気楽にブログ
原因特定 対策設定
何か問題が起きる。つまり悪いこと(と思う)ことが起きる。それは自分の身の回りでも起きるし、自分から離れたところでも起きる。悪いことだから、その問題を解決したいと思う。そのときは、問題や悪いことの原因をつきとめることになる。そして、これだ、と原因を特定したなら、それを排除する。そうすると、もう問題は起こらないし、悪いこともなくなる。
このような過程は、社会がより良くなるために大切なプロセスだ。しかし、大変難しいことでもある。
「悪い」という決めつけ、「犯人」の決めつけ、これは私も良くやる。「消費税が最悪だ!」と居酒屋でわめくのが、大好きだ。だが、安易な決めつけは誤ることや、解決にならない、もしくは自体の悪化を招くことは、十分に注意したい。
マシンのトラブルも、体のトラブルも、人間関係のトラブルも、組織のトラブルも、国同士のトラブルも、環境のトラブルも、ジャニーズ事務所のトラブルも、解決したい気持ちが先走り、すぐに決めつけて安心したくなるが、じっくり見極めることも大切だ。
私が社会学や理学療法学を学んで良かったと思うのは、「本当にそうかなあ?」と疑問を持つ癖がついたことだ。そして、遠巻きの安全なコメンテーターとしてではなく、事象に自分も含まれていることがあることも、意識できるようになったことだ。
それは何か問題が起きたり、悪い(と思う)ことが起きたときに、一呼吸置き、「そもそもこれは悪いことなのか?」と問う態度だ。「いや、どう見ても問題でしょ!」という声を聞きつつ、まずそこから確かめる悠長な構えだ。
次に犯人や原因探しと特定だ。それも、すぐには決めつけない。「これもあるし、あれもかもしれないなあ」と、曖昧にしておく態度だ。「いや、こいつが悪いに決まっているでしょ!」という声は大事にしながら、置かれた立場や関係性も確かめる。
そして、解決策に行く前に「何故こうなっているのか」を数々挙げていく。もしかしたら偶然起こったことかもしれない、ということまで考える。自明な因果関係を大事にしつつ、その他の要因もくまなく列挙する。「対策として次からこうするべきでしょう!」という声を聞きつつ、すぐに〜するべきとは言わない。「べき論」ではなく「なぜ論」だ。
そんなのんびりしていては、社会問題や国際問題や環境問題は解決しないし、人の病気は改善しないだろう。そして、私自身も居酒屋で「とにかく菓子パンが体に悪い!」と騒ぐくらいだから、全てにいちいちそんな「なぜ論」をしていない。例えば汚染水のことも、面倒で調べていない。が、私はすぐ決めつけはしたくないのだと、たまに思い出して確認しておきたい。そして、メロンパンはたまに買いたい。
遠く離れた事象でも、自分事かもしれない。そして悪いのは自分も含めてなのかもしれない。だから、自分も含めての「なぜ論」を展開することを続けていきたい。コロナ騒動で、人生で初めて社会問題がリアルに自分ごとに感じられたが、上記した考え方は、非常に役に立ったと思っている。
「本当にそうかなあ?」
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
アフォーダンスで夜は更けて
前回、学生に戻った気分で読後レポートを書いた。が、どうやら長すぎたようだ。「お前はもっとフザけた文を書いてればいいんだよ!」という声が聞こえてきた。気がした。
というわけで、カタカナの話がおもしろかった。もっと書いてくれ。という嬉しいお手紙を頂いた。誰を?などと、町田康の真似をして、今日のオンエアを始めるとしよう。私は最近、ずっとなりたかったDJ気分だ。今日も日本中のリスナーが、この放送を楽しみにしていると思うと嬉しい。もちろん完全な勘違いだが、自分がなりたいものになれる。いい時代だ。
ユリイカに続いて私が気になるカタカナは、「アナリスト」だ。いや、また怒られるからやめておこう。怒られるのは嫌いだから。えっと、気になるのは「アフォーダンス」だ。これなら良いだろう。
なんか小難しい本に出てくるわけだ。アフォーダンスが。そして、やっぱり想像してしまうのだ。志村けんを。白鳥の格好をした変なおじさんが、ダンスしている姿を。なんせアフォーだ。ほんとにすごい。
例文はどういう感じだろう。アフォーダンス=白鳥おじさんでイメージして読んでみよう。
「このように見てくると、おのずとアフォーダンスが形成される」
「つまり、アフォーダンスと言い換えてもいいくらいの先進性がある」
「これは一種のアフォーダンスだが、それに留まらないのである」
