気楽にブログ
二重スリット実験と少子化問題に関する一考察
私は「ようすけ」という名前なのだが、小学校のときに「ようすけべ」というあだ名がついたことがある。とってもとっても嫌だった。だが、いまはおじさんなので「すけべ」は、わりと好きだ。
話は変わるが「量子力学」は、私の人生と無縁だと思っていた。だが、どんなものか概要くらいは捉えておきたいな、という欲が出て、学んでみることにした。
しかし、これが難しかった。式がどうとか、用語がどうとかという前に、現象の説明が腑に落ちないのだ。
特に「二重スリット実験」が、有名な実験のようだが、野村泰紀さんやヨビノリタクミさんの動画を繰り返し観ても、どうにも分からない。
本当は気楽に屋の集客について考えなくてはいけないのに、二重スリット実験が気になってるなんて「何をやっているんだ」という感じだが、ついに昨日、夢にまで出てきた。
夢の中で何故か私は白衣を来て、「二重スリット実験」をしようとしているのだ。夢の中であるものの、私にはこれが夢だということが分かった。そして「夢のお告げ」「寝ているときに謎が解けてしまう」というような、高揚感があった。なにか「ものすごい気づき」を得て、ついに私も天才科学者の仲間入りか?
と、わくわくしていたら、出てきたのはシュレーディンガーではなく、博多華丸だった。
彼は言った。
「スカートとスピーチは短いほうがいい」
私はこう答えた。
「スリットは2つより4つくらいあったほうがいい」
そしてそこで、スリットの多いチャイナドレスが出てきた。
。。何と言うか、自分でも唖然としてしまった。こんな夢を見るなんて、ことによると「自分は本当におばかさんなのかもしれない」と、久しぶりに本気で思った。
どうも私の頭の中は、科学の思考をしたがらないようだ。オヤジギャグ、今ならハラスメントになってしまうようなことしか、思いつかない。
でも、いいんだ。ナイツの塙さんや華丸さんや、ロバートの秋山さんなら慰めてくれるだろう。
だってスケベが排除されていったら、その先は少子化に決まってるでしょう?
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
光る雲を突き抜け fly away
鳥山明さんが亡くなったニュースは、驚きと寂しさを私にもたらした。私の子供時代を楽しくしてくれた彼に、感謝を示したい。
ニュース記事や動画を追っていたら、彼に対する追悼が、世界中で行われたことを知った。私と同年代のおっさんたちが、涙を浮かべながら哀悼の意を示している姿に「仲間感」を禁じ得ない。
私は孫悟空のフィギュアを棚に飾るほどのファンではないが、中学で部活にのめり込む前は、毎週の「ドラゴンボール」の放送を楽しみにしていたのを覚えている。子どもの頃のマンガ・アニメの世界の中での自分の感情の揺れは、それ自体が体験・経験だったように思う。ワクワクやドキドキといった楽しさを、強く感じられる年頃に、彼の作品が周りにあってくれて良かった。
新たな作品は生まれないが、残された作品は永遠だ。でも、作者が亡くなったことによる、この喪失感は何だろう?作品のキャラクターたちもどこかに行ってしまうような、そんな錯覚があったのは何故なのだろう。
海外の動画を見ると、英語では亡くなったことを「passed away」と表現することを知った。自分の眼の前を通り過ぎ、どこか遠くへ行ってしまうイメージなのかもしれない。
自分がいる世界から誰かがいなくなってしまう。だが、消えてしまうのではなく、遠くに行った先に、その人は「いる」のだと、私は考えたい。
もう一つ海外の動画で良く目にしたのが「R.I.P」という表現で、rest in peace の略のようだ。in ということで、やはりどこかに「いる」ことがわかる。
作品でしか彼のことを知らない私は、悲しさや悔しさより、感謝を思う。そして、安らかに、と願う。
これから先、私が知っている多くの人たちが、遠くへ行ってしまうことになるのだろう。そして、私自身もいつの日か、passed awayするのだ。
どこかへ行くと思えば、その先でまた皆に会えるかな、と思う。でもその前にもう少し、何かしら残してから行きたいな、とも思う。
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マイ気楽ワード トップ3
この「気楽にブログ」では、皆様に気楽な時間をお届けしたいと、常々考えている。そこで今回は改めて、気楽になるための「気楽ワード」について、ご紹介していこうと思う。
私のおすすめ気楽ワードのトップ3は
「にんげんだもの」あいだみつを
「だっふんだ」志村けん
「これでいいのだ」バカボンのパパ(赤塚不二夫)
の3つである。これらを南無阿弥陀仏のように、とにかく唱えることが肝要だ。
「気楽である」の否定は「気楽じゃない」で、言葉で言うと「緊張を強いられる」「間違えられない」「結果が重要」といった状況や、そのときの「心の持ちよう」だと思う。
人生・生活において、ずっと気楽ではいられない。資格試験中に「だっふんだ」と唱えて緊張を取ろうとしても、恐らくうまくいかない。
だが、もっと「気楽な時間」が多くても良いと思うのだ。休み時間や放課後は、授業時間より多いはずだ。でも、なぜか「気楽じゃない時間」が長くなってしまう。
