気楽にブログ
勝って嬉しくてトイレで泣く
気楽に竹中直人で笑いたくなって、シコふんじゃったを久しぶりに観た。本木雅弘、竹中直人、そして柄本明。3人の存在感が際立つが、今日観たら柄本明が、控えめな演技ながら印象に残った。彼は相撲部を残したい気持ちだけではなく、学生のことをとにかく考えている。あとは、やはり竹中直人のコミカルな動きがおもしろく、そのおかしさがウケる自分に、何だか安心した。
「死にものぐるいでやらなきゃダメなんだ。つまらなくなる」ザ・ハイロウズ
遊び感覚でスポーツをするのも、もちろん楽しいが、やはり己を一つに賭けてやるのも楽しい。日米野球や甲子園、バスケのW杯と続いたので、普段の気楽から離れて熱い気持ちを感じる次第だ。
バブル時代の大学生の主人公が「誤魔化したり手を抜くのはもうやめだ」と言うのは、「そうそう、それそれ」と思う。
<女子マネージャー>
出てくる女性の描き方は、好きな人のために尽くすという少し昔のマネージャー像かもしれない。しかし、OBや先生に堂々と物を申したり、何と土俵にまで上がるというのは、ステレオタイプをぶちこわしにかかっていて楽しい。
<きっかけはそれぞれ、続けるか、終わりにするかは自分>
相撲部の顧問もOBたちも、まずは相撲部に入ってくれて嬉しいが、どうしても「真剣にやって欲しい」と思ってしまう。自分がそうやってきたから、その思いと同じ熱量を求めてしまう。それだけ没頭すれば手にできるものを知っているから、尚更である。
ただ、OBがドヤすのと違い、顧問の先生はやはり先生なので、学生のやる気が出るのを待っている。やる気が出ないままでは教えられない。これは邦画「がんばっていきまっしょい」と同じだ。そして、続けるか終えるかも学生に任せる。
それは留学生のスマイリーが回しを締めるかどうかもそうだし、最後に部員たちがやめていくときもそうだ。本気でやると自分で決め、やり切ったことが得られれば、その後は本人次第。その思いはOBも先生も一緒だ。
単位につられて、好きな人がいるから、勧誘されたから、始めるきっかけは大層でなくていい。途中で本気になり、楽しさを知り、やり遂げる。その姿は応援したくなる。竹中直人が勝ってトイレにこもって泣くシーンがとてもいい。
がんばる姿やそれぞれの思い、そしてギャグ。気楽にも観られるし、熱くもなれる。時代が変わっても都度、エンターテインしてくれる、周防監督の傑作だと私は思う。
本厚木 整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
靴は自分で履きますので待っていて下さい
子育てをしていると見聞きすることに「魔の2歳」「天使の4歳」というものがある。うちの下の娘が4歳半だが、なるほど、天使というのも頷ける。「ママいつもありがとうって、お手紙書いているの。」と、見事に左右反対の鏡文字で「も」を書いている様子は、愛らしいことこの上ない。
そんな彼女も2歳のときはオムツを投げたり寝付けずに暴れたり、それなりに大変であった。私はヨシタケシンスケさんの「パパとママが怒るのは、君が悪いんじゃなくて、パパやママの機嫌が悪いだけかもしれないよ」を都度思い出し、なるべく平穏に接しようとしたが、いかんせん自分の人間力が足りなくて、イライラしてしまっていた。
時間と気持ちの余裕があるときは何とか「待てる」のだが、時間に追われるのが大人の悲しいところだ。私自身は幼少期にモンテッソーリ教育の保育園に行っており、わりと自分のやりたいことをさせてもらっていたようだ。だから自分の子どもの「自分でやりたい」は、見守ってあげられると思っていた。しかし、出かけなどに実際は「早くしなさい!」と言ってしまっていた。とほほ。
だから街中で、子どもに対しておっかないママさんを見ると、まあ仕方ないなと思う。「何もそんなに怒らんでも」と周りは思うかもしれないが、ママだって色んな子育ての知識はあるし、普段は穏やかな人なのだろう。おうちに帰ってひとり自己嫌悪してしまうこともあるのだろう。
それにしても「魔」の2歳は言い過ぎだと言っておこう。もう2歳の子育てをしない予定なので、上から目線だが。だって、悪魔も邪魔もひどいでしょう。言うなら「ま!」の2歳かな。
本厚木 整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
ネガティブもまた良きかな
調子のいいときはいいのだ、そのままで。ごきげんなときはいいのだ、そのままで。
でも、そうじゃないときがあるものだ。
イライラしたり、ダルかったり、やる気がなかったりだ。
そんなとき、どうするか。まずはやはりこれだ「大丈夫。にんげんだもの」みつを。
