気楽にブログ
作為と無作為のあいだに
「訂正する力」東浩紀 を読んで。
本を1日で読み終えたのは久しぶりで、まずは一気に読めた。面白いしためになるなと思い、読んだ。「終わりに」を読んで、東氏が「考えない方法の本が好まれる」とか「論壇で評判が悪い」とか、書かれていたが、本当なのだろうか。私は、大きな間違いはしたくないし、小さな間違いを、都度訂正したいと思っている人間だ。自分の過去のブログの文章も、実はちょこちょこ訂正している。本書は、多くの人が支持すると思うのだが。
自分の思いを形にしていくには考えが必要で、その拠り所を自分のみに頼むのは心もとない。自分が思い込みで間違うことも知っている。だから、私はそう多くはないが色々な本を読み、考え方や捉え方を真似たり試したり、振り返ってみたりしている。
これは自分が成長したいからというよりも、そうしないとうまくいかないからだ。私は後輩にテニスを教えたり、患者さんにリハビリをしたりの過去があり、今ならセラピストとしてお客様に施術をしているが、学び、試し、振り返り、訂正しないと、良くはならない。
東氏は「何かを世界に残したい人であれば、すんなりと入ってくる」と期待されているが、私はすんなりと入ってきた部分が多かった。東氏が「訂正する力」を世に広めたいという思いがあるように、私もまた「手当ての力」を世に広めたい野望があるからかもしれない。
本書では色々なワードやテーマが書いてあり、それぞれについて一つずつブログが書けそうだが、その中でも「自然を作為する」というものに惹かれたので少し書いてみたい。
私は今年、自然(じねん)という言葉を知り、はからわないことの有用性もわかった。だが、適度な手入れもまた必要なのだ。どうにもならないことに目を向けたあと、自分が変えられる(と言うとおこがましいので関与できること)ことに意図を持ってはたらきかけることが、セラピストとしての自分の仕事だと思う。これは父親としても、一市民としてもそうだと思う。
現実をもう少しだけ良く生きるために必要な、ストーリーやファンタジーの創作。柔軟さとしたたかさを持って、自然や社会に対峙すること。自分も相手も得点できるような、ついでに二人でゲームの外に追加点を取れてしまうようなこと。決めつけはいつでも訂正できる可能性を残しておくこと。本書は私が今年考えたことや学んだことに、つながりを感じる内容だった。
にぎやかで乱雑でも良い。度を超えない程度なら。私が、そして東さんもそうだろう、最も避けたい「戦争」が起こらない程度なら。いや、戦争が起きないためにこそ、にぎやかに自由に振る舞い、一方で冷静に受け止め作為し、訂正を続けたい。
最後に一つ、文系の東さんへ。私も文系なのだけど、「理科系には最新の教科書が必要で、過去の著作は不要」というのは違うかもしれません。例えば数学は文化の影響を受け、歴史の中で(人の思惑によっても)形つくられて来たと、森毅さんの著作で最近私は知りました。文化の影響を受けていれば、解釈は後から訂正できます。数学史を学ぶことで新たな発見があることは、文科系と同じだと考えます。ですから理系にも「じつは・・・だった」の論理、過去を学ぶ、訂正する力があった方が良いと、ぜひ勧めて下さい。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
情は人のためならず
「情けは人の為ならず」という言葉があります。これは、高校の時のテニス部の合宿で、飯島先生に教えてもらいました。この言葉の持つ2つの意味を、もう一度考えてみます。
1つ目は、誰かに良いことをしても、それが本当に良いことかはわからない、つまり「ありがた迷惑になるかもしれない」ことです。「人の役に立つって難しい」「利他の難しさ」私がセラピストとし驕らぬよう、前提として置いておきたい考えです。周りの善意の手助けが、その人を良くするとは限らない例として、河合隼雄先生はベートーヴェンを挙げています。周囲の助けがなく苦しい生活だったからこそ、音楽が生まれた側面もあるのではないかと。
今日は2つ目として、「利他が自分への癒しや、力になる。」という話を書いてみます。
例えば母親が子どもに与えるスキンシップは、子どもの発達にとても有用であることは、また見直されていることです。ベビーマッサージも人気があるようで、良いことだと思います。そして、実は触れる側の母親にとっても、メリットがあることが、分かってきています。桜美林の山口先生によれば、触れる母親の方にも、愛情ホルモンであるオキシトシンが、増えるそうです。柔らかさやあたたかさという心地よい触刺激と、子どもを慈しむ気持ちが、母親の心を安らげてくれるのですね。
