気楽にブログ
それが好きな人は、楽しそうにその話をする
テニスやロックンロールも楽しいが、勉強だって楽しめたらいいよね。という話。
私は個別の科学知識も数学の定理も、自分の子どもにうまく説明できないが、「科学の考え方の有用性・おもしろさ」は伝えたいし、知ってほしいと思う。
それらを教えてくれるのは教科書だけではなく、専門家が一般の人向けに書いた本やエッセー、今なら動画だ。学生さんたちには、教科書の他にそういったもので勉強する時間も、ぜひ取ってもらいたいと思う。
例えば福岡伸一さんの「生物の無生物とのあいだに」を読めば、科学者たちが研究する上での、人間ドラマが書いてある。文系の人、小説が好きな人も楽しく読めると思う。また、理系の研究者になろうという人たちも、「研究現場の実際」がわかる。憧れる上でも、現実を知る上でも、特に高校生には有用だと思う。
動画で言えばヨビノリタクミさんの動画は、内容の理解もそうだが、学ぶ「面白さ・有用性」も伝えてくれる。また、最近知った理論物理学者の野村泰紀さんがお話されているところを見ると、「難しいけど、楽しそうだ」というのが、話しぶりから伝わってくる。
どうしても勉強は受験勉強や資格勉強といった、「テストで点数をとるため」になってしまう。それはそれとして、教科書の他の本、問題を解くためだけではない本もまた、読んで欲しいと思う。自分を振り返ると、なかなかそんな余裕はないかもしれないが。思いとして。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
恋は水色
あるのかないのか、よくわからないものとして思いつくのは「記憶」だ。記憶とは、一体何なのだろう。
特に記憶が、映像として思い起こせることに興味がある。目をつむり、過去に自分が体験したことを思い起こすと、映像として記憶が現れる。これは「ある」と言えるのだろうか。他の人は見ることができないのに?
ここで、例えば自分が過去に観た映画を思い起こしてみる。すると、その映像が思い起こされる。それは確かに見えている。この映像と自分の過去の経験の映像は、違うだろうか?「画面を通して観たことのある映像」と「自分が経験したことのある映像」は、見た目では同じように感じる。
だが、よくよく思い返してみる、自分が体験した過去の記憶を思い出していると、映像の他にも感じられることに気づく。例えばそれは、そのときの温度や風、匂い、手触り、といったものだ。映画を思い返してみても、それらの感じは得られない。
こうして考えてみると、記憶・思い出というものは、映像とともに、そのときに感じた感覚も一緒にあるものだ。映像としては映画のようだが、そこが決定的に違う。
中学の卒業式を終えたあとの、ある春の日。初恋の人とのデートは、彼女の表情だけではなく、そのときの風の感触までも思い出せる。春特有の暖かさから、夕方に風が少し冷たくなってきた、あの感触だ。たった1時間が2時間一緒に歩いて、ベンチに座っておしゃべりしただけの記憶の中に、たくさんのものが今でも「ある」
話した言葉、並んで歩いて少しだけ触れた手、埃の匂い、散歩道の固さ、あの子の笑顔。
映像も、言葉も、音も、感触も。
そして、そのときの自分の気持ちもまた、私は記憶しているのだ。
「今ぼくは世界一幸せだ」本気でそう感じていたことを。
恋のいいところは、思い出せるところだ。私がこの世にいるかぎり、それはこれからも「ある」だろう。
「二人でいることに照れて上を見上げたら、青い空と白い雲が見えた。そしてその際は、確かに水色だった」
と、最後のこの文だけは、記憶ではなくて創作なのだけれども。
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縄跳びが見つからない
幼稚園や保育園と小学校の違いの一つに、「予定・持ち物」があると思う。「明日は何があるのかを確認し、そのために持っていくものを準備する」親がしていたことを子ども自身がすることは、大きな変化だろうと思う。
子どもにもよるだろうが、自分の子を見ていると、5歳になれば「明日は豆まきがあるの」と、予定について話すことがある。また、ハンカチなどいつもの持ち物なら、自分で準備できるものもある。
だが、「あー、明日は図工でペットボトル使うから、家から持っていかないとな」とか、「雨の次の日だから、新しい靴で行くのはやめておこう」という思考は、小学生になってからだと思う。普段と違うことを把握し、いつもと違う準備をするのは、難易度が高い。
そして、明日何があり、そのために何を持っていくのかを考えるというのは、大人になってからも、ずっと必要なことだ。予定のための準備。小学生は日々の生活で、これから生きていくための合理性を養っていく。
これを促すのが、親が直接送り迎えをしないという状況だ。上の娘が小学生になって気づいたが、小学校では、先生と親との直接のやり取りが減る。もう一つは、文字を覚えるということだ。子どもは「予定・持ち物」を自分で書き、自分で準備する必要に迫られる。文字が書けるということは、予定や持ち物を思い出すために必須だ。
もちろん、まだまだ親の促しや確認が必要になるが、文字を使い、自分で予定からの準備を考えていくことで、自立心が育っていくように思う。このように「送り迎えと準備の2つが、親から離れていく」のが、子どもが小学生になるタイミングなのだろう。
実際には「まだ宿題やってなかった」とか「明日なわとび持っていくんだった」とか、急に言いだし、親とともに慌てて解決を試みることも、しばしば起こる。そして、予定からの準備を怠ることで不利益を被ることを繰り返し、「これは困るなあ」と学んでいっている。だろう。
親としてはそんな我が子を見、「こうやって大人になっていくんだね」と、成長を感じるとともに、子どもらしさが少なくなっていくことに、一抹のさみしさもある。「パパ、鍵持ったの?」と言ってくれるのは、大変助かるのだけれども。
