気楽にブログ
聴こえてくるでしょう?鈴の音が
子どもの質問に余裕で答えられる。そんな大人になりたいと思う。だが、質問と言っても「どうして空は青いの?」とか「どうして海の水はしょっぱいの?」とか、そういう類のものではない。まあ、私はそれらにもうまく答えられないのだが、ネットの力を借りればそれらしく答えられるだろう。
そうではなくて、私が自分の子どもからの質問として想定しているのは、説明が様々できる事柄だ。例えば
「死んだらどうなるの」「何で食べるために動物を殺すの」「赤ちゃんはどうやって生まれるの」 といったものだ。これらの質問をされたとき、どう答えるかは「大人としての実力」が試されると考えている。教えや経験、学びから、これらの質問に「自分の言葉で」答えることは、そのまま自分がどういう人間か、どういう人生を生きてきたかを表すと思う。
と、思い切りハードルを高く上げておいて、今日は特に飛び越えずに下をくぐることにする。ただ一つ考えているのは、「物語のような説明と科学の説明とごちゃ混ぜにして伝えたら良かろう」ということだ。分からせるために伝えるのではなく、問いが続く問いなのだと知ってもらうことが重要だ。と考えている。
というわけで、もう少し軽い質問なら娘からきた。
「パパ、サンタさんて本当にいるの?」
それに対し、子どもが小さいうちは「もちろんいるよ、いい子にしている子のところには来るよ!」と、ズルさを発揮するのが大人だ。私なんぞ「いい子にしていないとサンタさん来ないよ。早く歯を磨きなさい」とまで言っていた。困ったものだ。
そして、子どもが小学生ともなると、向こうも知識が増えてくるし、疑うことも覚えてくる。こちらは「信じてない人には来ないよ!」などと、つい言ってしまいたくなる。が、これは良くないと思う。これをきっかけに「大人は嘘をつく」という気づきを得られるかもしれないが、なにもそれが親である必要はないだろう。
まだ信じているか、もう信じていないか探りを入れつつ、信じていそうなら「もちろんいるよ!」で、まだギリギリOKだろう。
だが、「だって何億人の子どもに一晩でプレゼント配るなんて無理でしょう?」と言ってきたらもうだめだ。「実はね、、パパがサンタなんだよ」の展開だ。しかしだ、さっき述べたように「今まで嘘をついていた」というのは決まりが悪い。そこで、私は娘にさらなる嘘をつくことにした、いや、ファンタジーを創作した。
「実はね、サンタさんはいるんだ。でも配るのは流石に無理でしょ。だから、世界中のパパやママがサンタさんに頼まれてプレゼントを用意しているんだ」
これならサンタの存在を否定してはいない。しかも、パパがプレゼントを置いていることとも矛盾していない。我ながら素晴らしいでっちあげ、もとい、ストーリーだと思う。間違ってもここで、「サンタはいる。不在の証明は難しいのだ」などと、やってはいけない。有効な説明になる子どもも、中にはいるかもしれないが。
かくして、サンタは存在することになった。「あるものはある」「いるものはいる」それでいいじゃないか。親の愛情と子どもの期待がコンステレーションとして、表れているのだ。
やがて、この説明も無理があることに気づかれるだろう。サンタは実在しないと知るときがくるだろう。だが、その頃には彼女も気づくのではないだろうか。「大人たちがサンタがいるとしている」のだと。サンタがいると皆が思うことで、それは実在してはいないが存在しているのだと。そして、それは子どもたちへの愛があるからだと。
「サンタがいる」「神様がいる」「天国がある」そう思うのは、人の心(脳)があるからで、本人がそう思っていれば、その存在を他人が否定することはできない。実在しているかは分からないが、存在している。それは人それぞれでもある。「いるかいないか、あるかないかは、大事なのかもしれない。でも、もしかしたらそれは、問題ではないのかもしれない」
いるとしたら、あるとした、どんなストーリーになるのかな。そんなことからも世界を捉えられる人になってほしい。何かを信じている人に寛容になって欲しい。だから私は娘のためにサンタのお話をでっち上げる。もとい、ファンタジーを創作する。(繰り返し)
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
星が見たいなら宮ケ瀬へ 腰が痛いなら気楽に屋へ
今年もM-1グランプリが近づいてきましたね。私はサンドウィッチマンが優勝したときが印象的で、その後もずっとファンです。というわけで、私も架空のコンビでコントを考えてみました。注:実際のお二人とは一切関係ありません。フィクションです。
