気楽にブログ
体にE
「ドーナツが体に良いってことになったら最高だな」スヌーピー
そう、美味しいものでも、食べ過ぎは良くない。砂糖でも、油でも。だが、別腹と言いながら、シメと言いながら、食べるアイスやラーメンは、とても美味しいのだ。
こんなとき、曖昧な日本語が役に立つ。「なるべく」「たまには」だ。
「なるべくやめておこう」「たまにはいいだろう」こんな感じでいいじゃないか。
中年になってくると体が衰えるので、無理が効かない。そして都合の良いことに、体の反応が敏感になってくる。飲み過ぎ食べ過ぎは、明らかに翌日の体調を悪化させるし、そもそも沢山を飲み食いできなくなる。結果私は、食べ過ぎが少なくなって割と体調が良い。
だが、子どもは違う。美味しければ、沢山頂いてしまうのだ。
だから親としては、子どもの体に良い食品を与え、体に悪い食品は避けたい。のだが、それにしても情報が多すぎる。いちいち添加物を気にしていたら、ぐったり疲れてしまう。
背を伸ばすためには牛乳だ!とか、卵は日に1個までだ!とか、私がずっと信じていたことは、最近曖昧になってきて困る。一体何を信じればいいのだろう。
一つはやはり科学的手法で調べ、データで検証されたものを頼りたい。絶対確実というのは幻想だが、判断基準とするのに、科学より頼りになるものはないだろう。因果を示すのは難しいことを認めながら、メカニズムが解明されていなくとも、データから冷静に判断していきたいと思う。まあ、それが難しいのだが。
あとは、自分の直感も大事だ。薬だって合うか合わないか、効果があるかどうかは、最後は自分で飲んでみて判断するものだ。食べ物も同じで、子供が飲むたびにお腹を下しているのなら、やはり牛乳は控え目がいいのだろう。
体に良いとされるものも、悪いとされるのも、「ほんとかな?」と軽く疑いながら、体の反応を確かめながら、大体で判断していこう。
「まあ子どもが好きなポケモンパンも、食べさせ過ぎなければいいかな」と、ありきたりな結論に落ち着いて、自分は4つめの「ひとくちルマンド」に手を伸ばしながら。
あなたの暮らしに気楽時間
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
叡智と実践
気楽に屋には、大学生の皆さんにもお越し頂いております。というわけで、毎度おなじみありがた迷惑の昔話です。
私はその昔、社会人入試という裏技で北里大学に入学しました(元々文系なので、卒業には苦労しました)。北里大学では4月に入学すると、まず初めに北里柴三郎先生についての講義を、全員必須で受けます。そして、大学の建学の精神「叡知(えいち)と実践」を学びます。
「よく学び、その学びを人や社会に役立てよ」そんな意味だと私は捉えています。新しく得た知見も、人のためになって初めて輝きます(利他)。現場で分かったことは、標準化することで、皆が使えるツールとなります(自然科学)。「叡智と実践、どっちも大切」働き続けて、ようやく少し、分かってきました。
大学生の皆さんはぜひ「自分にひっかかる言葉」を、各大学で得て頂けたらと思います。その言葉が役に立つのは、卒業した後になるかもしれません。ですが、後になって意味が分かることも、よくあることです。
気楽に屋は整体であり、医療機関ではありません。日本の理学療法士は、開業権が今のところありません。そのため、私の行う施術は民間療法であり、健康保険は使えません。しかし、予防の分野や、リハビリ算定期間が切れてしまった方などへ、貢献できることが多くあると思っております。
そして、医療機関であろうとなかろうと、目の前のクライアントさんへ自分の知識と経験からできることを提供し、それを振り返るとき、私の拠り所となる1つに、北里スピリットがあります。これから新しい1000円札を見るたびに「叡知と実践だぞ」と柴三郎先生に言われるのは、なかなか休まらないなあとは思いますが。。
手当て整体 気楽に屋 サン仲村
キノコを売りたい
*「体に良いものを売るには」を妄想シミュレーション。科学的手法に基づくことが確度を上げるけど、それだけじゃない。みたいな。
整体のお店で健康食品を売ったら、儲かるかもしれない。自分の天才的な思いつきに感動しつつ、南米アマゾンのジャングルへとやってきた。山に分け入り、沢を渡り、崖はよじ登らずに迂回して、ようやく私は、妖めかしく艶のあるキノコの群生を発見するに至った。
図鑑やサイトを見てもこのキノコは載っていない。「ついにやったぞ!これは大いなるビジネスチャンス到来だ」高鳴るハートビート、紅潮する頬。
だが、ここで冷静になった。「いや待てよ。ことによるとこれは毒キノコかもしれない」
どうも、このベニテングタケというやつに似ている。これが「毒でなく体に良いもの」であるのを確かめるには、どうすれば良いのだろうか。
①直感を信じる(no reason)
大丈夫、イケる!根拠はないが、これは毒ではない。だって美味しそうだし体に良さそうな見た目だもの。と、自分のビビビ直感を頼りに判断する。
②対象を観察する
いやいや待て待て、もう少し冷静に判断の材料を集めよう。根拠のための観察が大切だ。色、匂い、手触り、ちょっと舐めてみる。自分の感覚から判断だ。
③動物を観察する
うーむ、大丈夫な気がするがしかし、根拠としては弱い。ん?野生の猿が来たぞ。お、そしてキノコをもぎ取って行った。きっと病気の仲間の猿に食べさせるに違いない。やはり、これは体に良いキノコなのだ!