この3つの言葉は、ひらがなだ。ひらがなは漢字より「気楽だ」まあ、私の感想だが。そして3つの言葉とも、自分を肯定してくれる。
がんばったけどうまくいかなかった。思いが相手に伝わらなかった。偶然いやなことが起きた。そして、やる気がおきずにサボってしまった。
そんな自分の「ダメさ」が出てしまうときに、「そんなときもあるよ」と励ましてくれる。それがこれら3つの気楽ワードだ。それは「逃げ」にもつながるだろうが、逃げだって大切な選択肢だ。
何が得か、何が善か、何が正しいか。不確かな中で、より安心・安全を求める気持ち。もっとがんばらなくてはいけないのではないか?より良くなくてはいけないのではないか、と焦る気持ち。傷つくことも傷つけることも恐れながら、頼れる拠り所はなかなか見つからない。
そんな日々の生活の中で、自然や宗教や推し活が、自分の迷いを減らしてくれるかもしれない。そしてそれらに加え、やはり自分の体に頼むのが良いと思う。疲れを感じたらそれは休もうということなのだ。眠くなったら寝ようということなのだ。嫌だと思ったら、嫌だと言えばいいのだ。頑張りたいなら頑張ればいいけれど、体がそうでないなら「今はそのときではない」
というわけでこんな感じ。
なんかうまくできない!だっふんだ!休憩だ。
今日は気楽にちょっと本屋でも。あとついでにラーメンも。にんげんだもの。
そうそうそう。これでいいのだ。
あなたの暮らしに気楽時間
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それが好きな人は、楽しそうにその話をする
テニスやロックンロールも楽しいが、勉強だって楽しめたらいいよね。という話。
私は個別の科学知識も数学の定理も、自分の子どもにうまく説明できないが、「科学の考え方の有用性・おもしろさ」は伝えたいし、知ってほしいと思う。
それらを教えてくれるのは教科書だけではなく、専門家が一般の人向けに書いた本やエッセー、今なら動画だ。学生さんたちには、教科書の他にそういったもので勉強する時間も、ぜひ取ってもらいたいと思う。
例えば福岡伸一さんの「生物の無生物とのあいだに」を読めば、科学者たちが研究する上での、人間ドラマが書いてある。文系の人、小説が好きな人も楽しく読めると思う。また、理系の研究者になろうという人たちも、「研究現場の実際」がわかる。憧れる上でも、現実を知る上でも、特に高校生には有用だと思う。
動画で言えばヨビノリタクミさんの動画は、内容の理解もそうだが、学ぶ「面白さ・有用性」も伝えてくれる。また、最近知った理論物理学者の野村泰紀さんがお話されているところを見ると、「難しいけど、楽しそうだ」というのが、話しぶりから伝わってくる。
どうしても勉強は受験勉強や資格勉強といった、「テストで点数をとるため」になってしまう。それはそれとして、教科書の他の本、問題を解くためだけではない本もまた、読んで欲しいと思う。自分を振り返ると、なかなかそんな余裕はないかもしれないが。思いとして。
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恋は水色
あるのかないのか、よくわからないものとして思いつくのは「記憶」だ。記憶とは、一体何なのだろう。
特に記憶が、映像として思い起こせることに興味がある。目をつむり、過去に自分が体験したことを思い起こすと、映像として記憶が現れる。これは「ある」と言えるのだろうか。他の人は見ることができないのに?
ここで、例えば自分が過去に観た映画を思い起こしてみる。すると、その映像が思い起こされる。それは確かに見えている。この映像と自分の過去の経験の映像は、違うだろうか?「画面を通して観たことのある映像」と「自分が経験したことのある映像」は、見た目では同じように感じる。
だが、よくよく思い返してみる、自分が体験した過去の記憶を思い出していると、映像の他にも感じられることに気づく。例えばそれは、そのときの温度や風、匂い、手触り、といったものだ。映画を思い返してみても、それらの感じは得られない。
こうして考えてみると、記憶・思い出というものは、映像とともに、そのときに感じた感覚も一緒にあるものだ。映像としては映画のようだが、そこが決定的に違う。
中学の卒業式を終えたあとの、ある春の日。初恋の人とのデートは、彼女の表情だけではなく、そのときの風の感触までも思い出せる。春特有の暖かさから、夕方に風が少し冷たくなってきた、あの感触だ。たった1時間が2時間一緒に歩いて、ベンチに座っておしゃべりしただけの記憶の中に、たくさんのものが今でも「ある」
話した言葉、並んで歩いて少しだけ触れた手、埃の匂い、散歩道の固さ、あの子の笑顔。
映像も、言葉も、音も、感触も。
そして、そのときの自分の気持ちもまた、私は記憶しているのだ。
「今ぼくは世界一幸せだ」本気でそう感じていたことを。
恋のいいところは、思い出せるところだ。私がこの世にいるかぎり、それはこれからも「ある」だろう。
「二人でいることに照れて上を見上げたら、青い空と白い雲が見えた。そしてその際は、確かに水色だった」
と、最後のこの文だけは、記憶ではなくて創作なのだけれども。
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