気楽にブログ
悪いひとたち
免疫学者の多田富雄先生の本で読んだが、体は異物にはある程度寛容で、共存を探る。だが、ひとたび体全体にとって有害だと捉えれば、一斉攻撃を加えて排除する。生物のシステムとして、他者への「寛容さも攻撃性も」、両方デザインされ備わっているようだ。そして、このような体内での機構は、人間社会でも「受け入れと排除」「称賛と断罪」のような形で表れているように思う。
「こんな毎日をだるそうに過ごしている この毎日にとりあえず文句つける」ザ・フィッシュマンズ
「残酷性が高ければ高いほど週刊誌は飛ぶように売れる」ブランキー・ジェット・シティ
そう、何も今に限ったことではない。20年前だって週刊誌やワイドショーで「ネタ」は沢山あった。私たちはそれを見聞きし、「ねえ、知ってる?ひどいよねー」と、自分とは全く関係のない人たちのことを、もしくは自分とは全く関係のないかの如く、しかし自分がその人たちを断罪できることを当然として、仲間内の会話の盛り上げに使っていた。そして、お互いに共感し、「酷い奴」を攻撃することで、自分の安心を得ていた。
酷い奴は政治家だったり芸能人だったり、容疑者だったりと今と同じで、だが、昔と違うのは「酷さが発見されやすくなったこと」と、「攻撃が強くなったこと」だと感じる。
自分と無関係の人を攻撃するのも、(善い人である)自分とは関係ないと思うのも、少ない情報で人を断罪し排除するのも、多分普通のことなのだろう。そういう私もそうだから。
そしてもちろん、善し悪しの判断や、それを伝えて空気や制度にしていくことは、より良くなるためには必要だろう。不当に虐げられている人たちの力になることは、大切だと考える。
ただ、一方で、多くが明らかになっていない段階で断罪された場合、それが間違っている可能性があることを、忘れてはいけないと思う。また、断罪している相手のように自分はならないというのは、随分傲慢ではないかと、省みることも必要だと思う。
酷い奴や酷い事件が増えたのか、ただ単に発見されやすくなっただけなのかは、分からない。しかし、そういったニュースの総数は増え、それらに対して憤ることも増えているように感じる。目にする数が増えれば判断する数も増えるから、更に短絡的な「これは酷い」という結論も増える。そして、そういった結論が増えれば当然間違いも増える。そして、それらの間違った結論が発見されることも増えていく。酷い奴(とラベリングされた)への攻撃は強くなっていく。
と、このように一部、社会学っぽく書いてみた(タイトルはSNSで増す不寛容かな)が、もちろんこれは私の感想に過ぎず、なんのデータも示してはいない。「攻撃が強くなるって何だ?言葉と数字で説明してくれ。」というツッコミどころが満載だ。しかし、個別の事案に対して善い悪いを短絡的に付けていくだけではない、引いた視点は、たまには必要だと考える。自分、社会学の学士だし。
私も多くの人も、自分が善い人でありたいし、不当に不利益を被っている人たちを救いたいだろう。また、酷い奴にはそれ相応の報いを受けてほしい。出来れば自分から遠ざけたいと思うだろう。だからこそ、「これは酷い」や、「酷いやつだ」の判断には慎重でありたい。その判断が間違っているかもしれないから。その判断で良い気持ちになっているのは、自分だけかもしれないから。間違った攻撃をして、自分が酷いやつになるかもしれないのだから。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
コメデイタッチのファンタジー
私が書いたアマゾンのレビューで、何故か一番多く皆様から「いいね」がついている投稿です。未見の方はぜひどうぞ。
グランド・ブダペスト・ホテル
<主人公とストーリーについての勝手な考察>
主人公は一流ホテルのコンシェルジュに相応しく装うために、香水と詩を振りまく。そうしないと、どこかで育ちのボロが出てしまうことを、自分で分かっているからだ。捕まった後の脱走後にベルボーイの不備を知り、どなりつける場面がある。あれは自分自身もまた、育ちに対する劣等感があったからなのかもしれない。
盗んだ絵も、素晴らしいと言っておきながら売ってしまうつもりだし、コンシェルジュでの仕事でのお金持ちの「お相手」も、ビジネスライクだ。心が通うような何かを、手にできないでいる。
