気楽にブログ
眩しい音を、放つ
映画「BLUE GIANT」を観て
ジャズで世界一になる。ジャズの自由さと己を表現する喜びの虜になった主人公に、ブレるところはない。確固たる目標があり、それに向かって努力を惜しまない。一つに賭けられる輝きを、今の若者世代も感じ取ってもらえたら嬉しい。
トリオを結成しているベースは、主人公が遠慮なく言ってくるのが心地よさそうだ。音楽にしろスポーツにしろ、一番を目指すとなれば気を使い合うお友だちでは、うまくいかないのだろう。上から目線の物言いもあるが、彼のやさしさが随所に感じられ、嫌なやつとは思えない。私の高校時代からのAB型の友人にそっくりだなと思った。
ドラムの彼は高校時代サッカーに熱くなったが、大学時代は打ち込めるものが見つからない。「おれはこのバンドが楽しいからずっと続けたい」という素直な気持ちは、「今だけこのメンバーでバンドを組んでいる」という他の二人と相違がある。だが、それを受け入れ、とにかく彼は「今の自分」を輝かすことができた。引っ張られながらも、最後は堂々としてかっこいい。
私も若い頃は地元の友だちとバンドの真似事をしたことがあったが、まさにお遊びであった。それはそれで楽しかったが、もう一段階上の景色も見てみたかったなとも思う。そして、更にその先となると実力と努力があっても、才能がついていかないという段階があるのかもしれない。
ちょうどこの前フィッシュマンズのドキュメンタリーも観たが、メンバーが脱退していくのは、バンドの中でのプレーヤーとしての位置がなくなることが、原因にあるようだった。ジャズの世界ではよりそれが当たり前で、バンドは同じメンバーで続けるものではないらしい。
形あるものは崩れていく。だから、壊れていく前に壊していく。そして常に新しく作り続ける。留まらずに奏で続ける。そう、まさに音楽やバンドはローリング・ストーン(ズ)なのだ。福岡伸一さんが生命と音楽の類似性を述べていたが、自由なリズムと旋律、たまにの静寂がまさに「いのち」そのものなのだろう。そう言えば最近、ザ・クロマニヨンズが「イノチノマーチ」という曲を作った。
眩しい若者の青春を目にし、映画に出てくる彼らを応援する大人(おじさんおばさん)の年代に、自分がなっていることを実感した。若者たちには輝きを放つ今を、高らかに奏でて欲しい。そして私は若者だからこその音楽を、楽しめるおじさんでいたい。
理学療法士の整体in厚木
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
お土産は12個入りを
大学入試で数学と理科を使わなかったド文系の私だが、森毅さんの「数の現象学」で、おもしろく数学を学び直している。初版は私が生まれた1978年だが、私にとっては古くなく新しい。この本で数学の決まりは「それが人にとって都合が良いから」とか、いわゆる「文化」の影響を受けて決まっていったことも多いと知り、半ば愕然としている。
例えば、10で位が上がる、10でひとまとまりなのは、数学の揺るぎない決まり事のような気がしていた。だが、実際は「人の指が10本だから」というのも大きいらしい。区切りやすいということなのだ。このあたりの話をおもしろく聞ける文系の人は多いと思うし、数学嫌いを減らすには、とっかかりとして文化と絡めて学ぶのが良いと思う。
前にも書いたが、私はずっと1/3が嫌いだった。10が3で割り切れないから。実際は1ダース、12で区切る習慣もあったのだという。12でひとまとまりだ。なぜなら3とか4とかで割れるから。例えば「お会計、ちょうど10000円です!」という場合、キリがよいようで切れないのだ。3人での宴席なら割り切れない。「じゃあ浮いた1000円は次の店で」などと、わけのわからないことを言ってしまうのだ。しかしこれが12000円だったらどうだ。すんなりだ。こっちのほうがよっぽど「切りのいい数字」だ。高くついたが。