ポジティヴシンキングというものがある。結局自分の心の持ちようだから、嫌なことがあってもポジティブに捉えてみる、ということだ。「ネガティヴよ出ていけ。おれはずっとポジティブだ」ボブ・マーリーが、松岡修造が、いつでも弱い自分を励ましてくれる。
だが、これが効かないときはどうするか。無理やり笑顔も今は違うな、と思うときはどうするか。
「とりあえず寝てみる」これは良い方法だ。のび太戦法だ。起きたら元気になっていることも多い。
だが、眠れない場合はどうするか。いよいよ事態は深刻な気がしてきた。
「原因を考えてみる」これはあまりおすすめしない。いよいよ深刻が深刻に進んでしまうかもしれない。
「ビールを飲んでみる」うまくいくときもある。でも、ふた口飲んでみたけど、今日はおいしくない。さあ、どうしよう。
「気持ちのせいにしない」これはうまくいくかもしれない。がんばれないのは気持ちではなく、ホルモンのせいかもしれない。または、何だかわからないけど「自分のせいではない」ことにしよう。
ちょっと気が楽になってきた。そうなればしめたものだ。そう、たまにはネガティヴだってあったほうがいいじゃないか。そんな風に思えてくれば、リカバリーまでもう少しだ。
あとは自分だけの「気楽ごと」をしていく。それで大丈夫だ。ネット情報ではなく、自分の経験を思い出すのだ。湯につかるとか、アロマをかぐとかもいいが、他にもあるはずだ。
例えば「りんごを皮ごとかじる」が自分のリフレッシュ法でも、いいじゃないか。「バナナを皮ごとかじる」これはやめておこう。苦いから。「ロバート秋山の動画を見ながらアルフォートをかじる」これはおすすめだ。こんなにおもしろい人いるんですね。こんな甘いお菓子あるんですね。
少し笑えてきたら、そのままお笑いでもいいし、あとは本が、音楽が、映画が、思い出が、昔のことが自分をまた元気づけてくれる。さあ、仕舞ってある引き出しからごそごそ取り出して、お気に入りの相棒と「夜をぶっ飛ばせ」(ザ・ローリング・ストーンズ)
本厚木 整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
やっと見つけた気楽に通える整体サロン
前回は家庭料理としての手当て整体について書いた。誰が作ってもおいしいように、誰がしても良くなるのが、手当て整体だ。自分自身での手当て、家族への手当て、それにより「労り」が普及していったら嬉しい。
それとともに、やはり専門性も出していきたい。誰がおこなっても同じだと、私のお店の意味がない。家庭料理も良いが、たまには外食もしたい。そしてチェーン店も良いが、お気に入りの個人店も見つけておきたい。
そんな感じで気楽に屋もありたいと思う。お気に入りのカフェのような、お気に入りのマイサロン。これはおしゃれでいい感じだ。
私は未熟者なので、他店の口コミを読んだりし、「良くなりましたー」と書いてあると、すぐ嫉妬してしまう。が、良くなればそれでいいじゃないか、と思い直す。飲食店に色々な美味しいがあるように、整体のお店もそれぞれ色々な良さがあるのだから。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
家庭料理と手当て整体
料理研究家の土井先生は、家庭料理は誰が作ってもおいしい。と言う。いや、さすがに先生が作った味噌汁と私が作った味噌汁は違うと思うのだが、勝手に美味しくなるものだと言う。または、あまり美味しくないのは今日の素材がそういう状態だから、作り手のせいではない、というようなことも言う。そのまま食べればよろしいと。
この考え方は、手当て整体にも通じる。家庭料理のように、普段の手当て整体なら誰でもできる。だって、手を当てるだけなのだから。料理よりも簡単だ。良くしようとあれこれしなくても、心地よさを感じてもらえれば、勝手に良くなっていく。そして、もちろん相手の状態にもよる。例えば相手が風邪を引いているのをすぐに回復させる、なんてことはできない。
特別なレシピもなく、誰がやってもある程度は美味しくなる(体が良くなる)。とすれば、家庭料理や手当ては標準化となり得る。匿名性も出てくる。それに加え、やはり母親が作ってくれたということがおいしさを増やすように、母親がさわってくれたということが心地よさを増やすだろう。標準化プラス個別性ということで、この前書いた科学の知と臨床の知のハイブリッドである。というのは言い過ぎだろうか。
一人でする料理や手当ても同じだと思う。インスタントの味噌汁はおいしいし便利だが、たまには自分で作りたい。マッサージ器も気持ち良いが、自分でも手当てをして整えたい。料理人でなくても、整体師でなくても。ある程度は美味しくなるし、回復もする。そんな気楽な感じで良いと思う。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)