だが、彼にはたくましさとやさしさがある。検閲や刑務所で屈しないし、お客ではない人たちにも、気配りとやさしさを随所で見せる。だからこそ、刑務所からの脱獄で手を貸してくれる人がいるし、その後も同業者からの助けを得る。
そして、それはベルボーイに対しても、その結婚相手にも、伝わっている。「尊敬している」と言われたとき、彼はホテルのお客からお礼を言われるときよりも、嬉しそうな顔をした。
香水や詩がなくても、誰かから信頼してもらえることが分かったあとは、お金はそこまで重要ではなくなったのだろう。だから、最後の列車の場面でも、二人が寄せてくれた信頼に応えようとしたのだと思う。
現実は嫌気がさすことがあり、自分自身もまともな人間じゃないと分かっている。美しい詩のようにはいかないと知っているから、生き急いだようにも見えた。ミステリー仕立てにはしているが、コメディタッチのファンタジーの物語だ。たくましさとユーモアとやさしさで現実に抗い、人を信じようとした、ちょっと悲しい男の話だ。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
見直される「手当ての力」
前回、よく分からないものをまた書いてしまったので、今回は久しぶりに整体の話題を書きます。
今回は見直される「手当ての力」について、ご紹介します。桜美林大の山口創先生の書かれた「手の治癒力」を参考にしています。しかし、丸写しではなく私の見解も入っています。誤りがある部分もあるかもしれないことは、ご承知おき下さい。
☆結論:手当てによる心地よさは、「疲れ、痛み、不安、イライラ、を緩和する作用」があることが、現代の科学でもわかってきています。それは脳からの作用であり、オカルトではありません。
手当てによる「心地よさ」自体は、なかなか数値で表しにくいものです。しかし、「感覚」は皮膚を介して脳に伝わることは、分かっています。そして、この脳への「心地よさ・快の触刺激」こそ、様々な効果を生み出す基になります。
手当て・マッサージをすると心地よさ・触覚は脳の視床下部を介し、自律神経の活動やホルモンに作用します。介入のばらつきが大きいので、検証は難しいようですが、副交感神経の活動は心拍から、ホルモン量は血中からそれぞれ数字で表せます。
ストーリーとしては、心地よさを感じている状態は、脳・体の機能としても、「今は回復の時間だな」と捉えることになり、より「休息の状態」を促すようにしていきます。胃腸の活動が活発になり、免疫活動が高まります。施術中におなかが鳴ったり、眠くなるのも、このためです。
つまり、ハンドパワーのようなオカルト的なもので体が良くなるのではなく、脳からの自律神経やホルモンへの作用によって、免疫と代謝の活動が上がるので、体が回復していきます。ヒトの持つ自己治癒力が発揮されることになります。
心地よさは数値化しにくいものです。ですが、実感として「心地よい」「楽になった」と感じる気持ちの変化が、体に影響していきます。そして体の回復は脳へと、相互作用が働いていきます。結果として不安やイライラの軽減、心の回復にもつながっていきます。
このようにサイエンスで、手当て・マッサージの効果に関する仕組みや、数字での検証がなされてきています。また、実感としての心地よさは、人々に「良きもの」として、受け入れられ、続けられてきました。それは、食べ物がおいしいと感じるように、心地よさが脳や体の回復をもたらすものとして捉えられるように、元々デザインされているからかもしれません。
気楽に屋では「トリガーポイントリリース(ソフトな指圧)」を手技として主に用います。その土台となっているのは「手当て」です。それは手当てがサイエンスの裏付けを見ても、自分の実感としても、また施術の効果の印象としても、有効であることが多いと感じているからです。
心身を癒やし、明日への活力となる「手当て整体」ぜひ気楽に屋にお越しいただき、お試し下さいませ。初めての方は60分コースがおすすめです。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
けがない
あなたの生活に気楽時間 気楽にブログのコーナーです。久しぶりに「らしさ」出ました。