また、これは社会学・心理学の話にもなりますが、人が働く・がんばれるのは、「誰かのためにという思い」があるときに、大きくなるようです。人は賞罰だけではがんばり続けられない、とも言われます。満足感、やりがい、そういったものがあるからがんばれることは、実感としてもよくわかります。
病院でも、例えば糖尿病の患者さんの栄養指導において、食べたら悪化しますよ(罰)、とか、我慢すればお体が良くなれますよ(賞)、と伝えるだけではなく、「治療がうまく行けば、ご家族が喜ばれますよ(誰かのために)」という声掛けが有効である、ということを、読んだことがあります。
「誰かのために(利他)」ということは、自分への癒やしとなり、力にもなります。もちろん、頑張り過ぎは良くないですし、相手のためになっているか、配慮が必要です。ただ、誰かのためを思って向ける笑顔は、向けた人からもらう力も受け、更に輝きを放つのだと思います。
その笑顔を大切な人に向けるとき あなたが一番、華やぐとき 美しく もっと輝いて
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
投稿の最後、相手のために向ける笑顔が自分に返ってくる。そして自分自身の輝きが増す。それこそが美しさだ!と思い、ホットペッパービューティー向けにコピーを書いてみました。これが好評で、リクルートさんから「素晴らしいコピー!ぜひ使わせて頂きたい!」というお声掛けがありました。ら、皆さんにお知らせします。
打ち当たるまで進む
年若い方たちへの、いつもの余計なおじさん話。
新しい勉強や仕事が始まりしばらくし、それが自分の期待と違うと「こんなはずでは」とか「やりたいことと違った」ということがあるかもしれません。
その違和感は、大事にされたら良いと思います。勉強なり仕事なり「自分はこれをやっていくのだ!」というのが決まるのは、時間がかかることもあります。
これではない気がする、という違和感を持ちながら、ひとまず目の前の課題はやってみる。そこから段々と「自分のするべきやりたいこと」が見えてくるでしょう。
私もリハビリこそ自分の仕事だ、と思ったものの、運動療法中心に結局馴染めませんでした。15年経ってようやく、手当て整体に賭けることに決めた今は、心が落ち着いたと同時に、やる気が出ています。
夏目漱石の「私の個人主義」は今読み返してみると、とてもよくわかります。漱石だってこれだという仕事を見つけるまでに迷い、悩み、ようやく見つけて安心できたのです。そして、気概と自信が出たのです。以下抜粋します。( )は私の後付け。
”私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかなかったのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました(自恃)。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。
自分もさぞ愉快だろう(自分の得点)、人もさぞ喜ぶだろう(相手の得点)と思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。
何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊こわされない自信が、その叫び声とともにむくむく首をもたげて来るのではありませんか。”
私も自分が何をしたいのか、打ち当たるまで苦しい日々でした。同じようにお悩みの方もいらっしゃるかもと思い、今回は書かせてもらいました。
違和感を大事に、自分の思うように、打ち当たるまで進もう。そこに自分の金ピカがあるのだ(宇宙兄弟)。
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灯せ!友情の火、の巻
特に人気のあった(気がする)投稿です。小学校のときの運動会のお話です。
私のときは6年生で組体操があり、先生は「お前たちならできるようになる!」とか「仲間と力を合わせることが大事だ!」と、熱血指導でした。私も、当時はひねくれておりませんでしたので、「がんばってできるようになって、先生や親に見てもらいたい!」という思いが強くありました。
