気楽にブログ
そして、心の琴が鳴り響く
物語の流れは いつもそっと消えて 振り向いた瞬間 何も見えないよ「救われる気持ち」ザ・フィッシュマンズ
心の琴線にふれる。そんな表現があります。私がこれを「ことせん」と読んでいたことは秘密です。正しくは「きんせん」ですね。心には琴があり、その弦が揺れると響くのです。感動は振動であり、それは音楽となるのです。
私は町田市にある都立M高校に通っておりました。そこでは6月頃に、合唱祭がありました。「テニス部のキャプテンは毎年、クラスの指揮者をやる決まりだから」そう先輩に言われ「うす、度胸つけまっす!」と軽はずみな私は、めでたく指揮者となりました。
歌うことは好きだったのですが、指揮者なんぞやったことはなく、後悔し始めた頃には「時すでにIt’s too late」練習が始まってしまいました。近くの市民球場にクラス毎に集まって、6月の明るさが暗くなる時間までの練習は、さぞ近所迷惑だったと思います。今では、もう「球場練」は、行われていないのではと推察します。90年代、世間はまだまだ寛容でした。
私は部活で疲れたふりをしてかったるそうにし、吹奏楽部の女子が「早く練習しようよ」と言ってくれるのを待っていたものでした。なんでしょうね、あの女子を困らせたいという気持ちは。まじめがかっこわるい、みたいな感じは。
そうです、そのときピアニカを抱えた吹奏楽部の子に、しっかりと指揮者の何たるかを教わっておけば良かった、のに。練習では何となく良い感じだったので、私はすっかり調子に乗って本番を迎えたのでした。
そして当日。ものの見事に緊張し、あわあわあわ。と3回くらい泡を吹いたのは、練習のときと違い、私の立つ指揮台から歌うみんなが遠かったからです。天使にラブソングをのウーピーゴールドバーグのように、にっこりしてから指揮を始めるつもりが、竹中直人の「笑いながら怒る人」みたいな顔になっていたと思います。
物理的な距離は、心を遠くする。
私は練習のときに、音の響きを聞いていたのではなく、皆の表情を見て指揮をしていたのでした。それが良く見えたいとなると、頼りがありません。ノッている感もありません。不安なまま、手応えなく終えました。「表情が見えない今こそ、耳をすませてみんなのVIBESを掴め!」と、映画やドラマのようにはいきませんでした。見て感じるのも大事だけど、聞いて感じるのも大事だよん。
指揮はうまくいったのか、合唱はうまくいったのか、まったくわからないまま終わりました。皆もなぜか私に声をかけてくれません。「やっちまったか」と、落ち込みかけたそのときです。
「陽ちゃん、良かったよ」
S君が声をかけてくれたのです。そんなに親しかったわけでもないS君。でもその一言で、本当に救われた気持ちがしました。
結局、確か総合2位という順位で終わり、みんなで仲良く打ち上げに行きました(どこに行ったかは今では書けません)。歌声はあのとき会場に離散してしまったし、課題曲の歌詞もメロディもあんまり覚えていません。でも、S君のかけてくれたうれしい一言は、私の心にずっと残っています。
勇気が出ないとき、くじけそうになったとき、自分をもう一度信じたいとき、思い出すのは誰かが言ってくれた、そんな一言です。
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気楽にね☆
今年ホットペッパービューティーのブログに載せたものです。今読み返すと、なぜこんなに自分は力んでいるのか謎です。。
ネガティブに屈せずに思いを言葉にする。例として一つご紹介します。手塚治虫「ブラックジャック」からの引用です。自分の仕事の意味を問われ、ブラックジャックは思いを言葉にします。
「それでも私は人をなおすのだ、自分が生きるために!」ここで言う生きるためにというのは、お金を稼ぐため、というよりも、自分が自分であるために仕事をする、ということだと思います。彼が高額な治療費を要求する理由は、他にあると私は考えています。
このように、強い思いとそれに伴う言葉は、力です。パワー(なかやまきんにくん)です。続けられる理由となり、そしてそれは夢につながります。でも、それはまた、両刃の剣でもあります。自分も相手も傷つけるかもしれません。
相手への思いの強さは、強い分だけお互いの負担にもなるものです。それは注意したいところです。魔女の宅急便での「私このニシンのパイ嫌いなのよね」の、例もあります。思いが届かないことも、世の中いろいろあるものです。
そして、思いが形になったとしても、グスコーブドリの伝記のブドリのように、または銀河鉄道の夜のカンパネルラのように、自己犠牲が過ぎたら、それは悲しいことにもなりかねない、と思うのです。
「利他」や「仕事」に関して、つらつらと書いてきました。私的なブログ感が出てきましたので、ここから、気楽に屋の集客につながるように持っていきます。誰かのために働ければ、自分も嬉しくなれるし、元気にもなれます。だからこそ、頑張り過ぎには注意なのです。「頑張りすぎのダメージは、蓄積しすぎると体を壊してしまいます。適度に休息を取りましょう。」これこそ、私が持っていきたい結論でした。労りのすすめでした。
だから、ここで文字を大きくして、えーと、出来ませんでしたが、「頑張って疲れてしまったら、どうぞ気楽に屋へお越し下さい!」と、最後に記して終わります。
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町田にはリス園がある(どや)
今年は「翔んで埼玉2」が公開されて話題となった。主演のGACKTさんが「くだらない、と思える時間や作品があっていい」というようなことをインタビューで答えていて、度量の広さに私は敬服した。
興味が湧いたので早速劇場へ行き、ではなくて「翔んで埼玉1」をアマゾンプライムで観た。そして、面白かった。自分が好きなシーンは埼玉と千葉が川を挟んで対峙し、自分の県の出身有名人を掲げるところだ。高々と掲げられる「高見沢俊彦」。おおー、というどよめき。最高におかしい。