これであなたも、アフォーダンスという言葉を目にしたら、必ず志村けんが出てくる。このように、言葉の意味がよく分からないうちに刷り込まれると、なかなか取れない。
子どもの頃に「運賃はうんちん箱にお入れ下さい」と言うのがおもしろかったのと一緒だ。ちょっと違うか。
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夏休みの課題レポート(そうです私の感想です)
自主的に夏休みの課題として取り組んだものを、レポートにしました。ようやく、中村雄二郎さんの著作が少し理解できてきた気がしたので、挑戦しました。
北里の先生方に「考えが浅い!」と怒られるだろうなー。と思いながらも稚拙に書く私。随分偉そうに書いてみました。というか、私は理学療法士から整体師になったのだが。まあ、いいか。
タイトル:中村雄二郎「臨床の知」を理学療法に適用するために
理学療法学が扱う対象は、主に「人」である。人がケガや病気で心身にダメージを受けたあと、その人がどのような過程を通り、身体的回復・適応、生活の場においての動作の再獲得・適応、社会的役割の復権・適応していくかを記述する。そこでは、対象に対する観察とともに、介入が入ってくる。ある状態から介入があり、そのあとの状態になるという、時系列を示すことになる。そして、理学療法学が進むとはつまり、人が心身にダメージを受けた後、どのような介入をどれだけすれば、その人の身体機能・生活動作・社会的役割が回復・適応するか、そのパターンの網羅や標準化が進むことであろう。
ところで、理学療法学の方法としてまず土台となるのは、「科学の知」である。著者が言うところの①普遍主義②論理主義③客観主義である。これは現代の日本の医学や薬学においてもそうであるように、広く納得してもらうための考え方である。すなわち、いつどこでおこなっても、曖昧なところは何もなく因果関係がはっきりとあり、誰がおこなっても同じようになる。ことが言えるからである。
しかし、科学の知で有効性を示すことは、薬の治験でもそうだが、甚だ難しいことが分かっている。つまり、ランダムな二重盲検であったとしても、対象と観察者の関係を極力離したとしても、過程でのバイアスは免れないし、一対一の因果関係は示し難い。近似を伴い表せたデータを示すに留まり、その解釈においては「有効であると思われる」の域を出ないだろう。人を扱う場合の科学の知へ、過信はできない。
まして、理学療法の介入は人による手技が入ってくる。そうなってくると、介入者の技量のばらつきや、対象者との関係も入ってくる。益々定量化、比較化が難しくなってくる。理学療法学会としては保険診療であるためには、データで世に示し、多勢の納得を得ることが必要だ。だが、この「手技をともなった介入」が強みであるはずなのに、有効性を示すことが難しいというジレンマに陥っている。だから、トレッドミルなどの機械に患者を載せて走らせて、血圧・心拍数など数字で表せる研究の方が進むのは、自明と言える。
これは研究の場に限らず、臨床の場においても同様である。対象者である患者が、施術者である自分の介入により、どう変化したのかを記述するのは、上記の理由から甚だ困難である。科学の記述を使うには、あまりにも不確かな要素が多すぎるし、因果関係も示しづらい。誰がやってもそうなる、とは言い難いだろう。
そこで、参考となるのは、「科学の知」に加え、著者が提唱する「臨床の知」という考え方である。これは①コスモロジー②シンボリズム③パフォーマンスからなる。それは、限定的な「今・ここの、あなたと私」に絞り、「言葉の多義性や意味の深さ」を大事にし、「相互作用」でもたらせるものに着目する考え方であると解釈できる。つまり、曖昧で因果関係に還し難い「手技の介入」を、そのまま記述していくことである。これは患者や介入者である理学療法士の「個別性」を敢えて出し、言葉を大事にし、経験や相互の関係性によって結果が変わり得ることを、前提にしている。
例えば、同じエクササイズをしたが、今日は気乗りがしないようだった。という記述や、「なんだか足が軽くなってきた」という言葉、「随分世話になってるからもう少し頑張りますわ」などの関係性の変化など、そのとき、自分が思った患者の状態や、患者の発言をそのまま書き(曖昧な表現だとしても)、それに対する考えや感想を記すというやり方である。施術者の主観を敢えて入れ、施術者自身の影響を排せず、話し言葉も記すことになる。変化を数字では表せないが、それでも発言の変化や状態の変化を言葉で記すのである。