「整体院」 作:気楽に屋(サン仲村)
だての部屋
だて「ちくしょー、腰いてーなー。ゲームやりすぎたかな」「あ、そうだ、整体に行ってみるか」「どれどれググって。お、ホットペッパーでも予約できるんだ。どこがいいかなー」
スマホをスクロール。
「ん、気楽に屋か。名前は良いけど、、このメガネなんか胡散臭いな。口コミも少ないし。違うところにしよ」
再びスクロール。
「とみざわ整体院か。お、こわもて。こういう本格的な先生が良いんだよな、ここにしよ」「よし、予約完了。早速行ってみるか」
場面は整体院へ。
だて「すみませーん。さっき予約した、だてです」
とみざわ、悠々と登場。
とみざわ「とみざわ整体院へようこそ。院長のとみざわです。どうぞこちらへ」
だて「(お、ガタイもいいし、よさそうだな。)よろしくおねがいしまーす。」
とみざわ「今日はどうなさいましたか?」
だて「実は昨日から腰が痛くて」
とみざわ「星が見たくて?」
だて「いや、腰が痛くて!」
とみざわ「そしたらここじゃなくて宮ヶ瀬ダムに行ったらいいですね。行き方は、、」
だて「おい、だから星じゃなくて、腰だよ!何で星を見に整体くるんだよ、大丈夫かなこの先生。」
とみざわ「あー、腰ですか。それなら当院にお任せ下さい。どこに行っても治らない方が、沢山いらしてますので」
だて「そんなにどこに行っても治らない人って多いんですか?」
とみざわ「そうです。どこに行っても治らない人が多いから、どこに行っても治らない人をどこの整体院も集客しているんです。」
だて「え?でも、どこに行っても治らない人が多いってことは、結局どこに行っても治らないってことなんじゃないの?だから順番に回っていって、、」
とみざわ「もー、どこどこうるさいなあ、お客さん。いいから座って」
だて「あ、その前に。ここってボキボキします?ユーチューブで見て。あーいうのやって欲しいんですけど」
とみざわ「うちはボキボキはしませんね。ポリポリぐらいですね。」
だて「ポリポリ?」
とみざわ「そう、指先でポリポリ。西海岸じゃ今このスタイルですよ」
だて「西海岸?カリフォルニアとかですか?」
とみざわ「いえ、熱海とかあのへんです。」
だて「何かなー。てか、熱海は東じゃねえのかな」
だて、訝しがりながら座る。
とみざわ「腰痛と言っても肩が原因のこともありますからね。どれ」
だて「そういうもんなんですね。知らなかった。」
とみざわ「うわ、かったー」
だて「あ、固いですか?」
とみざわ「いや、肩ーって部位を言っただけです。」
だて「まぎらわしいな!!なんで、うわ、なんだよ!」
とみざわ「でも張ってますよ、トラピージアスが」
だて「何すか、それ?」
とみざわ「あ、ごめんなさいね。筋肉の名前をラテン語で習ったもんで。僧帽筋のことです」
だて「そうなんですね。さすがプロですね」
とみざわ「ここも固いなー。ラプラスが」
だて「ん?」「ポケモン?」
とみざわ「お、ここもだ。ゼルネアスがパンパンだよ」
だて「いや、それ絶対ポケモンでしょ!?」
とみざわ「ちょっと何言ってるかわかんない」
だて「おい、ほんとに筋肉わかってんのかよ!大丈夫かこいつ」
とみざわ「そうしたら腰を診ますね。うつ伏せでお願いします。」
だて「肩はもういいのかよ。まあ、いいや。お願いします。」
とみざわ「これは骨盤が」
だて「やっぱり歪んでますか?」
とみざわ「淀んでます」
だて「淀んでる?淀んでるって何!?」
とみざわ「淀みが5ですね。あと、もつれてます。と、もつれ8」
だて「もつれ?骨盤ってもつれるの?」
とみざわ「もつれますよ。毛糸と毛糸みたいに。もう大変ですよ」
だて「うわー、それはやばい、だから痛いんですね!早くほどいてください」
手の込んだコミカルな施術。
とみざわ「これでよし、淀み2、もつれ3になりました」
だて「え、その数字、どうやって測ったんですか?」
とみざわ「これって私の感想です」
だて「何だそれ!あ、でも腰あんまり痛くないかも。すげー。」
とみざわ「誰がさわっても、気持ちよければ大体良くなるもんですから」
だて「それ、言っていいんですか?」
とみざわ「はい、じゃあ今日の施術は終了です。でも、だてさんの場合は根本はまだ治ってないので、あと5回通いましょう。」
だて「根本ですか。その根本が良くなれば腰が痛くなくなるの?」
とみざわ「そんなわけないでしょう。痛いときは痛いですよ」
だて「なんだよそれ。じゃあ根治ってどういう意味だよ。」
とみざわ「今なら5回の回数券で6回通えますから」
だて「いや、いいよ買わないよ。1回余計だし。とりあえず今日はもう帰るよ。」