あとはゼロ0の話の例で、階段の話だ。階段の1段目と言えば、もちろん1つ上がったところだ。だが、これが建物だとどうだろう。1階というとき、1つ上がったところだろうか?いや、違う。1つ上がったところは2階だ。なんだこれは。では1つ下がってみよう。階段を1つ下がれば下の階段の1つ目だ。建物の場合はどうだ。1つ下がったら地下1階だ。1で同じだ。12月の次が1月であるように、ゼロがあったりなかったりの文化世界で私たちは普通に生活をしている。
こんな感じでまず数の数え方からやり直している。次はいよいよ足し算に入るが、個数が増えていくのと、何番目かの数字から次の数字というのでは違うようだ。引き算になると数が減っていくのと2つの「差」のことで、また違うようだ。掛け算は倍と掛け合わせ(乗法)でも違うようだ。そして、そこでもまた文化の影響が出てくる。読んで、自分で考えて、時間がかかる。苦手な分数まで、なかなかたどり着かない。
でも、私はこういったことを学びたかったのだ。45歳にして初めて算数・数学がおもしろくなってきて、うれしいい。
理学療法士の整体in本厚木
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楽しい音楽 おいしい食事
厚木のオータムフェスタに行ってきました。キッチンカーでタコスやラムチョップが売っていて、おいしかったです。
というわけで映画「シェフ 三つ星フードトラック始めました」のレビューを書いてみました。未見の方はぜひご覧下さいませ。
仕事、家族、旅、料理と音楽、これらが詰まっている。つまり、人生の映画だ。そして、コメディタッチだから、見ていて楽しい。ハッピーエンドだし、私の勝手な「気楽ムービー」に認定したい。
男の仕事(この表現嫌われそうだが)
自分のやり方とボスの考えに違いが出てくる。主人公のトップシェフはオーナーと合わず、勤め先を辞める。「時期」ってあるものだ。もうここに居ることはないんだな、と思う時期が。ナンバー2はお店に留まる。一緒に来いではなく、君はここでがんばれ、というのは、人によってその時期が違うのを、主人公が分かっているからなのだろう。
父と子
子どもは本気の父、仕事をしている父を感じたい。だが、一緒にやるとなれば子どもにとって大人の本気の仕事は過酷だ。キッチンカー洗いの場面でひと悶着するし、美味しいものを出そうとしたら、子に対しても厳しくもなる。そんな中でも本気で向き合い、仕事とは何かを子どもに伝えることで、自分にとっての仕事もまた、再確認したのだと思う。そして「He is ready to cook」というセリフは、子どもが仕事としての料理を知ったのと同じく、父と子の関係も準備が整ったということだと思う。
男の仕事2
仕事に対するシェフの情熱は本物だ。だからこそ、元職場のスタッフがシェフについてくる。「あんたについてくよ」という感じだ。そう、味方はいるものなのだ。そして、それはぶつかり合った批評家にも最後には伝わる。分かってくれる人もいる。これは救いだ。
主人公はフレンチのシェフだが、伝統や格式にとらわれず常に美味しいものに探求心がある。様々なジャンルや食材に刺激を受け、新しいメニューにも挑戦したい。家庭料理や地域料理も大好きだ。お高く止まっていない所が良い。だからこそ高級レストランを辞して、キッチンカーで再出発できる。自分のプライドはどこにあるのか、それは決して場所ではないことは確かだ。監督・脚本・主演のジョン・ファブローは、この映画に自分の仕事への思いを投影したのではないか。
アメリカ旅行
色んな地域の色んな料理、そして色んな音楽が彩りを加える。ジャマイカ、キューバ、ニューオーリンズ、どの音楽もいい。日本も地域によって料理も変わるが、流れる音楽がこれほど地域で変わることはないだろう。食べて、音楽を聞いて、アメリカの旅は楽しそうだ。
スカーレット・ヨハンソン、ロバート・ダウニー・jrも出ていて、確かな存在感を放つ。おすすめ!