極めて合理的(rathonal)な判断を下した私は、サンプルとしていくつか持ち帰った。そしてまず自分で食べてみようかと思ったが、思いとどまり、懇意にしているカプセルコーポレーションの研究所に持ち込み、検査を依頼した。
そこでは④動物実験、⑤成分分析、を経て⑥人による二重盲検ランダム化比較試験へと進んだ。そして、どうやら「ポロリン」なる主成分が、健常男性の血中アミノ酸濃度を上げていることが分かった。メカニズムの解明ははっきりしないが、統計データで有意差が出たとのことである。
その後、⑦当局による「特定健康食品」の認可をパスできた。
よし、いよいよこのキノコを売りたい。
コピーは「おいしくて、いろいろと強くなる」に決めた。
キノコ粉末ひと袋にポロリン1000mg配合。つまり、なんと1gだ。効能は「滋養強壮」だ。つまり、いろいろに効く。
あとは「おいしくて色々強くなる」ということをアッピールだ。
「*あくまで個人の感想です」を入れながら、キノコを食べたことによる効果を宣伝してもらう。ついでに娘がファンだから、snow man にCMを依頼しよう。
データとグラフで根拠を示し、エピソードで吸引力を高め、最後に初回限定価格で爆売れ間違いなしだ!
というような経緯があるキノコの粉末を、ネット通販で買ってみた。一週間味噌汁に入れて飲んでいる。何となく、朝の目覚めがいい気がする。何となく。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
よし、帰ろう
何年か前の家族旅行の話。
よし、夏休みは海に行こう。小さい娘に、海の楽しさを知ってもらおう。伊豆なら温泉もあるし、お魚もおいしいだろう。ということはお酒もおいしく飲めるだろう。
ネットで宿を吟味して予約し、水着や浮き輪を買い、あれこれあれこれ楽しいだろうことを想像し、その日を迎える。
そして、いざゆかん!朝から妻も娘も楽しそうだ。よしよし、いい感じだな。玄関先で、もう写真を撮ってみる。「行ってきますの図」だ。
そして道中。車の中でハイテンションな娘。「もうはしゃいでいるのか、着いたらもっと楽しいぞ」と私。幸い天気も晴れすぎなくらい、晴れている。真っ青な空と海が眼前に広がるのを想像し、それを見た娘の喜ぶだろう姿を思い浮かべる。
だがしかし。途中で寄った道の駅で娘が言った「なんか暑い」。まあ、夏だしな。暑いわな。と思うが、少し元気がなさそうなので、一応体温計で測ってみる。
「37.8℃」
「まじか!いや、計測ミスかもしれない。朝は違ったし。」もう一度お願いします。
「38.2℃」
。。。明らかに熱発でございます。
「ちょっと30分くらい休んでみようか」すぐさま引き返すことができない私。
ここまで来たのに。海、温泉、食事。そして当日の宿のキャンセル代。得られるだろうものがするりと滑り落ち、しかもマネーが羽をつけて飛んでいく。。
「海に行けないの?」半泣き状態になる娘。
「とりあえず、行ってみたら良くなるかも」などと考えてしまう私。
だが、娘の顔は明らかに赤くなっており、調子が悪そうだ。父親として決断のときだ。
「今日は帰ろう。また来れるから」自分にも言い聞かせるように、妻と娘に伝える。
「やだー、おうちかえりたくないー。うみいくー」と泣き出す娘。妻は、私が帰る決断をしたことに、ほっとしているようだ。もし、私が行くと言い出したら、全力で止めていたことだろう。
「せっかくここまで来たのだから。ちょっと無理してみようかな。うまくいくかもしれないし」と思うことはある。だが、未来に大事なものはなんだ?と、冷静に捉えて決断できる父親に、私はなりたい。
そう、映画アポロ13のときのトム・ハンクスのように。月面までもう少し、となったときに「帰ろう」という決断ができるのは、本当に大事なものがわかっているからだ。
私はといえば「あー、お刺身食べたかったなー」と帰りの運転中に心の中で思ってしまう、しようもない父親だ。刺し身ではなくて娘の具合を心配しなくてはいけないのに。