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半開きにした口が塞がらない
「まじめにふざける」宮沢章夫さんを真似して書いたエッセイです。気楽にお読み下さいませ。
最近you tubeを見ていたら、きれいなお姉さんが英語を教えてくれるという番組を発見した。これは甚だしく幸せだ、つまり幸甚だということで、すぐさまチャンネル登録をして聞き入っている。というか、見入っている。こうやって惚けていてリスニング力が上がるかどうかは大いに疑問だが、私のお店はインバウンドとは無縁そうだし、まあいいか。
と思って口を半開きにして視聴していたところ、次のような例文が出てきた。
I have butterflies in my stomach
初めて目にする表現だった。そして、これは私の興味を引いた。この表現に対する訳がこうだ。
「ドキドキする」
これはおもしろいと思った。私がこの文を直訳するなら
「私は胃の中に蝶々を飼っています」だ。
いやいや、ピロリ菌ならいるかもしれないが、さすがに蝶々はいないだろう。そして、これが何故「ドキドキする」を表すのか、気になる。私のイメージでは、胃の中で蝶々が飛び回っているのと、ドキドキ感が結びつかないのだ。
そう考えると、I have butterflies in my stomach の表現は「比喩」より「慣用句」に近いのだと考えられる。慣用句は、言葉の情景を思い浮かべるのではなく、その意味するものをそのまま覚えてしまうのが良い。
例えば日本語でも「足が棒のようだ」というのは比喩で、イメージとして意味することが捉えやすい。だが、「足を洗う」となると、慣用句だ。そのままのイメージでは、意味することと結びつかない。「オレも、もうそろそろ足を洗わないと」と言われて、意味を知らなければ「え、毎日洗おうよ」と返してしまうかもしれない。
このように慣用句は英語であれ日本語であれ、説明するときは「こういうものだから」でいくしかないと思う。例えばこう聞かれたら困るのだ。
「目くじらを立てる」って何ですか?
いや、わからないのだ。「目くじら」がどんなクジラなのか。そして、それは立てるものなのか、そして、それが立ったら一体どうなるのか。
あなたの暮らしに気楽時間
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父とボスと最後にジョー・ペシ
映画:ブロンクス物語
高校か大学の頃にレンタルして観た映画だ。確か「レナードの朝」でロバート・デ・ニーロを知り、その流れで観たように思う。
舞台は60年代のアメリカ・NY、ブロンクスという地区の話だ。
冒頭からとにかく音楽が良い。ドゥーアップから始まり、アップテンポの60’sが流れ、中盤ではビートルズの「come together」も流れる。私の青春時代は90年代だったが、60年代の音楽をその頃に好んで聴いていたので、とても心地よい。
イタリアン・ギャングが力を持つ街で、そこに住む親子を中心に話が進んで行く。酒や賭博、銃、といった危険が隣にある生活の中で、主人公は父親(ロバート・デ・ニーロ)、ギャングのボス(チャズ・パルミンテリ:脚本も)、手下、主人公と同年代の不良、と関わりながら成長していく。
この前久しぶりに観たら、自分が父親役と同じくらいの年になったこともあり、彼の言葉や行動に興味がわいた。
父親(デ・ニーロ)の仕事はバスの運転士で、ギャング一味とは関わらないようにしている。きっかけからギャングのボスに息子が気に入られ、これを機に仲間入りを誘われるが、断っている。息子は段々とボスに惹かれて父親から離れ、ギャングや同年代の悪いやつらとつるみだす。そんなときでも、完全に息子を止められはしないが、自分の考えを、言葉や態度で示し続ける。
この父親の流されない強さは、ブレない信念は一体どこから来るのだろう?不正や暴力にノーと言えるのは、正義感があるからだろうか。恐怖を感じ、圧力をかけられたら、普通はそれに屈してしまうのではないか。
背景としてあるのは信仰心、そして先祖からの教えであるようだ。「良いおこないをして生きる」ということ、「祖父もそうして苦労し、だが、正しく生きてきた」というのが、拠り所となっているように描かれている。
主人公は自分の父親とギャングのボスという、いわば二人の父親の考えから影響を受ける。彼は二人の父親の生き方や考え方の違いが分かるし、対立するものとして捉えている。だが最後に「どちらも、自分の味方ということで一致していた」ことを、知る。
私は、自分がこんな父親になれるのかな、ということを考えた。
圧力や誘惑や恐怖に抗って、自分の考えを示せるのか。その拠り所はあるのか
子どもに「働くやつはばかだ」と言われても、黙々と自分の仕事ができるのか
子どもが悪影響となるだろう人と付き合い出しても、「ある程度の仕方なさ」を許容できるのか
などなど
「大人になったら分かる」そう言いながら、言葉で説明すること、姿勢を見せることを続ける。黒人女性とつきあうことには難色を示すなど、保守的・頑固な面はあるけれど、かっこ良い父親だと思う。どうせ他の人の影響も受けるのだから、そしてその方が良いだろうから「自分は自分の考えを、子どもに伝えれば良いかな」と思った。その「自分の考え」が、今の私にあるのかないのかわからないのだけれど。
最後に、
副題が「愛に包まれた街」だが、今回見返したら、その意味がちょっと分かった気がした(差別と暴力がたくさんあるけれど)。
あと、最後に出てくるジョー・ペシの存在感が強め。おすすめ!
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