とみざわ「そうですか。でも、この回数券に書いてある数字を入れないと、お帰りのドアが開きませんけど」
だて「なんだそれ、いいかげんにしろ。そのドアぶち破って帰るわ!もういいよ!」
ふたり「どうもありがとうございました〜。」お辞儀して終わり。
*注 あくまで私が考えたネタであり、こんな整体院はありませんからご安心ください。
あなたの暮らしに気楽時間
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
そして、心の琴が鳴り響く
物語の流れは いつもそっと消えて 振り向いた瞬間 何も見えないよ「救われる気持ち」ザ・フィッシュマンズ
心の琴線にふれる。そんな表現があります。私がこれを「ことせん」と読んでいたことは秘密です。正しくは「きんせん」ですね。心には琴があり、その弦が揺れると響くのです。感動は振動であり、それは音楽となるのです。
私は町田市にある都立M高校に通っておりました。そこでは6月頃に、合唱祭がありました。「テニス部のキャプテンは毎年、クラスの指揮者をやる決まりだから」そう先輩に言われ「うす、度胸つけまっす!」と軽はずみな私は、めでたく指揮者となりました。
歌うことは好きだったのですが、指揮者なんぞやったことはなく、後悔し始めた頃には「時すでにIt’s too late」練習が始まってしまいました。近くの市民球場にクラス毎に集まって、6月の明るさが暗くなる時間までの練習は、さぞ近所迷惑だったと思います。今では、もう「球場練」は、行われていないのではと推察します。90年代、世間はまだまだ寛容でした。
私は部活で疲れたふりをしてかったるそうにし、吹奏楽部の女子が「早く練習しようよ」と言ってくれるのを待っていたものでした。なんでしょうね、あの女子を困らせたいという気持ちは。まじめがかっこわるい、みたいな感じは。
そうです、そのときピアニカを抱えた吹奏楽部の子に、しっかりと指揮者の何たるかを教わっておけば良かった、のに。練習では何となく良い感じだったので、私はすっかり調子に乗って本番を迎えたのでした。
そして当日。ものの見事に緊張し、あわあわあわ。と3回くらい泡を吹いたのは、練習のときと違い、私の立つ指揮台から歌うみんなが遠かったからです。天使にラブソングをのウーピーゴールドバーグのように、にっこりしてから指揮を始めるつもりが、竹中直人の「笑いながら怒る人」みたいな顔になっていたと思います。
物理的な距離は、心を遠くする。
私は練習のときに、音の響きを聞いていたのではなく、皆の表情を見て指揮をしていたのでした。それが良く見えたいとなると、頼りがありません。ノッている感もありません。不安なまま、手応えなく終えました。「表情が見えない今こそ、耳をすませてみんなのVIBESを掴め!」と、映画やドラマのようにはいきませんでした。見て感じるのも大事だけど、聞いて感じるのも大事だよん。
指揮はうまくいったのか、合唱はうまくいったのか、まったくわからないまま終わりました。皆もなぜか私に声をかけてくれません。「やっちまったか」と、落ち込みかけたそのときです。
「陽ちゃん、良かったよ」
S君が声をかけてくれたのです。そんなに親しかったわけでもないS君。でもその一言で、本当に救われた気持ちがしました。
結局、確か総合2位という順位で終わり、みんなで仲良く打ち上げに行きました(どこに行ったかは今では書けません)。歌声はあのとき会場に離散してしまったし、課題曲の歌詞もメロディもあんまり覚えていません。でも、S君のかけてくれたうれしい一言は、私の心にずっと残っています。
勇気が出ないとき、くじけそうになったとき、自分をもう一度信じたいとき、思い出すのは誰かが言ってくれた、そんな一言です。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
気楽にね☆
今年ホットペッパービューティーのブログに載せたものです。今読み返すと、なぜこんなに自分は力んでいるのか謎です。。
ネガティブに屈せずに思いを言葉にする。例として一つご紹介します。手塚治虫「ブラックジャック」からの引用です。自分の仕事の意味を問われ、ブラックジャックは思いを言葉にします。
「それでも私は人をなおすのだ、自分が生きるために!」ここで言う生きるためにというのは、お金を稼ぐため、というよりも、自分が自分であるために仕事をする、ということだと思います。彼が高額な治療費を要求する理由は、他にあると私は考えています。
このように、強い思いとそれに伴う言葉は、力です。パワー(なかやまきんにくん)です。続けられる理由となり、そしてそれは夢につながります。でも、それはまた、両刃の剣でもあります。自分も相手も傷つけるかもしれません。