そして。散々泣いたあと、娘は眠ってしまい、家に着いたらその日は熱が高いまま。とても海で遊べる状態ではなかった。無理に連れて行ってたら、えらいことだった。
娘が大きくなったら、そのときのことを聞いてくるかもしれない。そうしたらかっこつけて、こう言おう。
「月に着くことより、無事に地球に帰るほうが大事だからね」
刺し身が惜しくてすぐに帰る決断をしなかったことは、もちろん内緒だ。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
どっちもどっち
「二重スリット実験」についてもう一度トライしよう。さすがに前回のは怒られて、私がやっているハイボールのCMを、降板させられるかもしれない。
さて、意味のない心配は置いておき、私が二重スリット実験で腑に落ちないのは「一つ打った粒子が、両方のスリットを通っていると考える」という点だ。
光は波でも粒子でもなく「量子」であることを受け入れた。波が干渉を起こすことは分かった。観測が対象を動かしてしまう事も分かった。結果が確率分布で表せることも納得した。観測によって波の性質を見ようとしたら波になり、粒の性質を見ようとしたら粒になるのもOKだ。
だがしかし。「干渉した」ということは、スクリーンに当たるときに粒ではなく「波」として当たったということでなないのか。つまり、一発ずつ光子を打つ、ということが「そもそもできない」のではないか、と考えた。粒子として飛ばすことはできず、必ず波でもあると。粒子を一発ずつ打ってたつもりが、光の干渉の実験と同じことをしていたのではないか?
と、私の理解(誤解)は、今のところここまでだ。私には「確率の波が通る」というのは、よく分からない。概念ではなく「何か実体のあるものが通っている」はずだと思う。私は高校で物理は脱落したが、散々「物体」について学んできただろう理系の高校生は、大学でのこの量子力学の考えを、すんなり受け入れられるのだろうか。
先程「分かる」とか「受け入れた」とか書いたが、野村泰紀さんによれば「腑に落ちるかどうかでない」「式で表せ、未来が記述できて整合性があれば、それは【分かった】」ということのようだ。私はどうしても「肌感覚でわからないと気持ち悪い」と思ってしまうが「人間の認知が追いつかない、捉えられないことがある」というのが、科学者の指摘なのだ。事実それを受け入れて、量子テクノロジーの進歩は目覚ましいようだ。
一方で岡潔は小林秀雄との対談で「感情の満足なしでは数学は存在し得ない」と言っている。数学でさえも、人間の感情を入れないと成り立たないという主張をする。矛盾がないといって「矛盾がないと思うのは感情だ」というのだ。
アインシュタインもシュレーディンガーも、量子力学の世界を受け入れがたく思っていたとの話もある(私が見ていないとき、月は存在していないのでしょうか)。というわけで、もちろん事実を認めて先に進むのはいいけれど、人間の感情を置き去りにしてしまっては危ういのかも、と思う。野村先生が映画「オッペンハイマー」を勧めておられた。やはり、人間や感情を置き去りにしたテクノロジーの進歩が、悲劇につながり得ることも、知っておかなくてはいけないのだろう。
さて、テクノロジーは置いておき、量子力学の考えを、自分の仕事や生活に近づけてみよう。これは、福岡伸一さんが書いてくれている。
「人生の出来事は因果的に起こったわけでもなく、予め決定しているわけでもない。共時的で多義的な現象が、たまたまそのように見えているにすぎません」動的平衡2のあとがき
量子力学はミクロの世界の話だが、自分の世界もそうかもしれないと思うと、おもしろい。あるのは自由と可能性。どちらも選べる、もしくはどっちも通っている。切り取り「見た」その瞬間は「その有り様」として現れるが、またすぐ先に「可能性と自由」がある。
このときの自分、このときの自分、様々な色で点々をつけ、描かれた「自分の人生の画」を最後に見てみたら、きっといかようにも解釈できるのだろう。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)