当日は曇りだったのですが、組体操の頃には雨が降り出しました。今なら安全上、中止も十分ありえますが、当時は昭和。当然続行です。
先生が太鼓をひとつならすと、1つのポーズ。雨が強くなるなか、技が決まっていきます。1人の体操から2人での組体操、5人での扇のポーズ、4段のピラミッド。
そして、ついに最後の見せ場、「キャンドル」になりました。これは肩車で乗っている上の二人の肩に、さらにもう一人が乗り、最後に立ち上がって頭の上で丸を作って炎を形作るという、難易度Zのボーズでした。
私は下で肩車をしていたのですが、人の体なので、なにせ揺れます。そして、首の付け根から肩あたりの狭いところに足を置いて立ち上がるのは、今思えば相当危険です。雨ですし、キャンドルだけは中止もあり得ます。ええ、でも当然やります。昭和ですから。
どーん、先生の太鼓が響きました。下が立ち上がる合図です。ドーン、もう一度鳴って、いよいよ一番上の人が立ち上がります。私は肩車をしているので、上は見えません。「うっちゃん、立てたかな」祈る気持ちで、下で必死にバランスを取りました。揺れながら、でもバランスは取れています。
どーん、どーん、ややあって、先生の太鼓が2回鳴りました。ポーズが完成した合図です。「やった、できたんだ!」そーっと、そーっと、気を抜かずに降ろしていきます。
後日、8ミリの上映会。こわごわゆっくり、でもしっかりと立ち上がったキャンドルの先端に、炎の形が作られていました。降りしきる雨の中でも消えることのない、友情のキャンドルの灯が、ほんの2秒ほど、ともったのです。
一番上で炎を作ったうっちゃんは、「あれはこわかったよー、やんないでしょう普通」と、大人になって飲み会で言ってました。
そして、ちょっと笑ったあとに彼は言いました。
「でもね、できる気がしていたよ」と。
以上、サン仲村の気楽じゃなかった昔話でした!気楽に屋では、皆さんの熱血(たまに)を応援しています。
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耳をすませば
(今月は手抜きをして、今年ホットペッパービューティーに載せたブログから転載します。)
今年は宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」が公開されました。ジブリの中では「耳をすませば」が、大好きな映画です。私、じゃなくて私の妹が。私は主人公の男の子がかっこ良すぎて、当時は好きになれませんでした。しかし、そういえば何に耳をすましたのか、気になります。
というのも、「声を聞く」という表現を、色んなところで見聞きするからです。最近だと、料理研究家の土井善晴先生が仰っているのをテレビで拝見しました。「ほらー、タラがお湯の中で気持ちよくしてはるでしょう?これが良い火加減なのですよー。」という感じです。
切り身のタラの声を聴く。そしてそれに合わせる。計らわない。
「余計なことせんでよろしい。」「自然においしくなる。」土井先生はおっしゃいます。
この話をある研究職の方にしたところ、「私の上司も同じこと言ってましたー。」とおっしゃっていました。何でも、長年研究をしていると細胞の声が聞こえてくるそうです。何か変化を出したくて操作を加えると、上司の方に「だめだよー、そんなに乱暴にしたら。細胞が嫌がっているよ」と注意されるそうです。余計なことをしないで、自然に変化するのを待つことが、大事だそうです。
自分が扱う対象に敬意を持ち、こちらからの計らいは極力抑え、良くなる変化を待つ。これは自然と書いて「じねん」です。「おのずからそうなること、ひとりでにそうなること、人為の加わらないこと」goo辞書より
料理も研究も教育も、そして一流の治療家も、耳をすませ、じねんに合わせるのが、大事なのかもしれません。筋肉の声が聞こえ、余計なことはせず、心地よさを整え、良くなることを「待つ」ことができれば、私の施術も一流に近づけるかもじねん(しれん)、と思う、今日このごろです。
私はジブリだと「紅の豚」がお気に入りです。最後の加藤登紀子さんの歌がすてき。あのときのポルコは、風の歌を聴いていたのかな。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