何?アニメが好きだから日本語を覚えたい?そうか、じゃあ日本人歴45年の私がレクチャーしてやろう。
物の名前、これはもう覚えてくれ。そういうものだ。だが、同音異義語があるからな。それだけ気をつけてな。例えば「そば」「こい」「むち」なんかあるんだけども。場面によって、どっちのことかわかるようになってくるからな。え、explain?だからそうだなあ。
「そばがいい」って言っても「側が良い」のか「蕎麦が良い」のかってことだ。「あなたのそばがいい」っていうなら恐らく7:3で「側」のほうだ。そうそうby your sideだよ。
まあ、あとは「ちいさなこい」とかな。「恋」と「鯉」な。これだけだとどっちかわからないけど、これが「小さな鯉のメロディー」だと、なんか変だろ。まあ、これはこれでメルヘンチックだけども。
最後に「むちでもいい」って、これはなかなか場面が想像し辛いけどな。「無知でもいい」と「ムチでもいい」ってな。なんか開き直っているときな。突然のカミングアウトを受けることがあるかもしれないが、まあ色んな人がいるからな。そうそう、Queenな。
まあ、とにかく場面とか文脈で判断だよ。でも、実は勘違いしてもいいからな。そこから笑いが生まれるから。「大丈夫?けがなくってよかった」とかな。「毛ならありますよ」って言ったらたぶんウケてくれるぞ。
ん?だから、「怪我」と「毛が」で、いや、「毛」と「が」ね。「が」は助詞ね。
え?「私は言う」と「私が言う」の違い?ちょっと待ってくれ、え、何だろう?わからんぷう。
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カミュの手帖から
「気楽に屋」としているものの、世の中の出来事も、私の生活も、気楽なことばかりではもちろんない。仕事、子育て、人生、、この世界の捉え方、自分の身の置き方、それらに迷ったときのヒントになるかもしれないと思い、
以下、「カミュの手帖」アルベール・カミュ著 大久保俊彦訳 新潮社 から3つ抜粋して紹介したい。
「この世界の悲惨と偉大―この世界が決して真実を与えるのではなく、愛の対象となるものだけを与えること。不条理が支配し、愛がそこからぼくらを救い出す」
「世界から離れないこと。人生を光の中に置いていれば、やり損なうことはない。状況がいかなるものであれ、たとえ不幸で幻滅を感じていても、ぼくの一切の努力は触れ合いを取り戻すことにある」
「全身全霊をこめて関わること。その後で同じように力強く、諾と否とを共に受け入れること」
自分の聖書(バイブル)という言葉がある。特定の信仰を持たない人にとっては、困ったときに頼りになる本がそれである。私にとってそれは、カミュの手帖だ。
ネットで調べてみたところ、どうやら今も古本屋案件のようだ。そして値段も高い。でも、この希少性もまた良きかな、というところだ。多くの人のバイブルとなるには、それではいけないが。
私はこの本を哲学者の中島義道さんの本で知り、もう大分前だがネット経由で手に入れたのだった。カミュは異邦人のムルソーにちょっとシンクロしてしまう自分が居て、結末を考えると危ないなと思い、少し距離を置いていた。最近Xで流れてきた記事で彼の写真を見たら、パンクバンド、「ザ・クラッシュ」のジョー・ストラマーにそっくりでかっこよかった。
カミュの手帖は何しろ分厚いし、前後のつながりもないので、通読するのは厳しい本だ。私は気持ちが向いたときにページを繰り、心に引っかかった箇所に印をつけておく読み方をしている。
何だか心に入ってこないで字面を追っている中で、急に文に掴まれる感覚がある。前に読んだときは素通りしたのに、なぜか引っかかることもある。
そして、前に印をつけた箇所も、読むときの自分次第で染み込み方が変わる。「こういう心持ちでいこう」とか、「自分が思うことが言葉となっている」とか、感動は都度やってくる。
現実に向き合うとき、「具体的な手段」と共に必要なのは、「支えてくれる言葉」だと思う。
例え不条理が支配しようとも、世界と関わり、自然や人と触れ合いを持つことを求め続ける。そんなたくましい力が欲しい。それが愛なら、愛が欲しい。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