入院3日目。バイタルがいくつ、バイクこぎ20分、その後のバイタルがいくつ。これらの蓄積はなるほど、「科学の知」として、積み重ねればガイドラインになるのかもしれない。それに加え、言葉を介した個別のやり取り、お互いで紡いだストーリーの積み重ね、伴う状態の変化は、理学療法士の経験の共有、ひいては目の前の課題のヒントにつながるだろう。「それってあなたの感想ですよね」こそが、生きる場面もあると考える。エビデンスだけに囚われては窮屈だ。
このような臨床記録の集積を、論文にする方法を私は知らない。データを伴って標準化をし、保険診療と認めてもらう根拠としては、弱いのかもしれない。だが、少なくとも個々の理学療法士自身、そしてその職場の仲間同士や後輩たちには有益な知であり、明日の患者さんの臨床に、有効になり得ると私は考える。
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より良くはしんどい
「今この現在、心を歓ばせることが大事だのだ。そして、人生のおりおりで自分を歓ばせる勉強をしているなら、必要な勉強はそのときどきにやれば間に合う。」森毅
森毅さんの本で数学を勉強し直そうと思ったが、手始めにエッセイを読んでいる。勉強は受験勉強だけではない、と繰り返し言及されており、私の学び直しを押してくれる。それと、岡潔についても書いてあっておもしろい。「困るのは残りの三割で、すごいことなのか、笑ってすごしていいのか、よくわからない」と書いてあった。数学者にこんなコメントをされてしまう、岡潔。やはり伝説の男だ。
エッセイを読んでいると「いくじなし宣言」や「たかが学校」など、気楽ワードが満載で嬉しい。「人生という物語」という言葉は、そのまま河合隼雄先生だ。そして、特に繰り返し出てくるのは、正しさや良さについての危うさやの指摘や、見直しの必要性だ。
より良い社会、より良い暮らし。私も「より良いお体へ」とすぐ書いてしまう。だが、より良いことを追求するのは、しんどさもある。始めは良いが、だんだん伸びしろがなくなる。マンガのドラゴンボールの後半で、敵が強くなりすぎて混迷してくるように、行き過ぎると無理が出てくるものだ。
ほどよく、なるべく、気楽に。誰かと競い「過ぎず」、自分を気にし「過ぎず」、弱いところもひっくるめていければ良いと思う。もっと美しく、もっと健康に、もっと幸せに、と言うが、「もっと」には際限がないし、そのために苦しむことはないだろうと、自省できた。
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ネクタイを貸そう
「スティング」は、大好きな映画だ。よく言われるように、ロバート・レッドフォードの目と口元が、ブラッド・ピットにそっくりだ。ポール・ニューマンも最高にカッコいい。鏡に写った私と見間違えたくらいだ。
怒られる冗談はさておき。おもしろい!演技にだまされる!かっこいい男たちが出ている!という映画が見たい方は必見だ。繰り返し見たくなるので、プライムレンタルではなく、購入で良いかもしれない。
ただ、後半からおもしろくなるのは伝えておきたい。ポール・ニューマンの詐欺師ぶりが魅力全開の、列車でのポーカーの場面。そこまで観られれば大丈夫だ。あとはもう、最後までエキサイティングだ。前半は、もちろん大事だが、ちょっと入り込みにくいかもしれない。
そして、最後まで観たなら、必ず「うわ、だまされた!」と思うこと必至である。そして、「これはもう一度観てみないとわからないな」と、後日もう一度観てしまうことも必定である。おもしろい映画ってこういう作品のことなのですね。と同意して頂けると思う。
この映画に出てくるのは沢山の詐欺師だ。つまり、演技している人だ。役者は演技している人を演技している。または演技している人に気づかない人を演技する。これは、大変難しいことではないかと思う。結局、誰が演技していたの?と、混乱したコメントを思わずしてしまう。皆、演技していたのだけど。
ところで、悪者のビネガンは、殺しをしたり金とプライドに目がくらんだりするが、騙される、というのは「人の言うことを信じた」からだ。何回か観ているうちに、少しかわいそうな感じもした。何故か歩くときには足を引きずっているし、ものすごく強く悪いやつという演出はされていない気がする。この演出の意図はなんだろうか。
そして、オーシャンズもそうだが、現実なら騙したり騙されたり、盗んだり盗まれたりするのはイヤだが、エンターテインメントになると抜群におもしろいのは何故なのだろうか。
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