相手への思いの強さは、強い分だけお互いの負担にもなるものです。それは注意したいところです。魔女の宅急便での「私このニシンのパイ嫌いなのよね」の、例もあります。思いが届かないことも、世の中いろいろあるものです。
そして、思いが形になったとしても、グスコーブドリの伝記のブドリのように、または銀河鉄道の夜のカンパネルラのように、自己犠牲が過ぎたら、それは悲しいことにもなりかねない、と思うのです。
「利他」や「仕事」に関して、つらつらと書いてきました。私的なブログ感が出てきましたので、ここから、気楽に屋の集客につながるように持っていきます。誰かのために働ければ、自分も嬉しくなれるし、元気にもなれます。だからこそ、頑張り過ぎには注意なのです。「頑張りすぎのダメージは、蓄積しすぎると体を壊してしまいます。適度に休息を取りましょう。」これこそ、私が持っていきたい結論でした。労りのすすめでした。
だから、ここで文字を大きくして、えーと、出来ませんでしたが、「頑張って疲れてしまったら、どうぞ気楽に屋へお越し下さい!」と、最後に記して終わります。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)
町田にはリス園がある(どや)
今年は「翔んで埼玉2」が公開されて話題となった。主演のGACKTさんが「くだらない、と思える時間や作品があっていい」というようなことをインタビューで答えていて、度量の広さに私は敬服した。
興味が湧いたので早速劇場へ行き、ではなくて「翔んで埼玉1」をアマゾンプライムで観た。そして、面白かった。自分が好きなシーンは埼玉と千葉が川を挟んで対峙し、自分の県の出身有名人を掲げるところだ。高々と掲げられる「高見沢俊彦」。おおー、というどよめき。最高におかしい。
そして、エンディングに流れた「はなわ」のさいたまの歌もすばらしかった。歌に乗せるから、歌詞のおもしろさが増す。あまりの出来の良さに、思い切り嫉妬した。
と、笑える時間で終わりで良いのだが、この作品のメッセージを勘違いして受け止めていこうと思う。誰の言葉かは忘れたが、「作品の解釈は観客がそれぞれすればいい。」のだ。
私はこの作品から「争い事の可能性とその回避」について考えた。家族愛、郷土愛、厚木愛、それらはあってしかるべきものだろうし、私も持っている。だが、それは他との対立を生むきっかけともなり得る。自分や自分に近いものと「違うもの」に対して、どう接していくかは、いじめや戦争とも関連があると考える。いや、わりとまじめにそう思っている。
我々は寛容や愛があるとともに「対立」や「競争」も起こしやすい。これは子どもの頃を振り返ると、例えばドッチボールのクラス対抗でも、「メラメラしたもの」はすぐに起こる。何なら、じゃんけんで決めたチーム分けでもすぐに起こる。普段は仲が良い友達だとしても、「敵チーム」に決まった途端、倒す相手となり得るのである。
「敵である」ということに決まった途端、誰かを「自分で」敵にしてしまう、これは良く考えると怖いことだ。世の中に色んな争いがあるが、「敵と決まったから」という要素も少なくないと私は推測する。そこにもってチーム内で仲間意識が高まれば、もちろん敵意識も増加する。加えてお互いが悪者扱いや忌み嫌うものとして扱えば、益々煽るのは容易で、勝手に競い争い合う。
映画では都知事と神奈川県知事が共謀し、埼玉と千葉を対立させたが、このような「仕組まれた対立」にはよっぽど注意しないといけない。敵とみなして対立するのは、生物学や社会学を持ち出さなくても、自分を振り返れば簡単に起こり得ることだと分かる。「メラメラしたもの」はスポーツやビジネス競争において必要だが、注意も必要だ。
もちろん映画はフィクションでファンタジーである。だが、現実でも「対立は起こりやすい」。極端に言うと、いじめも簡単に起こるし、戦争も簡単に起こる。
敢えて極端に言ったのは、対立は起こりやすいものだという認識を持てば、その回避もしやすくなると考えからだ。更に「仕組まれた対立」に対しても敏感でありたい。「何で争っているんだっけ?」と冷静になる時間や、寛容さや愛を広げていくことも大切だ。世の中はゼロサムゲームだけではないのだと、知っておきたい。もちろん良きライバルの競い合いなら、対立も悪くない。
最後に
たとえ対立したとしても現実に埼玉と千葉が血を見るような争いは起きない。何故起きないのか、その回避できている術が応用可能ならば、国家間にもぜひ応用したいと考えた。
手当て整体 気楽に屋(KIRAKUNIYA)