理学療法士の整体in本厚木
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今日も明日も振る舞う
以前、「しまう」について書いたが、今回は「ふるまう」について書いてみようと思う。「仕舞う」と「振る舞う」ということで、「舞う」というのが同じだ。舞う、は動く様だ。重力、空気(水)抵抗といった己をその場に留めようとする力に対し、自分の意思、または気分に任せて、軽やかに動くことだ。
最近読んだ福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだに」という本の中に、この「ふるまう、ふるまい」が出てくる。京都大学時代に「behavior」を「ふるまい」と訳すことがあることを学んだ、というエピソードが書かれている。
本では、「物質のふるまい」そして「原子のふるまい」という話になる。物質がふるまうとはこれいかに?という感じだが、原子というのは絶えずまったく無秩序な熱運動に翻弄されているそうだ。高校で習った気がする「ブラウン運動」だ。そして、その動き(振れ?)は重力や濃度といった周囲の影響も受ける。
そして、元々がランダムな動きが、周囲の影響を受け「全体として平均すると」動いている、つまりふるまっているように見えるということだ。言われてみれば濃度の違う液体が拡散していく様は、振る振るしたブラウン運動と、ゆっくり広がる舞いで、確かに振る舞いだ。
シュレーディンガーは「生命現象は最終的には物理学や化学の言葉で記述できる」と述べたとあるが、生物とは呼ばない原子の世界からすでに動きはランダムであり、記述には統計が用いられる。つまり「全て必ず」ということではないようだ。このあたり、ファジーなところが科学にあることを、文系の私は最近知った。
構成体である原子がそうであるなら、当然「生物」もまたランダムな動きや、周囲の影響を受け、全体としては「平均としてのふるまい」を見せる。そして、生物のふるまいは、その影響の中に置かれた自分に秩序を生み出し、またその秩序を保つために自分自身を絶えず作り変えている。そして、そこには制約に縛られない自由もある。福岡伸一さんが言う「動的平衡」である。
こういったことを自分の馴染みの分野につなげてみると、人間も反射・反応や無意識の影響、もしくは与えられた社会の中の自分の役割にも影響を受ける。しかし一方で、制約の中でときにそれに抗い、自分を保つとともに、自由にも動ける存在である。そして、それらを社会全体の動きとして記述をするなら、同じく統計の手法が用いられる。うーむなるほど。社会学部の学生は生物学を必修にした方が良さそうだな。と、なんの効力もない提案をしてみる。
「ランダムであること」「制約があること」「全て必ずではないこと」そして「自由に動けること」。この前読んだ茂木健一郎さんの本には「自由意志はない」と書いてあったが、私はあると思う。単に私が言葉を理解していないだけかも知れないが(バカの壁)。物質の制約、環境の制約、生物の制約、社会の制約、の中で、エントロピーが増大し、この私の生命活動を終えるまで、これからも大いに人間としてふるまいたいと思う。
と、たまには知的を装った話を居酒屋でしてみたら「よし分かった、じゃあ仲村さん今日は大盤振る舞いね!瓶ビール追加で!」とうまいこと返されて心地よかった秋なのに暑い日の夕方。
最後はやっぱり町田康に似せて
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パソコソ
その後、親知らずを抜いたところは順調だ。よかったよかった。
久しぶりに言葉について書こうと思う。つまり、ちょっと暇だ。今日のテーマは語感だ。言葉の響き、その印象は絵のように、音楽のように、私たちの心を刺激する。
例えばこの前に書いた「カリカリ」も私が好きな語感のひとつだ。ついでに言うと、私は梨が好きなのだが、なしの食感はやはり「シャクシャク」だろう。水分が多いのが私は好みだ。洋梨はそれほど好きではない。シャクシャクしないから。
つるつる、すべすべ、なども良い語感だ。「つるつるした氷」よく滑りそうだ。これが「ぐつぐつした氷」だとどうだ、とてもスケートしようとは思えないではないか。
すべすべのお肌。私の憧れだ。秋冬の私のお肌はカサカサだ。さらに付け加えると「ひびひび」だ。そんな言葉はないが。あととりあえず、ニベアクリームはすばらしい。
こうやって言葉の語感は、自分の人生経験の中でより確かなものになっていく。与える印象が決まってくる。だから、少しズラすと、いきなり違和感が出る。
例えば粉々だ。これを我々は「こなごな」と読む。「私の思いは粉々に砕け散った」などで使える。しかし、これが「こなこな」だったらどうか?「私の思いがこなこなになった」なんだろう、ものすごい違和感がありはしないか。こなごなは、まだ粒が大きくて尖ってそうだが、こなこなだともう微塵も尖ってはいない。こなこなになってしまった思いはもう、どうやっても修復不能な感じだ。
ほんの少し変わっただけでこの有様だ。気をつけて正確に言葉を発しなくてはいけない。「たいく」ではなく「たいいく」だ。「ふいんき」ではなくて「ふんいき」だ。どちらも私はもう直せないが。
そしてよくある例だが、文字にも気をつけたい。特に「ン」と「ソ」が似ているから厄介だ。「それいけ!アンパンマン」と書くところを「それいけ!アンパソマソ」と書いてしまったら、何ともパサついた主人公になってしまう。ロンドンと書くから良いのであって、ロソドソだと謎すぎる。「来週はロソドソへ出張か」どこだそれは。
以上、衆院解散に向けて言いたいことは言ったので、最後に私の好きな宮沢賢治の表現で終わるとしよう。
「私たちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、あのすきとおった風を食べ、桃色のうつくしい朝の日光をのむことができます」
すきとおった風。この語感よりいい表現を、私はまだ知らない。
理学療法士の整体in本厚木
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