持ちになっているのは、自分だけかもしれないから。間違った攻撃をして、自分が酷いやつになるかもしれないのだから。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)

2024-01-17 15:41:00

コメデイタッチのファンタジー

私が書いたアマゾンのレビューで、何故か一番多く皆様から「いいね」がついている投稿です。未見の方はぜひどうぞ。

 

グランド・ブダペスト・ホテル

 

<主人公とストーリーについての勝手な考察>

 

主人公は一流ホテルのコンシェルジュに相応しく装うために、香水と詩を振りまく。そうしないと、どこかで育ちのボロが出てしまうことを、自分で分かっているからだ。捕まった後の脱走後にベルボーイの不備を知り、どなりつける場面がある。あれは自分自身もまた、育ちに対する劣等感があったからなのかもしれない。

 

盗んだ絵も、素晴らしいと言っておきながら売ってしまうつもりだし、コンシェルジュでの仕事でのお金持ちの「お相手」も、ビジネスライクだ。心が通うような何かを、手にできないでいる。

 

だが、彼にはたくましさとやさしさがある。検閲や刑務所で屈しないし、お客ではない人たちにも、気配りとやさしさを随所で見せる。だからこそ、刑務所からの脱獄で手を貸してくれる人がいるし、その後も同業者からの助けを得る。

 

そして、それはベルボーイに対しても、その結婚相手にも、伝わっている。「尊敬している」と言われたとき、彼はホテルのお客からお礼を言われるときよりも、嬉しそうな顔をした。

 

香水や詩がなくても、誰かから信頼してもらえることが分かったあとは、お金はそこまで重要ではなくなったのだろう。だから、最後の列車の場面でも、二人が寄せてくれた信頼に応えようとしたのだと思う。

 

現実は嫌気がさすことがあり、自分自身もまともな人間じゃないと分かっている。美しい詩のようにはいかないと知っているから、生き急いだようにも見えた。ミステリー仕立てにはしているが、コメディタッチのファンタジーの物語だ。たくましさとユーモアとやさしさで現実に抗い、人を信じようとした、ちょっと悲しい男の話だ。

 

手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)