そして、エンディングに流れた「はなわ」のさいたまの歌もすばらしかった。歌に乗せるから、歌詞のおもしろさが増す。あまりの出来の良さに、思い切り嫉妬した。
と、笑える時間で終わりで良いのだが、この作品のメッセージを勘違いして受け止めていこうと思う。誰の言葉かは忘れたが、「作品の解釈は観客がそれぞれすればいい。」のだ。
私はこの作品から「争い事の可能性とその回避」について考えた。家族愛、郷土愛、厚木愛、それらはあってしかるべきものだろうし、私も持っている。だが、それは他との対立を生むきっかけともなり得る。自分や自分に近いものと「違うもの」に対して、どう接していくかは、いじめや戦争とも関連があると考える。いや、わりとまじめにそう思っている。
我々は寛容や愛があるとともに「対立」や「競争」も起こしやすい。これは子どもの頃を振り返ると、例えばドッチボールのクラス対抗でも、「メラメラしたもの」はすぐに起こる。何なら、じゃんけんで決めたチーム分けでもすぐに起こる。普段は仲が良い友達だとしても、「敵チーム」に決まった途端、倒す相手となり得るのである。
「敵である」ということに決まった途端、誰かを「自分で」敵にしてしまう、これは良く考えると怖いことだ。世の中に色んな争いがあるが、「敵と決まったから」という要素も少なくないと私は推測する。そこにもってチーム内で仲間意識が高まれば、もちろん敵意識も増加する。加えてお互いが悪者扱いや忌み嫌うものとして扱えば、益々煽るのは容易で、勝手に競い争い合う。
映画では都知事と神奈川県知事が共謀し、埼玉と千葉を対立させたが、このような「仕組まれた対立」にはよっぽど注意しないといけない。敵とみなして対立するのは、生物学や社会学を持ち出さなくても、自分を振り返れば簡単に起こり得ることだと分かる。「メラメラしたもの」はスポーツやビジネス競争において必要だが、注意も必要だ。
もちろん映画はフィクションでファンタジーである。だが、現実でも「対立は起こりやすい」。極端に言うと、いじめも簡単に起こるし、戦争も簡単に起こる。
敢えて極端に言ったのは、対立は起こりやすいものだという認識を持てば、その回避もしやすくなると考えからだ。更に「仕組まれた対立」に対しても敏感でありたい。「何で争っているんだっけ?」と冷静になる時間や、寛容さや愛を広げていくことも大切だ。世の中はゼロサムゲームだけではないのだと、知っておきたい。もちろん良きライバルの競い合いなら、対立も悪くない。
最後に
たとえ対立したとしても現実に埼玉と千葉が血を見るような争いは起きない。何故起きないのか、その回避できている術が応用可能ならば、国家間にもぜひ応用したいと考えた。
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ミスされる人であれ
大谷翔平選手がエンゼルスからドジャースに移籍となりました。ドジャースと言えば先駆者「野茂英雄」が在籍したチームですね。彼のノーヒットノーランのニュースは、よく覚えています。
大谷選手が移籍となり、ドジャースチームとファンは盛り上がっているようです。一方で、去られる側のエンゼルスは「行ってしまうのね」という感じでしょうか。今までありがとう、これからもがんばってという惜別は、いつでも寂しい気持ちがするものです。
以前、missについてよく分からない投稿をしましたが、シーズンが始まったらファンの人たちは、大谷選手のことを更に「miss」することでしょう。居なくてさみしく思う。居てほしい。恋しいと。
https://kirakuniya.jp/diary/76397
そして、ここで今年何回もご登場の岡潔です。彼は学校の先生から「ミスされる人であれ」と言われたことを、良く覚えているそうです。孤高の人のイメージですが、先生からの影響を受けてきたからこそ、自身も教育についての文を書いたのだと思います。
ミスされる、とはもちろん「間違ったことをされる」という意味ではなく、今回の大谷選手のようなことだと思います。「ミスされる人であれ」いい言葉だと思います。まだ「少年よ大志を抱け」よりもマイナーだと思いますので、これから広げていきましょう。広がれ広がれ、ひろがるスカイプリキュアです。
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そこに思いはあるか
「21世紀の道徳」ベンジャミン・クリッツアーを読んで
仕事に関して。自分の思いがある、つまり自分ががんばりたい、という仕事をしたいと思います。働いたら負け、やりがい搾取、資本主義の奴隷、などなど言われる世の中です。私も昔は「やりたいことないし、どうせ取られるんだし、利用されるのはいやだな」と、若者の青さをまとっていた時期がありました。でも、仕事が自分がやりたいこと(に近い)であれば、その他の周りはどうでも良い(に近い)と、今は考えています。
搾取されている愚痴や、誰かの悪口を言う。これは私も居酒屋での楽しみですが、そうやって発散するだけでは、やはりかっこ悪い。もちろん、不当な働き過ぎや不当な扱いを受けることに対しては、声を上げて変えることが必要です。ですが、その仕事を楽しめるかは、自分の思い次第だと感じます。
「金儲けのために生まれてきたわけじゃないぜ」忌野清志郎
と、言えるような大人には、私はなれませんでした。お金儲けも考え、独立しました。でも、この先で変わるかもしれませんが、そのときどきの思いを大事にして、仕事をしていきたいと思うのです。それは、労働のポジティブな面があることが、分かったからです。
「本当のことは見えているんだろう? その思いよ消えないで その思いを僕に見せて」
サヨナラcolor
気楽に屋は、思いを持って働いている方、思いを探りながら働いている方、働いている全ての方々を応援しています。
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